この世界で認知症の検査を行う
「中川先生、長谷川式できる?」
「はい、やります」
以前の世界での僕の名前は、中川昇。
僕が、まだ研修医二年目のときのことだ。僕は当時、精神科に配属されていた。そして、指導医は黒木朋美。一学年上で、既に精神科医として働いていた。当時は僕たちはまだ付き合っていなかった。
そして、このとき外来に85歳の「うつ症状」の患者さんが訪れてきた。高齢の「うつ症状」の場合、背景に認知症が隠れていることがある。このときも、まだただの先輩であった朋美に言われて、認知症の簡易検査である「長谷川式スケール」を僕がやることになった。
「じゃあ、谷本さん。長谷川式のキット持ってきて」
「はい、わかりました。中川先生」
長谷川式スケールという検査には、そのために必要なものが揃ったキットがあり、どこの外来にも置いてある。ところがこのときは、なかなか看護師の谷本さんが戻ってこなかった。
「谷本さーん、長谷川式ありそうですか?」
「いや、それがですね。なんだか昨日あたりから見つからないみたいで。すぐに出てこないかもしれません」
谷本さんの申し訳なさそうな声が、奥から飛んできた。
「しょうがないわね。後でやることにしますか」
「いや、僕、なんとかやりますよ」
確かにキットがあったほうがやりやすいのだが、内容的には大したものではない。
長谷川式スケールの内容を、ネットで検索すればやることは可能だ。
そして、その後僕は外来のパソコンで検索して、長谷川式スケールを行った。そのときのシーンを思い浮かべれば、この世界でも長谷川式スケールは使えるはずだ。
以前の若い研修医の頃の僕。まだ恋人同士ではなかったときの、しっかり者の先輩朋美。西日が差して妙に明るく、暑い外来棟。扉を閉じても伝わってくる、待合の患者さん達の熱気。わずかな消毒の香。
まるで昨日のように思えるけれど、それはもう戻らない世界。
でも、僕の記憶は、きっと写真のように隅々まで残してくれているはずだ。
見えてきた。
記憶の中の、パソコンの画面。そこに長谷川式スケールの内容がしっかりと書かれていた。
僕は懐から酒のラベルを乾かして作ったメモ帳を取り出して、その内容を記していった。
これで、こちらの世界でもルーラに認知症の検査ができるはずだ。




