この世界で薬を作る
自分で薬を作ればいいんだ。
僕が思いついたアイデアは、実に単純なものだった。ただ、問題は具体的な方法だ。精神科で使う薬物には、多種多様なものがあるが、ほとんどは工場で合成されるものである。当然この世界には工場などない。また自分で合成するような技術もない。
すると方法は一つ。代用品を用いる。
ゾロのおやじさんは眠れなくて困っているわけだから、まず睡眠薬の代わりになるようなものを作ればよいのだ。それは簡単に思いついた。「酒」だ。幸い僕が上がり込んでいるのは、酒場も兼ねた宿屋だからありとあらゆる酒が手に入る。
精神科で最もよく使われている薬の一つに、ベンゾジアゼピン系の薬物がある。その多くは睡眠薬や、不安が強いときに使う抗不安薬として用いられる。この薬物はGABA受容体というところに作用し、その意味ではアルコールと似ている。本来、アルコールは依存性などの問題があり、睡眠薬代わりに用いるのは望ましくはない。ただ、他に代用品の無さそうなこの世界で、睡眠薬として用いることは可能ではないだろうか。
この世界で「酒」と通用している物が、以前の世界の酒と同じく「アルコール」を主成分としているのかという問題があるが、おそらくそこは大丈夫だろう。ここの女主人を見てもわかるように、この世界でも「酒」を飲むことで明らかに人は眠くなっているように思える。そしてあまり大声では言えないのだが、僕は女主人が寝付いた後に、こっそりばれない程度に店の酒を嗜んでいる。飲んだ時の感触は、以前の世界の「酒」となんら変わらないように思えた。
また、酒は種類によって吸収するまでの時間、分解するまでの時間が異なる。寝つきが悪い人には吸収するまでの時間の早いもの、途中で目が覚めてしまう人には分解するまでの時間が早いものを多くブレンドすれば、その人の不眠のパターンに合った「睡眠薬」が作れる可能性がある。
そして、僕はこの思いつきに夢中になってしまった。以前の世界では僕は精神科医だった。苦労して医学部に入り、なんとか卒業した。医師国家試験にも合格し、苦しかった研修医生活(今の生活を思えば天国のようなものだが)を経て、精神科医局に入局し、何年かしてやっと一人前になったのである。
この仕事は僕にとって、天職に思えた。辛いことや苦しいことも人並みにはあったが、それ以上に人の役に立てているという感覚が、朋美の存在と共に毎日の生活を明るく照らした。
その全てが、この世界に生まれ落ちることで無くなった。今の世界では、(実際には充分役に立っている気はするが)女主人には無能呼ばわりで、最も重要視されている冒険する能力は皆無だ。しかし、薬が作れたら、そしてここにいる人々の心の問題をケアできたら、僕は自分の能力をこの世界でも生かすことができる。ただ生き続ける以外に何の希望も持てなくなった僕が、また精神科医として生きられる可能性がある。夢中になるに決まっているのだ。
そして僕は手始めに、ゾロのおやじの不眠症を治そうと心に決めたのだった。