最後の手紙
「ルーラさん? ルーラさん?」
僕は慎重に階段を降りながら、久方呼んだことのない、もしかすると口にするのは初めてかもしれない女主人の名前を呼んでいた。しかし、何も返事は返ってこない。宿はひっそりと、完全に人の気が消えていた。
僕は一階に降りて、キッチンに向かった。普段は客に出す料理の仕込みで、僕とルーラがばたばた走り回っている場所だ。その中央の巨大なテーブルには、沢山の皿や食材が置かれているのだが、今は違っていた。綺麗に並べられたいくつかの料理。その上には虫と乾燥よけの布が被せられていた。料理の両サイドには、カトラリーが綺麗に並べられている。
料理は既に冷え切っているようだが、ほのかに、美味しそうな匂いが交わりながら辺りを漂っていた。野菜の香、肉の香、魚の香。それらを煮たり、炒めたり、煮込んだりしたときの香。普段残飯ばかり食べていた僕は、嗅覚が鋭敏になっているのだろう。本来はうっすらとした匂いのはずだが、僕の鼻にはむせ返るほどの「美香」に感じられた。匂いが直接鼻から脳に突き刺さってくるような、そんな感じだ。
つまり一言で言えば、「ヤバいぐらい美味しそう」だった。
料理の前には、椅子が一つ置かれていて、料理の手前にまた小さな紙が置かれていた。僕は椅子に座り、その紙を手に取った。
「おい、ねぼすけ。一生懸命、お前のために、早朝からこれを作った。思い切り味わえ。
これからここに大事なことを書く。
私、ルーラ・ペロスピは、本日をもってこの宿『プラム』の全ての権利をデュロ・ペロスピに譲る。
ちなみに、『デュロ』というのは、お前の名前だ。この村の古い言葉からとった。『消えることのない希望』という意味だ。赤ん坊のお前を、村の外れで拾ったとき、私はこの名前をつけた。
そして、謝りたい。
私はお前のことを粗末に扱ってきた。名前すら呼ばなかった。
しかし、それには理由がある。
情がわくと、辛くなるからだ。
また、私はお前をこき使った。でも一通りのことはできるようになっているだろう。
いずれ私が老いさらばえて、お前が自立できるようになったとき、
私はここをお前に譲り、立ち去ろうと思っていた。
お前に迷惑はかけたくないからな。
質素にしてきた分、少々の蓄えはある。それは裏の倉庫に食材と共にある。
自由に使え。
この宿は続けてもいいし、やめてもいい。お前の好きにしろ。
ちなみに私を探すな。
そして、最後に一言。
お前は無能なんかじゃない。デュロ。
今までありがとうな」
僕は、ルーラの手料理を一匙、口の中に運んだ。
口の中いっぱいに広がる味は、あの味にそっくりだった。
そう、朋美の肉じゃがの味に。




