僕が僕であるための時間
レクサが店を出た後、完全な静寂が重苦しく僕を包んだ。もう今日という日は全て終わりだ。そう思った瞬間に、猛烈な眠気と疲れが僕を襲う。あとはここを片付けて、屋根裏部屋の埃臭いベッドに戻るだけだ。ベッドに戻ったあと、本当はすぐにでも寝付いてしまいたいのだが、僕は敢えてベッドの上でゴロゴロっと過ごすことにしている。
この時間は、僕が僕であるための時間だ。この時間がないと、ひたすら働かされて、寝るというだけの生活になってしまう。たまにそういう日があっても良いが、毎日それが続くと、ボディブローのように僕の心を蝕んでいく。だから、毎日30分はベッドの上で寝る前にぼんやりと過ごすことにしている。
これは以前の世界での僕の生活習慣でもある。ただ今の世界にはスマホもテレビもない。本ぐらいはあるのだが、教会の神父に借りなければいけない。本の内容も呪文の唱え方とか、魔物の図鑑とか、武器や防具、アイテムについて書かれていた本だとかで、娯楽性は皆無だ。しかもそれらの本も、内容を覚えつくすほど何度も読んだ。娯楽に飢えているとそれですら楽しく思えるから、人間の適応力は大したものだ。
それでも僕はこの時間を必ず設けている。神聖なものと言っても良い。そしてこの時間は、朋美のことをよく考えていた。以前の世界なら、今日あったどうでもいいようなことを、ベッドでゴロゴロしながら彼女と語らっていた。
「ね、昇。今度の週末新しくできた担々麺屋さん行こうよ」
「本当に朋美担々麺好きだよね」
「担々麺、どれだけ食べても飽きないもの」
例えばこんな風に。今は朋美も担々麺も存在しない。でも、こうしてゴロゴロしながら思いを馳せることができる。
今日も本来は、朋美のことを考えようとしたのだが、そうはいかなかった。
レクサの治療をどうするか。まず考えを整理する必要がある。まず彼女の病名だが「パニック障害」で間違いないだろう。パニック障害は不安をベースとする不安障害の一つだ。突如として、過呼吸や動悸、眩暈、手足の痺れなどを主体とする多様な「発作症状」が出現する。この発作はパニック発作と呼ばれ、5分程度続く。
本人にとっては死ぬかもしれないと思うほどの症状で、以前の世界なら救急車を呼ぶ人もいるぐらいのものだ。ただ、精神的なものなので、身体に異常はない。発作は何度も突然起こる。そして「また起きたらどうしよう」という不安が常に頭に残るようになる。これは予期不安と呼ばれるものだ。そのうち、また発作が起きるかもという恐怖で、外出することが困難になる。
レクサに起きていることは、ほぼこのパニック障害と一致する。問題は治療だ。治療は主に、抗不安薬とSSRIと言われるタイプの抗うつ薬を併用して行うことが多い。抗不安薬は、ゾロのおやじに使っている睡眠薬の要領で、「酒」から代用品が作れるだろう。ただ、一番大切なのは抗うつ薬だ。残念ながら、この世界で抗うつ薬を作ることは困難だ。自然に生えている植物やキノコなどに、似たような効能があるものが絶対ないとは言い切れないが、それを探し出して薬として使いものになるようにするには、時間も能力も足りない。
すると、カウンセリング的な技術を用いて、彼女を治療するしかない。そのためには、その時間を作るしかない。しかし、女主人にこき使われている今の状況で、そんな時間は作れない。
どうしたら良いのか。僕はその方法を何度も考えながら、いつしか眠りに落ちていた。




