光源
十月中旬、中間テストの答案が返ってくるだけの憂鬱な金曜日がようやく終わった。
だけど、放課後の教室に漂う解放感なんて、私にはどこか遠い世界の出来事のようだった。
ホームルームの最中、担任の気だるげな声を聞きながら、私はカバンの底に突っ込んであった進路希望調査票の端を、指先でくしゃくしゃに丸めていた。来週月曜日が提出期限。二つ折りにされたA4の紙は、指の形に沿って不格好な癖がついているだけで、文字の書かれるべき欄は一箇所として埋まっていない。
先日、嫌々ながらも共通テストの出願書類だけは不備がないか何度も確認して、郵便局のポストに投函した。
お金を払い、封筒を滑り込ませた瞬間は「もう後戻りできないんだ」という重たい実感が少しだけあったはずなのに。今の私の頭の中は驚くほど冷めていて、まるで他人事の書類手続きを代行したかのような気怠さだけが残っている。
「私、やっぱり理学療法の専門学校にするわ。面談のとき先生にもそう言う」
前の席の結衣が、椅子の背もたれに体重を預けながら、あっけらかんと言った。
彼女の机の上には、色鮮やかなパンフレットが広げられている。西日が強く差し込む教室の中で、ページをめくる結衣の指先や、写真の中の清潔そうなキャンパスの風景が、やけに鮮やかに見えた。彼女の言葉には一ミリの迷いもなく、自分の人生のハンドルをちゃんと自分で握っている人間の手つきをしていた。
「あんたは?どこにすんのか決まったの」
結衣に振り返られて、私は反射的に膝の上のカバンを軽く引き寄せ、折り目のかさばる紙切れを視界から隠した。
「んー、まだ迷ってる。いくつか見てるんだけどねー」
口から出たのは、自分でも驚くほど滑らかな嘘だった。
共通テストの出願なんて形だけは済ませてしまったのに、私の頭のどこかは凍りついたように冷えていて、「へえ、結衣はそこに行くんだ」と、まるでテレビのドキュメンタリー番組でも見ているような他人事の感想しか湧いてこない。私自身の問題なのだと頭では分かっているのに、現実感がまるでない。
「ふーん。まあ面談来週だしね。決まったら教えてよ」
結衣は追及することもなく、すぐに別の女子生徒との会話に戻っていった。
グループの輪の中心で、楽しそうに先の予定を話し合う声が遠く聞こえる。私だけが、分厚いガラスの壁の向こう側にいて、すべてがうっすらとフィルター越しにしか見えていないような、妙な浮遊感があった。
逃げるように教室をあとにした。
昇降口でローファーを履き替え、校門を出る。十月の夕方の空気は、思っていたよりもずっと冷たかった。制服の薄いカーディガンを通り抜けて、皮膚の表面を小さく撫でていく。
駅前へ向かう人波に流されながら、私はなんとなくマクドナルドの看板を目指していた。特別お腹がすいていたわけじゃない。ただ、制服のポケットの中で揺れる五百円玉の使い道として、それくらいしか思いつかなかった。
自動ドアが開いた瞬間、甘いケチャップと揚がったポテトの濃厚な油の匂いが鼻をくすぐった。
店内の照明はオレンジ色に温かく輝いていて、レジの前には楽しそうに笑い合う他校の制服を着たグループや、イヤホンを耳に突っ込んで勉強道具を広げる高校生たちが溢れていた。誰もが自分の物語の主人公としてそこにいて、放課後の時間を心ゆくまで消費している。
その眩しさと賑わいに、足が一瞬すくんだ。
「いらっしゃいませ。ご注文伺います」
店員の明るい声に促され、私は逃げるように「Sポテトひとつ、テイクアウトで」と告げた。
トレーに乗せられた温かいポテトを受け取り、居心地の悪さを誤魔化すように紙袋を胸に抱えて、私はそそくさと店を出た。
店内にとどまって、あの眩しい光の中に紛れる勇気は私にはなかった。
駅から少し離れた住宅街へと続く歩行者専用の遊歩道は、駅前の喧騒が嘘みたいに静かだった。
街灯がぽつりぽつりと点灯し始めているけど、10月の冷たい風は容赦がない。手渡されたときにはあんなに温かかった紙袋から、歩くたびに勢いよく熱が奪われていくのが手に取るように分かった。
誰もいない木製のベンチを見つけ、そこに腰を下ろす。冷え切った木の感覚が、制服のスカート越しに太ももへ直に伝わってきた。
紙袋の中に指を突っ込む。指先に触れたポテトは、買った瞬間の誇らしげな温もりをすっかり失っていて、湿気でくたっと折れ曲がっていた。一口かじる。買ったばかりのときのカリカリ感なんてどこにもなくて、ただ冷えて脂っぽいだけの芋の味が、口の中に広がった。
素直に店内で食べていけばよかったなと地味に後悔する。
外の風が寒すぎるのか、自分のこの冷め切った感覚が不気味なのか、どっちなのか分からなかった。
周りのみんなは共通テストの過去問を解き始めたり、推薦枠を勝ち取ったりして、自分の未来を必死に手繰り寄せている。世の中のスピードに合わせ、前を向いて進んでいる。
それに対して、私の高校生活なんて、いつだってこの紙袋の底に残ったシナシナのポテトみたいなものだ。
「熱いうちに早く食べなきゃダメだ」と世界から催促されているようなスピード感にもついていけず、出願の手続きだけが無駄に進んで、中身の冷め切った心だけがただそこに置き去りにされている。
それなのに、どこか他人事なのだ。
「私、このままで大丈夫なのかな」という不安ですら、まるでどこか遠い他人が悩んでいるフィクションのセリフのように聞こえる。頭のどこかが冷え切っていて、私は私自身の人生にすら、本気で向き合えていなかった。
自分という人間の空っぽさと、この不気味なほどの冷めた感覚に嫌気がさして、重たい溜め息をついた。
冷えたポテトをもそもそと噛み砕きながら、ふと顔を上げたときだった。
「え、暗っ」
思わず、声が漏れた。
さっきまで空の端っこにわずかに張り付いていた橙色の光が、跡形もなく消え去っていた。
秋の日は釣瓶落とし、なんて言葉は授業で聞いて知っていたけれど、まさかこんなスピードで暗くなるなんて思わない。ほんの数分前まで見えていた住宅街の輪郭が、あっという間に深い濃紺の闇へ呑み込まれてしまった。
いつも見ていた夕陽って、こんなにも不親切な早さで沈むものだろうか。
誰もいない遊歩道で、私はベンチに座ったまま、不意に立ちすくむような感覚に陥った。
暗くなるのが早すぎて、心の準備もさせてもらえないまま、世界から自分だけが乱暴に取り残されたみたいな気分になる。
寒さに肩をすくめ、ポケットの中で冷え切ったスマホを取り出した。画面を立ち上げようとしたけれど、真っ暗なディスプレイに空っぽの充電マークが一瞬だけ浮かび、そのまま二度と光らなくなった。
自分を照らしてくれるものは何ひとつない。
私は自嘲気味に息を吐き、カバンの底から二つ折りにされた進路希望調査票を取り出してみた。
街灯の光もまばらな暗闇の中では、それはただのぼんやりとした白い四角い紙切れにしか見えなかった。名前を書く欄も、第一希望を書く枠も、暗闇に溶けて見えない。仮にペンを持っていたとしても、これじゃあ一文字も書けやしない。
「見えないじゃん」
ぼそりと声に出すと、それが初めて「自分の問題」として胸に刺さってきた。
他人のことみたいに眺めていたはずなのに、手元の白紙が闇に溶けていくのを見た瞬間、急に底知れぬ怖さがこみ上げてくる。みんなはちゃんと自分の行く先が見えているのに、私だけが真っ暗なところで立ち止まって、手元の白紙すら読めないまま、本当の意味で世界から取り残されている。
膝を抱えるようにして俯きかけたとき、ふと、その白い紙切れの向こう側。視界の端で、街灯の届かない空が妙に澄んでいることに気づいた。
引き寄せられるように顔を上げる。
そこには、言葉を失うほどの星空が広がっていた。
十月の冷えた空気のせいで、無数の星が気持ち悪いほどはっきり見えた。さっきマックを出て夕陽を探していたときには、影も形もなかった光だ。
綺麗だな、と思った。
でも、だから何だというんだろう。
綺麗な星空を見たからって、手元の白紙が自動的に埋まるわけじゃない。来週、担任から呆れ顔で説教される未来が消えるわけでも、自分が急に結衣みたいに要領よく目標を見つけられる人間になれるわけでもない。夜空はただそこにあるだけで、私の人生に奇跡なんて起こしてくれない。世界は相変わらず冷たいままだ。
少しだけ首が痛くなって視線を落とす。
やっぱり、十月の風の寒さは変わらない。明日もまた、周りと比べて勝手に落ち込んで、くだらないことで悩むんだろう。劇的な大逆転なんてどこにも落ちていない。
私は膝の上にあった進路希望調査票を、もう一度雑に二つ折りにしてカバンに突っ込んだ。
そして、紙袋の中に残っていた、一番ふにゃふにゃで冷え切ったポテトを口に放り込む。
冷えて脂っぽくて、お世辞にも美味しいとは言えない味。
でも、それを不機嫌に咀嚼している間だけは、さっきまでの気味の悪い「他人事」の感覚が少しだけ剥がれ落ちて、自分の足でちゃんと息をしている実感が戻ってきた。
みんなみたいに熱狂できる夢もなくて、要領よくまっすぐ進めなくて、この冷めたポテトみたいにだらしなく折れ曲がった生き方しかできないけれど。
別に、今すぐ無理にカリカリの完璧な人間にならなくたっていい。冷めてシナシナの不機嫌な自分のままで、真っ白な紙切れを抱えてダラダラと暗闇を歩いたって、誰に文句を言われる筋合いもないのだ。
「寒っ。帰ろ」
誰もいない遊歩道で、ポツリと独り言が漏れた。
相変わらず足元は真っ暗だし、未来の地図なんてどこにもない。
でも、すっかり冷え切った紙袋を握りしめて立ち上がった私の足取りは、ほんの少しだけ重くて、そして確実だった。
大層な奇跡も希望もない。
カバンの底で白紙のまま眠る紙切れと、冷めて脂っぽいポテトの不味さ。
「…まあ、なんとかなるか」
口の中でボソッと呟いてみる。
いや、違うな。
「…なんとかするしかないのか」
そんな、半ば投げやりで不器用な開き直り。
誰かに与えられた光じゃなく、自分の内側で勝手に燃え出したちっぽけでしぶとい熱だけが、これから歩いていく暗い夜道を、ほんの微かに照らす最初の光源だった。




