シガーキス
時計の針は14時を指しているのに、その場所は夕方のように薄暗かった。ビルとビルの隙間。真昼でも日が差さない場所に、3年前まではもうひとり日陰者がいた。しかし今では駒葉ただ一人きり。虚ろな目で、口から不自然に濁った息を吐きながら毒づく。
ーまっず
しかし煙草に火をつける手は止まらない。ライターをかちりと鳴らし、駒葉はかつて隣にいたもう1人の日陰者に思いを馳せる。このライターだけを置いていった名前も知らない女。今はその彼女もこんな毒の塊と薄暗い場所からすっぱりと縁を切ってしまった。
『不味いでしょ?』
繕うことを辞めたような低い声が聞こえた気がして、バッと右隣を向く。当然、そこには誰もいない。淀んだ空気も、そこにいる自分も何も変わっていないのに、女だけが足りない。初めて会った時、彼女が吸った後の煙草を口に突っ込まれた。その日以降、駒葉は不味いと思いながらも煙草を吸うようになってしまう。身体も心も蝕まれていると気がついた頃には、もう遅かった。ここから離れる、煙草をやめる選択肢はとうに消えていたのだ。その後、これが恋だと自覚する前に何度かキスした。なんなら、たった一度だけ最後までした。女は颯爽と彼のたくさんの初めてを奪っていきながら、差し出させておきながら、名前だけは教えてくれなかった。あの時間が永遠に続くと思っていたから、彼自身も聞く必要はないと思っていた。しかしあの女が消えてからになって、名前を聞かなかったことを後悔してしまう。
「末期ですねぇ」
駒葉は間延びした口調でそう呟き、感傷に浸る。その時、ばたんと少し乱暴な音を立ててドアが閉まる音がした。引き寄せられるように首が回った。彼は同じように怒りをドアにぶつける人を知っている。
『今日は早いね。そうだ、聞いてくれない?』
その言葉とともにあの女がやってくるという、ありえない期待をしてしまう。反射的にその方向に視線が引き寄せられた先にはあの女と同じ、赤リップの女性がいた。大人びているが、あの女より若い。彼女がこちら側に一歩近づくたび、顔が鮮明に見える。駒葉は視線を上げた。あの女と彼女はあまりにも似ていた。妖しく光を反射する艶やかな赤いリップも、よく手入れされた黒髪も。
『駒葉くん』
彼女の口から名前を呼ぶ声がする気がして、彼は目を見開いた。髪が肩の上で切りそろえられている。きっちりとシャツの第一ボタンを閉めている。目に光がある。あの女と違うところは何個も目に入るのに、否応なしに記憶の中の女が重なる。目を離すことができず、駒葉は彼女を見つめた。そんな彼に向かって彼女の白い指が口元の煙草に向かってすっと伸ばされる。
「美味しいんですか、それ。」
駒葉と目が合ったままなのが気まずいと感じたのだろう。彼女はそれを誤魔化すように問いかけた。女性にしては少し低めの声がまたあの女と重なる。
「不味いだけですよ。」
振り切るようにそう答え、愛想笑いを浮かべた。彼女も駒葉と同じような笑みを浮かべながら「そうですか」とだけ答え、ぼんやりと宙を見つめる。目線の先にはおそらく何もない。
―彼女に煙草を突っ込むわけにはいかないか
彼女の気を惹こうと一瞬思ったが、すぐにそれを否定する。あの女が自身にしたことは常識から外れていると重々承知しているのだ。しかし女のそういう無遠慮で奔放なところに駒葉は惹かれていた。彼に焼き付いた鮮烈な記憶の数々。あの女の代わりにできたなら、あの日々は戻ってくるはず。そう考えると彼女が身に着けている揺れるピアスからですら、あの女の影を感じてしまう。彼はベンチの端に移動する。彼女が気兼ねなく座れるように、あの女が座っていた場所と同じ位置に彼女が座るようにという配慮と下心だった。
「ありがとうございます」
小さな気遣いにすら丁寧に頭を下げる彼女に駒葉は面食らう。あの女はそんなことしなかった。当たり前のように厚意を受け取って、たまに気まぐれの優しさを返してくれる。そんな人だった。いつのまにかあの女と彼女を同一視していた自分に気がつき、駒葉は身震いする。軽く会釈をし、無理やり彼女から目を逸らした。彼女はあの女になれない。わかっているのに、彼女にあの女の影を見出してしまう。彼女を手に入れたいという思いが頭をもたげ、胸の中で燻った。彼はぼんやり正面を見ながら、胸いっぱいに煙を吸い込む。ほろりと煙草から灰が落ちた。彼は口から煙草を取り出し、執拗に灰皿に擦り付ける。あの女と同じ癖。うつってしまったと気がついた時には、既にあの女は自分の前から去っていた。振り切るように新しい煙草に火をつける。使いすぎて、火のつきが悪い。そろそろライターの寿命が尽きかけていることはわかっていた。あの女が気まぐれにくれた安物のライター。女が自身の前から消えてから、火のつきが悪くなっても捨てることを躊躇われ、使い続けている。
「あの」
ライターを振っていると隣からあの女よりも少しハリのある声がする。コンクリートに囲まれた狭いこの場所では、少し反響した。それが何故だか心地良い。
「それ、ください。」
そう言うと彼女は駒葉に向かって手を伸ばしてきた。その顔はどこか泣きそうな、しかし怒ったような表情をしている。感情がむき出しのその姿はあの女になかったもの。
―お姉さんはあんな顔しない。
だが、そのあの女と違う表情が駒葉の胸に火をつけた。もしもあの女が同じ表情を駒葉に見せたなら、きっと彼から先にキスしていた。もし今、彼女にキスすればそれは叶うだろうか。
―あんな顔、見たことない。
笑顔ではないのに、不思議と彼女のその顔に目を奪われてしまった。軽く微笑みながら駒葉は彼女に向かって片手で白い箱を差し出した。
「どうぞ」
そう言った瞬間、彼女は白い指で煙草をすっと抜き取る。その薬指に指輪がないのを確認し、安堵した。関係ないのに。抜き取った煙草を咥えた彼女はあれ、というように首を傾げ、思い出したように駒葉を見た。火がないことに気がついたのだろう。
―ライター持ってるわけないか。
駒葉はあの女にもしたように、それを彼女の口元に持っていく。しかし、何度着火ボタンを押しても火花が散るくらいで火は着かない。
―くそっ
唇を噛み締めたのは、ガスが切れたことに対してではない。こうなることを内心望んでいた。それが現実になってしまったことに対して苛立ちを覚える。ライターを仕舞った駒葉を不思議そうに見つめる彼女の目を、彼は捉えた。ライターのガスが切れたことを察した彼女は口から煙草を外そうとする。それを「許さない」とでも言うように彼の指が摘み、支える。一瞬だけ唇に指が触れたことに彼女が気付いたときにはもう、彼の煙草の先がそっと彼女の煙草の先に触れた。駒葉と彼女の距離は近いが、お互いの吐息が絡むほどではない。だが彼の心臓が高鳴るにはそれで十分だった。
―眼、綺麗だ
彼女の煙草の先から煙が昇ると駒葉はようやく顔を離した。『煙草同士をくっつけて火を移すの、シガーキスっていうんだよ。』と女が言った言葉を思い出す。彼女としたのはシガーキス。そう気がついた時、駒葉の胸が高鳴り、頬が緩んだ。
ーキス、したんだ
わずかに頬を赤くして彼は自分の煙草を燻らせていると、思い出したように呟く。
「思い切り吸い込まない方が良いですよ。」
しかしその言葉を言うのは少し遅かったらしい。彼女が咳き込む声がする。その様子はあの女と一切重ならなかった。咳き込みながら、涙目で「なにこれ」と呟く彼女を、初めてあの女と重ねずに見つめる。
―やっぱり、違う
まだ咳き込み続ける彼女の背に手を伸ばした。だが、そこまで踏み込んでいいものか。そう躊躇しているうちに彼女の咳は落ち着いてしまう。伸ばした手は宙に留まり、行き場を失った。
「なにかあったんですか。」
さりげなく手を引き、誤魔化すように尋ねる。
「急に煙草を吸いたいだなんて、なにかあったのかなって。」
彼女本人のことを知りたい。そう思ったから出た言葉。だが、彼女はそんな事情など知らない。
「少し、嫌なことを思い出したんです。」
少し、くらいであんなに泣きそうな顔なんてするものか。だが、彼女にとって自分は初対面。教えてくれるわけがない。よく考えるとそれは当然のことだった。
ー真面目なんだ
ピンと伸ばした姿勢や、煙草を思い切り吸い込んでしまうところ。あの女はいつもだらしなくベンチにもたれて、休憩中はヒールを脱ぎ、シャツも第二ボタンまで開けていたのに。駒葉はもう一度煙草を吸い込む。やっぱり不味い。
「杏奈さん!」
ドアが乱暴に開く音とともに彼女の名前を呼ぶ大きな声が響く。同期が彼女を呼びに来たのだ。底抜けに明るい彼の声はこの薄暗い場所に不釣り合いだった。僅かに口を開く。
ー杏奈
声は出さずにその名を呼んだ。女の時は知る由もなかった名前。しかし彼女のそれはこんなにあっさりと手に入ってしまった。
「それじゃあ。煙草、ありがとうございました。」
そう言って彼女は軽く駒葉に会釈し、光の差す方向へ駆けていった。いかないで、という言葉を飲み込んだ。同期について行く彼女を見送るしかない。彼女が出て行ったドアを名残惜しそうに眺める。あの女もそうやって自分の前から消えた。ふーっとため息と共に白い煙を吐くと、灰がこぼれ落ちた。新たな煙草を取り出した時、ふと思う。
ーあなただけだったはずなんですけど。
もうライターから火が出ることはなかった。諦め、口から煙草を離す。あの女だけを思い続けてきた。しかし、彼女の最後の言葉は自分と彼女の未来を否定するもの。
『結婚するの、私』
一本だけ吸って、いつものように煙草を執拗に擦り付けたあと、女はそう言った。
『君にもできるよ、世界一好きな人。』
あの女が正面のビルに吸い込まれる直前に残した言葉だけが突如、脳裏にぼんやりと浮かぶ。何も聞こえてこなくなった隣の席に目をやると、そこには当然、誰もいない。そっと、彼女が座っていた位置に手を触れる。杏奈という名前とシガーキスの記憶だけ残していった彼女のぬくもりがそこにはまだ残っていた。