scene1:天井~エレノア@気が付いたら、懐かしの天井を見上げていました。
# scene1:天井
瞼が開いた瞬間、私は息を飲んだ。
「えっ・・・」
寝起きの朦朧とした意識の中で、見上げたのは見慣れた天井だった。教会の炊き出しで意識が遠のいた記憶がおぼろげに浮かぶ。
あの日は冬の厳しい寒さの中、教会が施す温かいスープを求めて並んでいた。空腹と疲労、そして絶望感が私を包み込み、ようやく受け取ったスープを一口飲んだ後、床に倒れ込んだ。
その瞬間のことを覚えている。
でも、目の前に広がるのは、薄汚れた簡素な下宿の天井ではなく、幼い頃から慣れ親しんだ実家であるクレイトン家の邸宅の天井。
緻密な漆喰細工の模様が朝日に照らされて浮かび上がっている。祖父の代から続く伝統的な意匠が施された、あの天井だ。
「ここは…」
言葉が途切れた。
混乱する思考の中で、ふと疑問が浮かぶ。もしかして私はすでに死んでしまったのだろうか?
そして死後の世界が、最も幸せだった子供時代の記憶なのだろうか?
教会の女神様が温かい夢を見せてくれているのだろうか?
教会で倒れたからか… 女神様は優しい。でも教会で倒れてしまってごめんなさい。
体を起こそうとして、ベッドが異様に大きく感じることに気づいた。掛け布団を掴もうとした手が視界に入る。
小さな、子供の手だった。
私は息を飲み、慌てて両手を顔の前に広げた。間違いなく子供の手だ。
細くしなやかな指、シミひとつない滑らかな肌。
20歳の私は、頬も手も痩せこけていた。
震える指で自分の頬に触れる。肌は滑らかで、若い。
「もしかして…」
急いでベッドから飛び降り、鏡台へと駆け寄った。
そこに映っていたのは、8歳のエレノア・クレイトン、つまり幼い頃の私自身の姿。
栗色の髪に大きな青灰色の瞳、小さな鼻と真っ赤な頬。すべてが私の記憶の中の子供時代そのままだった。
「これは現実なの?それとも死の直前の幻?」
自分の腕をつねってみる。痛みがあった。赤くなっていた。
「…いたい」
鏡に映る幼い自分を見つめながら、頭の中では記憶が入り乱れる。
一回目の人生の私は、20歳でクレイトン家の没落とともに命を落とした。
進行する産業革命の波に乗れず、伝統工芸に固執した結果、家業は立ち行かなくなった。
婚約者だった機械製造の名門、クローフォード家の跡取り息子エディとの関係も自ら断ち切り、すべてを失った末路。
そんな暗い記憶が押し寄せる中、現実に引き戻されたい思いに駆られた。もし本当に過去に戻ったのなら、窓の外には懐かしい景色が広がっているはずだ。確かめなければ。
急いで窓辺へ歩み、カーテンを開いた。
朝日に照らされたクレイシャー領の景色が広がっていた。遠くには領地内の工房群から立ち上る繊細な煙の筋が見える。職人たちが金属を熱し、伝統の技を施している証拠だ。
まだ繁栄していた頃の風景だ。
この景色が見られたのは、父が産業革命の波に抗う決断をするずっと前のこと。
父は代々受け継がれてきたクレイトン家の伝統技術と熟練職人たちの技を守ろうとしたが故の選択だった。本当は機械そのものを嫌っていたわけではないことを、私は今なら理解できる。
しかし結果的に、その頑なな姿勢が家を没落へと導き、守ろうとした職人たちもまた仕事を失うことになってしまった。
壁に掛けられたカレンダーに目を向けると、そこには確かに12年前の日付が記されていた。
産業革命がこれから本格化する時期。
隣町のブラックプールではすでに大きな工場がいくつか建ち始め、蒸気機関の音が聞こえるようになった頃。
クレイトン家が徐々に没落していく、その始まりの時代だ。
「わたし…… 戻ってきたの?」
混乱する頭の中で、唯一確かなことは今この瞬間に私が8歳の体で、失われたはずの家の中にいるという事実だった。
なぜこんなことが起きたのか理解できないが、これが「機会」であることは間違いない。
トン トン
ドアがノックされる音がした。思考が途切れる。
「お嬢様、朝食の時間でございます」
若いレディメイドの声。
震える息を吐いた。
ルーシー。
最愛の侍女であり、家が没落した後も私を気にかけてくれて、ダウンタウンでの過酷な生活の中でも、定期的に様子を見に来てくれた人。
「どうぞ」
私は落ち着いた口調で返事をした。
一瞬の間。
ドアが開き、若いルーシーが現れた。
彼女は一瞬、首を傾げるような表情を見せた。『どうぞ』という言葉が、いつもの私らしくなかったからだろう。
しまった!このころの私なら『はい』って答えていたはずだ。
一回目の人生の私と今の私が頭の中で混乱している。
ルーシーの戸惑いはすぐに消え、いつもの穏やかな笑顔に戻った。しかし彼女の眼差しには、わずかな疑問が残っているように見えた。
「ルーシー…」
思わず名前を呼んでしまった。
「お嬢様、何かご体調が優れませんか?」
ルーシーは心配そうに眉を寄せた。
彼女は足の膝を折り、姿勢をかがめて同じ目の高さで私を見てくれる。
「お顔が青ざめて…」
会いたかったルーシー。母のような、姉のような、あのやさしいルーシー。
様々な感情が押し寄せる。抑えきれなくなった。
私はルーシーに強く抱きついた。突然の涙が頬を伝い落ちる。
最後にルーシーと抱き合ったのは、私がエディとの婚約を破棄したあの雨の日だった。
「ああ、ルーシー…ルーシー…」
「お嬢様!どうなさいました?」
ルーシーは動揺しながらも、すぐに私の額に手を当て、熱がないか確認した。
「悪い夢を見たのですか?」
言葉にできない複雑な感情を飲み込んだ。
「ええ、とても恐ろしい夢だったの」
震える声で答えた。
「長い間あなたに会えなかった夢…みんなが消えていく夢…」
ルーシーは不思議そうな表情を浮かべたが、すぐに優しい微笑みに変わった。
「大丈夫ですよ、お嬢様。ルーシーはここにいます。お父様もお母様も、クレイトン家の皆様はお元気です」
彼女は私の髪を優しく撫でた。
「どんな夢も、朝日が昇れば消えていきますよ」
そう言ったルーシーの笑顔が私に元気をくれる。
深呼吸をして感情を落ち着かせる。
大人の記憶を持ちながら、子供の体で感情を制御するのは難しい。
20歳の心と8歳の体。このアンバランスさに戸惑う。
「ごめんなさい、ルーシー。子供じみたことをして」
その言葉遣いにルーシーは少し驚いたようだった。
「まあ、お嬢様はまだ8歳。子供でいらっしゃいますよ」
彼女は微笑みながら言った。
部屋を見回し、子供時代の思い出を確認するように視線を巡らせた。
本棚には童話の本々、机の上には半分完成した刺繍、窓際には大きなクマのぬいぐるみ。
と同時に、私が一回目の人生でも大切にしていた小さな道具箱も目に入った。祖父が贈ってくれたもので、中には簡単な彫金道具と、私が作った小さな金属細工が入っている。
すべてが懐かしく、同時に遠い記憶のようだった。
『何年ぶりだろう…この部屋で過ごしたのは』心の中で思った。
「お着替えをいたしましょう」
ルーシーはそう告げると衣装箪笥に向かった。
ルーシーが選んだのは、淡い青色のワンピースドレスと白いレースの襟元。
8歳の貴族の娘にふさわしい上品な装いだ。
刺繍が施された襟元は、まさにクレイトン家の工房で作られたものだろう。
私は身を任せながらも、頭の中は一回目の人生の記憶と知識が混ざり合い、整理がつかない状態だった。
着替えを手伝ってもらいながら、これから始まる『二度目の貴族令嬢人生』について考え始めた。
私が夢に見た死は20歳の冬。今から12年後だ。
その間に何をすべきか。どう家族を救い、クレイトン家の没落を防ぐか。
そして… エディとの関係……
「今日の予定は?」
尋ねてみる。
「朝食の後は、お母様との刺繍のレッスン、午後からはピアノの練習です」
ルーシーは手際よくドレスのボタンを留めながら答えた。
「朝食にはお父様もお母様、みんなも一緒?」
家族のみんなに会いたくて自然と尋ねてみる。
「お父様は『工房のお仕事』で首都に出かけられています。明後日には戻られる予定です」
「工房...のお仕事……」
思わずつぶやいた。
「あ、そうでした。お父様が首都へ発たれる前におっしゃっていました。帰られたら、お嬢様を新しく拡張した工房へもご案内したいとのことでした」
その言葉に私の心は躍った。
「本当?新しい工房?」
思わず声が弾んだ。
一回目の人生で私は、工芸品の美しさに興味を持ち、小さい頃から父に工房への出入りをせがんでいた。
弟のトーマスが本来の跡取りではあったが、私の工芸品への興味や熱心さを父は常に評価してくれていたと思う。
故に、父は令嬢である私に対しても、伝統を受け継ぐ者として古典的な技法を学ばせてくれた。一
しかし、産業革命の波が押し寄せる中で、伝統に縛られたその頑なな姿勢が結果的に家業の没落を招いてしまったのだ。
「はい、北の村に新しい銀細工の工房が完成したそうです」
そうか、新しい工房。一回目の人生では、その工房も産業革命の波に飲まれていった。
しかし今なら、まだ希望がある。
8歳からもっと積極的に工房経営に関わり、産業革命の波を理解し、家業を守る道を模索できる。
洗面台に向かい、再び鏡に映る幼い自分の姿に動揺した。
冷たい水で顔を洗い、現実感を取り戻そうとした。
顔を拭きながら、窓の外を見る。晴れた朝の日差しが、かつて愛した風景を照らしていた。
「お嬢様、お目が少し赤いですね」
ルーシーが心配して指摘する。
「少しお時間を取られてから、お食堂へ向かれてはいかがでしょうか」
短く頷いた。自分を落ち着かせる時間が必要だと感じていた。
両親との再会は、感情的にならないよう注意しなければ。
「少しお時間をさしあげましょう。朝食は20分ほど遅らせるよう、キッチンに伝えておきます」
ルーシーは優しく提案してくれた。
「ありがとう、ルーシー」
感謝の気持ちを込めて答えた。
ルーシーが部屋を出ると、再び窓辺に立ち、外の景色を眺めた。
遠くに見えるのは、まだ繊細な煙を上げる工房群と、その向こうの村々。
営業している工房、働く職人たち、まだ失われていない技術と伝統。
1回目の人生では、産業革命の進展により徐々に衰退していった風景だ。
大規模工場が次々と建設され、安価な機械製品が市場に溢れるようになると、クレイトン家の領地にあるような伝統工芸の工房は打撃を受けた。
新しい時代に適応できる貴族もいたが、私の父は『安易に蒸気機械など使うべきではない』と頑なだった。
古い価値観に縛られ、変化を拒絶した結果、工房は次々と閉鎖され、職人たちを失うことになった。
私は拳を握りしめた。
「今度は違う選択をしよう」
一回目の人生での後悔や教訓が脳裏をよぎる。
父を説得して産業革命の波に乗るべきだった。
伝統と技術を守りながらも新しい製造方法を取り入れる。
そして何より、エディ・クローフォードとの縁を大切にすべきだった。彼の家族は機械産業の先駆者として成功を収めていた。一回目の人生では、家の危機のため周囲が決めた政略的な婚約だったが、エディは誠実に私に接してくれた。それなのに家の没落が決定的になった時、クローフォード家に迷惑をかけまいと私自ら婚約を破棄してしまった。今度は違う道を歩みたい。自力でクレイトン家を救い、彼と対等な関係を築きたい。
幼い体で大人の記憶と知識を持つ違和感はあるけれど、これは明らかに二度目の機会だった。
「今度は産業革命に抗わない」
小さな声で誓った。
「今度こそ、家族と家を守ってみせる」
トン トン
時間が来たことを告げるノックの音がした。
「お嬢様、準備はよろしいですか?」
ルーシーの声がドアの向こうから聞こえた。
最後にもう一度鏡で自分を確認する。
そこには、小さな体に大きな決意を抱えた8歳の少女が映っていた。
この姿で大人を説得するのは難しいだろう。でも、少しずつ影響を与えていくしかない。
父の帰還を待ち、新しい工房見学を実現させることが、私の新たな人生の第一歩になるはずだ。
「よし、行こう」
小さくつぶやき、背筋を伸ばした。
(つづく)