2話「可愛い!」
すっかり帰ることを忘れ、名前も分からない同い年くらいの少女と『アイドルごっこ』をすることになったo。彼女の「何の役やりたい?」との問い掛けに、いきなり困ってしまった。
『アイドル』と『ファン』、それ以外が思い浮かばない。「ファンかな?」彼女の弟の砂遊びに交じって、ファンAかファンBになることが最善だろうか。
「ファンも嬉しいけど、『プロデューサー』はどうかな?」彼女は嬉しいらしい。そして、プロデューサーとはどんな仕事なのだろう。
「じゃあプロデューサーで」oはひとまず、プロデューサーがアイドルの上司的な何かであると想定した。《アイドルごっこ》の幕が開く。
「じゃープロデューサーさん、何をしたらいいですか?」「まずはお名前を教えてください」「iです、よろしくお願いします」やっと彼女の名前を聞けた。
「プロデューサーのoだ、よろしくね」自己紹介を済ませ、アイドルごっこ以前から会話が成立していないような気がしながらも、oは流れに身を任せることにした。
「オーディションの私はどうでしたか?」「一番輝いてたよ」「ふふっ」もう恥ずかしくなってきた。こんなやり取り、実際の現場では行われないであろう。そんなことよりも照れているiが可愛い。
「今日はダンスレッスンですか?」iがアイドルごっこをリードしてくれている。さっきはファン役で、相変わらず砂遊びに夢中のiの弟が今何役なのかはさておいて「じゃあダンスをしてみせてよ」とプロデューサーらしく指示をする。
プロデューサーらしさたるやを知らぬまま。
「分かりましたプロデューサーさん」ここからはiが踊っているだけでいい。とても助かる。
踊り出すi。どこかのアイドルの曲の振り付けのようだが、プロデューサー役なので知っているふりをする。さっきまでの後ろ姿と違い、iと時々目が合い、どきどきする。
思わず「可愛い!」と心の声が漏れるo。iは満更でもない顔で踊り続けた。
「もっと可愛く!」これがプロデューサーの仕事であるはずがない、と分かっていながらも声を掛け続けた。
「可愛くないですか?」「可愛いけどもっと可愛く!」「ふふっ」「可愛い!」──可愛い子に可愛いと言える、プロデューサーはなんて楽しい仕事なのだろう。いやこれではただのファンではないか。
oは我に返り、家に帰らなければならないことを思い出す。
午後四時五十五分の公園の時計。もう五分気付くのが遅ければ、絶望の『夕焼け小焼け』が流れてくるところだった。
とても有意義な時間を過ごせた。iに奪われたのは時間ではなく、紛れもなく心だ。
「今日はここまで!」ダンス講師のような台詞でプロデューサー役を終えたo。「プロデューサーさん、ありがとうございました」深々とお辞儀をするi。
「じゃあもう遅いし、帰ろうか?」「うん今日はとても楽しかった、会えて嬉しかった。ありがとう」「じゃあまたね」「またっていつ?」iに聞かれてはっとする。
「いつか会えるといいけど、学校も違うし」「だよね、そういえばo君はどうしてここに?」「実は⋯⋯」。
友達の家へ遊びに行った帰りに、道に迷ったことを伝える。送電塔、iへは「『Tタワー』みたいなやつ」と表現したが「目印を見つけたからおっきな道を歩いて帰るよ」「えー!絶対遠いよ!」驚きながら帰り道を心配してくれるi。
「じゃあ早く帰らないと」「とりあえず、うちそこだから!車で帰った方がいいよ!」iが指差した二階建ての家。「でも、悪いよ」「じゃーおうちの人に電話して来てもらおう!」自分の家の電話番号を思い出せるだろうか。
急転直下、iの家にお邪魔することにした。
公園の出口から道路を少し歩いて、iの家に着く。「ただいまー」弟を連れてiはドアを開ける。
まさか初めて一人で友達の家に遊びに行って、また新しい友達の家を梯子するなんて──今日会ったばかりのiを友達と呼んでいいのか、それよりも自分の家の電話番号が思い出せない、あれこれ考え込んでいる間に、iの母親が出てきたので挨拶をする。
iには弟がもう一人居た。iはどうやら母が下の弟の面倒を見ている間、上の弟を家の目の前にある公園だからと連れ出していたようだ。
かくかくしかじかと母に経緯を説明するi。電話番号は思い出せなかったものの、自分の家の近くに目印になるスーパーマーケットがあることを伝えるo。
iの母は「私が送ってあげられるけど、お父さんがもうすぐ帰ってくるから、急いでなければ少しゆっくりしていったら」と言う。
車ならばすぐに帰り着けるだろう。急に尿意を催していたoはご厚意に甘えることにした。
今日二軒目の友達の家のトイレを借りる。泡ハンドソープで手を洗い、タオルまで借りるのは申し訳ないので忘れずに持ってきたハンカチで手を拭う。
リビングにお邪魔すると「お母さんがお父さんに電話したから、十五分くらいで帰ってくるって」とiがコップで水道水をごくごく飲みながら教えてくれた。
「o君も何か飲む?」とiの母が冷蔵庫からペットボトル入り清涼飲料水を取り出す。
iとiの上の弟とで三等分することにした『Nオレンジ』の味。忘れない。
iの母から他校の小学校が気になるらしく学校について質問攻めに遭っていると、iの父親がほぼぴったり十五分後に帰ってきた。忘れ物が無いか確認して、iの母にお礼を言い、弟たちにバイバイして、さも当然のように付いてくるiとともにi家を後にした。
iの父の車『ステップW』の後部座席に二人で乗り込む。iはシートベルトを着けるや否や「また公園に遊びに来てよ」と約束を取り付けようとする。
「いつがいい?」「明日とか?」それでは毎日だ。oは「明日は疲れちゃうかも」と正直に話し「来週の土曜日はどうかな」と提案する。
「何時?」「午後二時とか?」「待ってるね」──来週もiに会える。
目印のスーパーに着く。「今日は送ってくれてありがとうございました」iの父にお礼を済ませる。あと後部座席で娘さんといちゃついてすみません。
「ばいばーい」iの無邪気なお別れの挨拶に、長い一日の終わりを感じる。最寄りのスーパー から《家に帰るまでが遠足です》と言わんばかりの最後の帰り道の末、我が家に辿り着く。
「ごめん友達の家でゲームに夢中になって遅くなっちゃった」夢中になっていたのは『アイドルごっこ』だったなんて口が裂けても言えない。道に迷ったことも車に乗せてもらったことも心配を掛けるので言えない。来週も校区外の公園で遊ぶ不良息子になってしまったo。
《自転車は三年生から》というルールも破ってしまおうかとか、補助輪が取れていないから歩きでいいやとか、初めて友達の家へ一人で遊びに行ったから、今まで自転車の有用性に気付かなかったのか、と今日の濃い一日を振り返り始めたところで、友達に特撮シリーズを薦められていたことを思い出す。
慌ててテレビの主導権を握る。敵を倒すシーンに間に合わず、次週へ話が続く余韻だけが映し出されていた。