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39.迷子



 体がぐるぐると巡った。四方八方に伸び切って、肌がひずむ。


 梨沙は深く息を吸いこんだ。何も入り込んでこない。ここにはないものだけがある。


 軽く目眩がした。体は浮かび、周りの風景は歪曲され、目がまわる。


 おかしいと、胸の中でつぶやく。この世界が多次元になってから、何度となく思った。


 前回、現世に戻る時、こんなに長いこと多次元に留まっていなかったのに。


 梨沙はずっと揺れている。ぐちゃぐちゃなままだ。天に吸い込まれ、地にへばりつく。流れに溶けて、滞留する。


 世界に身を任せた。梨沙にできることは何もない。


 遠くで空気が揺れている。蜃気楼のようにモヤモヤと。


 あれは……。


 奇形な景色が形づく。銀色のフェンスに、打ちっぱなしのコンクリート床、そして、広い空間……。屋上だ。見慣れた高校の、見慣れぬ屋上。


 風が梨沙の横を通り過ぎた。空は菫色に輝き、キラキラと星屑が舞っている。歪んだ標識と、ボロボロの花壇、そして、反対に回るぐにゃりとした時計が空にぷかぷかと浮かんでは消えている。ここには正常なものなど何もない。身の毛がよだつほど恐ろしく、狂わしいほど甘美な匂いが充満している不思議な場所だ。


 ちりん。音が聞こえる。風鈴の音のような涼やかな音色だ。


 ちりん。また、鳴った。


 人だ。人がいる。


 制服を着た少女が地に足をつけ、フェンスを背に、こちらをじっと見つめている。


「梨沙、ちゃん」


 声を聞いた。美しくも儚い声だ。


 どっ、どっ、どっ、どっ。


 心臓が弾み、喉が酷く乾く。


「あぁ……! 詩織……!」


 駆け出していた。いや、駆け出すというよりも、必死になって空間の中を泳いでいた。混沌とした世界が、詩織を起点に秩序的になっていく。


「詩織!」


 梨沙は詩織の胸に飛び込んでいた。理の戻った両手で詩織の胴体に絡み付け、力強く抱擁する。目の奥から涙が零れ落ちた。


 生きてる。生きてる。生きてる。生きてる……。


 詩織の柔らかな温もりがここにある。


「あはっ。梨沙ちゃんってば、泣きすぎ」


 詩織の手が梨沙の背中をさする。


「うるさいっ、誰のせいでこんな……こんな……」


「……わたしのせいです。ごめんなさい」


 梨沙は手を緩めて、詩織の肩を押す。体が詩織から離れた。


「本当だよ。マジで、本気で、すごく、心配したんだから」


「うん。ごめん」


「本気の、本気で、だよ? あたしがこんなに本気になることなんて、ホント、ないんだからね。それだけ心配したんだから」


「……え、本当? うふふ、なんか、嬉しい」


「勝手に喜ばないで。現世に帰ったら、あたしをこんな目に合わせた責任、ちゃんと取ってよね」


 梨沙はブラウスの裾で涙を拭いながら、鼻をすする。


「……うん。ちゃんと責任取る」


「何の責任を取るかわかってる? アンタがあたしを巻き込んで飛び降りたせいで、孤独で寂しいあたしがアンタを妬んで心中したってことになってるんだから」


「えっ、本当……? それは梨沙ちゃんに悪いことしたなぁ……」


「悪いと思ってるなら、アンタが何とかしてよね」


「うん。生き返ったら絶対、みんなの誤解を解きます。約束する」


「マジの、絶対だからね。本当、アンタと一緒にいると碌なことがないんだから」


 頬の涙の跡を拭い取り、顎を上げる。


「……うん、ごめん。……それと、ありがとう」


「えっ?」


「一度、生き返ったのに、わざわざ戻ってきてくれたんでしょ?」


 梨沙は数度瞬きをして、目を逸らした。急に気恥ずかしくなったのだ。


 たしかに、詩織に聞こえるように語りかけていた。けれど、実際聞かれたとわかると、むず痒い。多分、いや、絶対、小っ恥ずかしいことを口にしていたと自覚してるからだ。


「梨沙ちゃんの声、全部、聞こえてたよ」


「ふーん。そう。……ま、でもアンタが目覚めたみたいでよかったよ。あのまま死なれたら、あたしも目覚め良くないし」


 詩織のまっすぐな視線に居心地が悪くなり、ついつい早口になってしまう。これじゃあ、照れ隠ししているのがバレバレだ。


「うん。梨沙ちゃん自身のためなんだよね。わかってる」


 詩織の声が切なげに、けれど、優しく響く。


「それにしても、梨沙ちゃん、よく覚えてたね、この世界のこと」


「え?」


「サリエルが言ってたでしょ? 現世で目が覚めたら、この世界のことは忘れるって」


 そういえば、そうだった。何で覚えてたんだろう。


 わからない。けれど、この世界のこと、詩織のこと、覚えていてよかった。


 覚えていたおかげで、こうしてこの世界に来ることができた。だから、よかった。


 詩織の視線がすうっとズレた。詩織がフェンスに手をかける。詩織の目線は菫色の空に移っていた。梨沙も詩織の横に並び立ち、空を見上げる。


「……ところで、怪奇的なこの場所は、一体どこなんだろうね」


「えっ、ここってアンタが作り出した世界なんじゃないの?」


「まさか! こんなおどろおどろしいところ、作らないよ」


「それじゃあ、街の中の一部とか?」


「どうなんだろう? 梨沙ちゃんの声に反応して、目を開けたら、ここにいたから……」


 顔を見合わせる。


「梨沙ちゃんは? 梨沙ちゃんはどうやってここにきたの?」


「あたしは……。サリエルの言ってることが冗談でなければ、現世に魂が戻ろうとしてるところで、この場所に辿り着いたって感じかな」


 多分、冗談ではないだろう。なぜなら、さっきまで梨沙の身に起きていた感覚は、前回の現世に戻る時と同じだったのだから。


「もしかして、わたしたち、迷子なのかな?」


 詩織が不安そうに眉を下げる。梨沙は曖昧に首を傾げた。


「どう、かな。死後の世界で迷子になることなんてあるのかな」


「少なくとも、わたしは聞いたことないなぁ……。でも、今のこの状況は明らかに迷子、なんだよね……」


「そうだね。なんにしても、このままここにいるわけにもいかないし、出口とか探そうか」


 もう一度、空を見上げる。相変わらず、ぷかぷかと変なものが、紫色の空を背景に浮いている。花壇に、おもちゃに、捻じ曲がった時計に、車に……。数えたらキリがない。浮かんでは消え、浮かんでは消えの繰り返しだ。明らかに普通じゃない。


 ため息をついて、振り返る。向こうにドアがあるのだ。まずは、あのドアの先を見てみよう。


「あっ、まって……。梨沙ちゃん、あの……」


 詩織は梨沙の腕を掴み取った。思った以上に強い力だ。


「ん? なに?」


「本当に、ありがとう」


 口の中の唾をキュッと飲み込んだ。想像したよりもずっと、真剣な口調に驚いたからだ。

「お礼なら、さっき言われたけど」


「あんなお礼じゃ、全然、足りないよ。梨沙ちゃんがいなければ、わたしは多分……、死んでたから」


 詩織が一瞬、苦しそうに口元を歪めた。しかし、その表情はすぐに引き締まる。


「……梨沙ちゃん、本当にありがとう」


 手を離し、勢いよく頭を下げる。バサリと長く美しい髪の毛が舞う。甘い香りがした。


「感謝してもしきれないの。だから、いくらでも殴っていいし、いくらでも文句言ってください」


「は?」


 お礼の言葉が続くと思ったら、いきなり、何を言っているんだ?


 詩織がガバッと顔を上げる。梨沙を見つめる澄んだ瞳がきらりと光り輝いた。


「梨沙ちゃん言ってたでしょう? ぶん殴って、文句言ってやりたいって。そうすることで梨沙ちゃんの気持ちがスカッとするなら、いくらでも、してください!」


「そんなんお願いされてするもんじゃないし! それに、まだここは死後の世界なんだよ。文句言ったり、怒ったりするのは、あたしとアンタが無事に生き返ってから」


 ものすごくぶっきらぼうに答える。加えて、ため息を吐いてみせた。詩織は一瞬驚いた顔をして、ふわりと微笑む。


「……うん。ありがとう」


 詩織のたおやかな薄いピンク色の瞼に守られた焦茶の瞳が、儚い中に意志を宿す。


「やっぱり、梨沙ちゃんって、かっこいいな」


「なに言ってんの。言っとくけどね、あたしはアンタが思ってるような人じゃ」


「そんなことないよ」


 梨沙の言葉は力強い詩織の声に遮られる。


「そんなことない。梨沙ちゃんは、かっこよくて、優しくて、素敵な人だよ」


 仰々しく梨沙を褒め称える詩織に向かって、ふっと鼻から息を吐き出す。


 この子はまだあたしの虚像を崇拝しているのだろうか。


「……はぁ。アンタ、死にかけてる時、あたしの話し声聞こえてたんだよね?」


「うん」


「まだあたしのことを理想の人だと思ってるなら、考えを改めて。残念だけど、あたしはアンタの考えてるような人間じゃないの。アンタのこと表面的にしか見てないし、アンタに嫉妬してる浅ましい人間。わかる?」


 ぴしゃりとナイフのように尖った口調で詩織の好意を否定する。自分のことを浅ましいと称するのは嫌だったが、事実なのだから仕方ない。


「でも」


 詩織が口を開いた。


「表面的でも、わたしの本質を見抜いたのは事実だよ」


「それはたまたまで……」


「それに、こうして助けに来てくれた。こんなところ、来る必要なかったのに、詩織ちゃんはわざわざ来てくれた」


「だから、それは」


「自分のため? ……そうだったとしても、わたしは梨沙ちゃんの行動で助けられた。梨沙ちゃんは時々口が悪いけど、いつだって真っ直ぐで、芯があって、かっこいいんだ」


 風が吹いた。冷たくも暑くもない。生温かく不気味な風だ。風が服に触れた時、この場所がいかに澱んでいるかに気がついた。曇天の元のようにどんよりとして、重苦しい。紫色の空の不気味さがそれを助長している。そんな異様な空間の中で、美貌をたたえられ、宝石のようにきらきらと煌めいている少女が、曇なき眼でじっと梨沙を見つめていた。




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