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28.お飾り人形



 音と視界が閉じてすぐに、眩暈は心地の良い揺れに変わった。一定のリズムで、ゆりかごのように揺れている。


 軽い。


 体は軽く、浮遊している。


 不思議な感覚だった。寝ているような、起きているような、夢見心地な感覚で、体は宙に浮いている。


 これは夢なんだろうか。


 いや、違う。


「妖精の仕業」

「思い出ピクシー」

「人間が忘れ去ってしまった記憶を思い起こさせる」

「擬似体験」


 意識を失う前に聞こえたお爺さんの言葉が、頭の中で反響する。


 ふわり。ふわり。体が揺れる。


 朦朧とする意識の中で、ここは何かの思い出の中なんだと理解する。理解しても、なす術はなかった。それに、この感覚があまりにも心地良すぎて何もしたくないのだ。


「このまま夢を見ていても……いいかもなぁ……」


 そんな独り言が口先からも、耳の奥からも、体の外からも響いてくる。


 その瞬間、自分自身の穏やかな揺れが止まった。見えないなにかが梨沙の体を押さえつけてきたのだ。宙に浮いていた体のバランスが崩れる。世界の均衡が崩れ、梨沙は地に叩きつけられた。


 全身が重い。全身が痛い。何かが梨沙の体に乗っている。


 これって、重力? ……重力ってこんなに重いっけ。


 体にかかる重力は徐々に重さを増す。頭も、手も、背中も、胸も、足も……体全身を嫌な重さが潰す。


 このままじゃいけない。起きなくちゃ。目を開けなくちゃ。


 重い瞼を開けると、真っ白な光が瞳を射た。途方もなく眩しい。けれど、体にのしかかる重力が軽くなるような気がした。


 完全に目が開き切った時には、体はいつもの調子に戻っていた。先程までの不快感は完全になくなり、さっきの出来事がまるで嘘かのようだった。


 柔らかい……。


 梨沙は毛並みがふかふかの白いカーペットにうつ伏せで横たわっている。見たこともない広く絢爛な部屋だ。梨沙は両腕で体を支え、体を起こした。急に体を動かしたからか、頭の芯が疼いた。頭がくらりとして、気を抜いたら、再び倒れ込んでしまいそうだ。梨沙は軽い眩暈を我慢しながら、柔らかで真っ白なラグに座り込む。


 ここは一体、どこなのだろうか。何かの思い出なのだとしたら、いつの思い出なのだろう……。


「詩織ちゃーん! お着替えは終わったかしらー?」


 不意に、焼きたてほかほかなパンのようにふっくらとした女性の声が聞こえる。ドアの向こう側から声がしているようだ。梨沙は繊細なアンティーク調のミルキーホワイトのドアを見つめてみる。耳を澄ますと、ドアの向こうで、ガヤガヤと人々が話す声が聞こえた。それは、二人とか三人とか、そんな少数の声じゃない。十人くらいはいそうなほど、うるさいざわめきだ。


 そういえば、さっきの人『詩織』って、言ってたような……。


「今、アクセサリー選んでるの! だから、もう少しまってー!」


 後ろから梨沙のよく知る声が聞こえた。明るい天使のような声だ。


 梨沙は振り向いた。


 詩織だ。


 今の詩織よりも幼い詩織が、まるでプリンセス映画に登場するようなクラシカルで上品な三面鏡ドレッサーの前に座っている。詩織は、天然のウェーブを描く髪をハーフアップにしていた。シャラシャラとした布地の真っ白なフラワーアクセサリーを艶めく髪につけながら、鏡越しに自分自身を見つめている。その愛らしい小動物を連想させる可憐な姿は、まさに、童話のお姫様そのものだった。この少女が詩織だと知らなければ、梨沙でもうっとりとしてしまったことだろう。


 小学校高学年から中学生くらいの年齢に見える詩織は、鏡の前でニコリと微笑む。計算され尽くしたいつもの笑顔だ。


 これってもしかして、あたしの思い出じゃなくて、アイツの思い出の中なんじゃ……。


 そんな考えがよぎった時、「うまく笑えてる。大丈夫。わたしは幸せ。わたしは、幸せ。わたしは……幸せ」と、詩織が呪文のように唱え始める。今まで詩織の口から聞いたこともないくらい低く暗い声だ。なのに、とびっきりの可愛い笑顔を鏡に向けている。そんな歪な光景に目を見張っていると、詩織はスクリと立ち上がった。淡いピンク色のレースが何層にも重なったドレスに散りばめられた刺繍が、詩織の動きに合わせてきらりと光る。


 その瞬間、脳内に稲妻が走った。静電気が起きた時のようにバチッとする。バチッとしたのは意識だった。


 意識が飛ぶ。だが、それは一瞬だった。


 稲妻により閉ざされてしまった目を開けると、梨沙は人々の中心にいた。ダイナミックで光沢感のあるマーブル柄の床には、モノトーンの家具が並び、大きな窓の外には美しい庭が広がっている。カットの多そうなアクリルパーツがふんだんに使われている大きなシャンデリアに照らされるのは、高級そうな家具でも、美味しそうな料理でもなく、老若男女様々な人間だった。


 その人々の中心にいるのが、梨沙……。いや、梨沙の隣に立つ詩織だ。


「詩織ちゃん、お誕生日おめでとう!」

「いやぁ、本当に大きくなって……」

「どんどんとステキなお嬢さんになっていくね」

「しおりんのそのお洋服、すごく可愛い! さっき着てたお洋服も似合ってたけど、今のお洋服もすごく似合ってる!」


 詩織を取り囲む人々が口々にお祝いの言葉をこぼし、称賛する。詩織はニコニコと笑いながら、その賛辞を受け流していた。


「ありがとうございます。皆様のおかげで、ここまで成長できました。本当にありがとうございます」


 おしとやかで上品に、明るく柔らかに、詩織は微笑む。


 ……あれ。なんか、胸がザワザワする。


 突然の旋風のように、心の芯に冷たい風が吹き過ぎた。


 どくん。どくん。どくん。


 鼓動の音が耳の奥から湧き上がってくる。胸の奥が熱くて、痛い。


 後方で声が聞こえた。


「ほんと、礼儀正しいお嬢さんだこと。きっとご両親の育て方がいいのね」

「加えて、頭も良くて、顔立ちもとてもいい。運動神経も抜群だとか。才色兼備で素晴らしいわ」

「結局、天は二物も三物も与えるってことさ」


 詩織に対する褒め言葉が飛び交う。どれも耳当たりのいい言葉なのに、絶賛の声が届くたびに体の表面がチクリと痛む。言葉に鋭く細いトゲがくっついているみたいだ。一つ一つはたいしたことないのに、チクチクと胸や喉、体に刺さり、痛い。


 どうして? どうして、こんな感情になるんだろう。


 その時、自分の視線が勝手に揺れ動いた。ダイニングの方で、美しいドレスと紳士服を身に纏う男女が目に入る。詩織が囲まれているように、彼らもまた、多くの人たちに囲まれていた。囲んでいる人たちは、両手の手のひらをすり合わせ、獲物を狙うハイエナのような狡猾な顔をしていた。


 ――どうせ、わたしなんて……。


 微かに声が聞こえた。絶望に満ちた少女の声だ。

 この声って……。


 ――わたしは、二人のお飾り人形。わたしは、ただの……。


 梨沙は振り返る。シャンデリアの光に照らされて、一人の美麗な少女が浮かび上がる。詩織は笑っていた。幸せそうに口角を緩めて、コミュニケーションを取っている。


 ――あぁ、もう。いい子、辞めたいな。


 あっ。


 頭に電流のような一筋の痛みが走る。


 二回目の稲妻だ。場面がバッと一瞬にして切り替わった。



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