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14.憎悪と屋上



「学校って、すごく楽しいね」


 と、ミウは中庭のベンチに腰掛け、笑っている。地面まで届かない小さな足をブラブラと漕がせ、もう一度、「本当に、楽しいなぁ」と、繰り返した。


 一通り学校の見学の終えた梨沙たちは、この高校で最初に足を踏み入れた中庭に来ていた。中庭には律儀にベンチが備え付けられ、ベンチ同士の間には樹木も植えられている。そのベンチに、梨沙たちは先ほど校内の自販機で買ったいちごミルクのパックを手に持って、ミウを挟み込むように座っていた。


「ふぅ、疲れちゃったぁ……。ちょっと休憩しよう」


 そう提案したのは詩織だった。疲労困憊な表情を浮かべ、いつもの笑顔が心なしか引きつってている。このベンチに腰掛けるまで、梨沙たちは止まることなく、学校で起こる色々なことを体験していたのだ。


 ミウたちが校舎に入り、最初に向かったのは最上階だった。「上から順番に見ていこう」という詩織の案に乗っかって、三人は屋上へと足を向ける。むろん、屋上にいい思い出のない梨沙は屋上に行きたくはなかった。けれども、ミウが屋上に行きたいということを強く主張をしたので、その感情を心の奥に仕舞い込んだのだ。


 屋上と四階の踊り場まで来た時、梨沙は二人にバレないように小さく深呼吸をした。


 大丈夫。これ以上変なことなんて、起こりやしないんだから。


 あの時の感覚がありありと思い起こされる。腕を引っ張られた感覚。内臓が浮かび上がる感覚。死を実感したあの恐怖……。胸元をトントンと軽く叩く。梨沙自身が思っているよりも、屋上から飛び降りた時のことがトラウマになっているみたいだ。


 ミウは目を輝かせて弾みながら階段を登り、重々しい屋上の扉を前に歓声をあげる。


「屋上……! 高校の屋上なんて、初めて入る……!」


 期待に満ち溢れた声と同時に、耳障りな音が響いた。グギギギギィという耳を塞ぎたくなるような重低音が辺りに散漫し、腹の底に力が入る。


「うわぁっ! すごぉい!」


 目も開けられないほどまばゆい光と共に、ミウが感嘆の声を上げた。吹き抜ける風が、梨沙の肺に新鮮な空気を容赦なく送り込む。


 ドアの向こうには、人があった。目に入るのは空でも地面でもなく、人だ。人で溢れている。たくさんの人間が『青春』をしているのだ。弁当を食べている者、フェンスにもたれかかって仲間と話している者。動画を撮影している者、男女二人で仲睦まじくしている者。テレビやマンガの世界で見たことのある『屋上といえば』といった光景だ。


「すごいすごい! お姉ちゃんたち、すごいよぉ!」


 ミウは両手を伸ばし、屋上の世界へと吸い込まれていってしまう。


「走ると危ないよ!」


 詩織もミウに続く。


 心が重い。足も重い。何度、深呼吸しても全く軽くならない。

 でも、この心の重さはミウに絶対バレないようにしなくては。彼女には幸せなモノだけを見てほしいのだ。苦しみを感じてほしくないのだ。


 梨沙はもう一度、胸元を叩いた。そうすると、ほんの少し、勇気が出るような気がする。気がするだけで、本当に勇気が出るわけではない。梨沙は大きく深呼吸をする。青々しい空気が体を満たす。偽物の勇気を携えて、一歩、屋上へと足を踏み出した。


 空が青い。屋上の真上の空だけ、異様に青い。真夏の雲ひとつない真昼間のように、空がぎらついている。目線を遠くに向けるとそこには夕暮れがあった。紺と赤が溶け合い、郷愁を誘っている。屋上の真上だけが青なのだ。きっと、ミウの世界線と梨沙の世界線が妙に混じってしまっているため、こんなヘンテコなことが起きているのだろう。


「お姉ちゃんたちー! 遅いよー! こっちこっちー!」


 人が溢れる屋上で、ミウは小さな体を上下させ、大きく手を振る。


「ミウね、屋上に来てみたかったのー!」


 ミウが叫んだ。とびきり大きな声だ。


「屋上で叫ぶのって、気持ちいいー!」


「ほんとだー! 気持ちいいねー!」


 ミウの声に合わせて、詩織も声を張り上げる。


 梨沙は黙った。因縁の屋上。人だかりの屋上。気持ちいいとは到底思えなかったのだ。


 ミウが踵を返す。そして、屋上を囲むフェンスに向かって走り出した。


「ミウちゃーん! 走ったら危ないよー!」


 詩織がミウを追いかけながら、注意を呼びかける。


 いったい、どの口が危ないと言っているんだろうか。この女はあたしを突き落としておいて、屋上から飛び降りておいて、何でこんなに平気な顔をしていられるんだ。


 詩織への憎悪がふつふつと胸の内で沸騰する。詩織の梨沙の死など気にもしてもいないような悠長で呑気な声が生々しく蘇ってくる。


 怒りを思いっきりぶつけたい。なんてことをしたんだと掴み掛かりたい。


 梨沙は下唇を思いっきり噛み、そして、ブンブンと左右に頭を振った。


 何考えてんの。そんな姿をミウちゃんに見せたら、ミウちゃんが傷ついちゃう。


 胸に手を当て、ゆっくりと深く息を吸う。そして、吐き出す。


 今は自分のことより、ミウちゃんだ。


「ミウちゃん、まって」


 一歩、また一歩、屋上の床を踏み込む。強い風がぶつかってくる。


「梨沙お姉ちゃんも、こっちこっち!」


 屋上を取り囲む柵の目の前で、ミウは手をひらひらとさせていた。


「ね、キレイでしょ? ミウね、くりきんとんから見た世界も大好きだけど、屋上から見える景色も好きになっちゃった!」


 梨沙は柵の前に立ち、外の世界を見る。枯れた落ち葉のような茶色と、オレンジの光を帯びたランタン灯る世界観の中に、独立峰のようにズドンと構える先鋭的な学校。この学校だけが、やはり異質だ。その不自然さが不気味だった。すーっと、胸の奥が冷たくなる。


 この世界は、美しい。美しすぎて、恐ろしい。


 あたしも、いつ死んでもおかしくないんだ。ここは死者の世界、天国なんだ。


 これほど秀麗な景色を見ていたら、嫌でも実感してしまう。動悸がする。梨沙は奥歯を噛み締めた。こんな世界、来たくなかった。


「本当にこの世界はキレイ。梨沙ちゃんの理想郷を見れて、わたしとっても幸せ」


 耳に心地よい声音がした。詩織の柔らかな髪がふわりとなびく。ググッとくぐもった音が喉の奥で鳴った。


 あたしはこんなにも苦しんでいるのに、どうして元凶の詩織はケロッとしてるんだ。


 詩織の言動一つ一つに胸をかき乱され、吐き気を覚えてしまう。


「梨沙お姉ちゃん?」


「あっ……」


 ばちり、とミウと視線がぶつかった。ミウは柵に掴んだ手を離さないまま、首を傾げ、瞬きをする。それから、はにかんだ。


「お姉ちゃんたち、屋上に連れてきてくれてありがとう! ミウ、満足した!」


「もう? こんなに気持ちいいんだし、もう少しいたらいいのに」


 詩織が大きく伸びをしながら、ミウに語りかける。


 あたしは一体、どんな顔をしていたのだろうか。鬼のような顔? 般若のような顔? 悪魔のような顔?


 小さい子に気を遣わせてしまうほど、険しい顔をしていたのでは……。


 喉に詰まった唾を飲み込み、声を出そうとした時、


「ううん、いいの。それより校舎も見てまわりたい! お姉ちゃんたち、いいでしょ?」


 ミウはふにっとした手のひらで詩織と梨沙の手を取った。その手はひんやりと冷たい。


「わわっ!」

「おっとっと……」


 声が漏れる。ミウの表情は穏やかだった。喜びを含んだ瞳が煌めく。不安なことなど何もない無垢な子供の顔つきだ。


 よかった。気を遣わせたわけじゃないみたい。


 梨沙の体に安堵が駆け巡る。小さな子に余計な心配はさせたくない。

 

 ミウが軽い足取りで重苦しいドアの方へと勢いよく歩き出す。梨沙の足もミウの歩幅に合わせてトットットッとリズムを刻む。


 空を見た。雲ひとつない真っ青な空があった。ざわざわとざわめく人だかりの屋上を背に、三つの影は屋内へと入っていったのだった。



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