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突然の電話

楠野(くすの)さん、お電話です」


 事務の山井さんが私を呼び止めた。


「誰からですか?」


 私の問いに山井さんは答えず、強張った表情のまま電話を保留にする。

 彼女の様子に緊張が走った。


「もしもし楠野です」


「私です」


「お...奥様」


 受話器の向こうから聞こえる声に全身の血が引いて行き、身体が動かない。

 名乗らずとも、誰なのか分かった。

 私はこの(ひと)に絶対逆らえない。


 逆らったが最後、今度こそ消されてしまうだろう。

 6年前に彼女の恐ろしさを身をもって知ったのだ。


「私はあの男の妻じゃありません、

 貴女が妻でしょ?」


「...そうでした」


 失言。

 明らかに機嫌を損ねてしまった。

 その不機嫌な声に目眩がする。


「会社の前にタクシーを用意しました、直ぐそれに乗りなさい」


「は?」


 意味が分からない。

 何故タクシーなの?まさか本当に私は消されてしまうのか?


「以上です」


「いや...娘は?」


 5歳の娘、沙実(さみ)は会社から程近い託児所に預けている。

 娘だけはなんとかしたい、あの子は私の全て。

 例え不倫の果てに授かった子供であっても。


「あなたの両親に預かって貰ってます」


「両親に?」


 いつ両親はこちらに来たの?

 両親は半年に一度娘と会う為にここへ来てくれている。

 沙実も両親には懐いているから、私に何かあっても大丈夫だろう。


「も...もしもし?」


 突然通話が切れ、電子音のみが響く。

 間違い無い、とうとう運命の時が来てしまったのだ。


「...お先です」


 事務服から着替え、山井さんに頭を下げる。

 年も近く、私と似たような境遇の彼女には親近感を覚えていた。

 だけど、もう会えなくなるだろう。


「幸せに...」


「山井さん?」


「早く行って、待たせたら大変よ」


「は...はい」


 山井さんは何故あんな言葉を?

 疑問は口に出来ない、彼女の目には涙が溢れていた。


「楠野さんですか?」


「はい」


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 事務所を出ると一台のタクシーが私を待っていた。

 運転手に言われるまま車に乗り込む。

 車内は重苦しい沈黙に包まれ、静かに車外の風景を見つめた。


 私がこの町に来たのは6年前、私が28歳の時。

 その頃私には付き合って8年になる恋人がいた。


 将来を誓い合っていた最愛の彼氏、斎藤政志さん。

 婚約はまだだったが、私は政志さんの両親とも仲良くさせて貰っていた。


 政志さんも私の両親と何度もあって、良好な関係だった。

 優しくって、頼り甲斐もあり、容姿に優れた彼は正に理想の男性。


 彼と結婚したなら私は間違いなく幸せな家庭を築き、素晴らしい人生を送れていた筈だった...


 ....それなのに私は過ちを犯してしまった。

 既婚者の男と不倫の関係に溺れてしまったのだ。

 甘い言葉、そして華美な体験。

 馬鹿な私は恋人を裏切り、二年も不倫の関係を続けてしまった。


 当然だが破滅は訪れた。

 最悪の火遊びは最低の状態でバレてしまったのだ。

 仕事の忙しい恋人の留守に私は不倫相手を同棲していた自宅に招いた。


 不倫相手が言ったのだ、恋人の記憶や気配を俺が塗り潰してやると。

 恋人に対する罪悪感は背徳感へと変わり、私達は獣の様に乱れた。


 凄まじい程の快感、もう歯止めは効かなかった。

 狂っていたのだ、政志が気付かない訳が無かった。


 当初はアリバイで時々政志に抱かれていたが、最後の方は全くのレスとなっていた。

 誘っても適当に断り、不倫相手に操を...いや違う、惨めな恋人を嘲笑う材料にしていたのだ。


 部屋の雰囲気や、臭いに政志が気付かない訳が無かったのに...

 不倫相手と泥酔しながらのセックス。

 酔い潰れるまて行為に耽り、そのまま眠っていた私達は深夜、男の奥様によって叩き起こされた。


 言い逃れ等出来る筈も無かった。

 不倫相手夫婦は私の仲人を務める予定だった。

 私と男は奥様が用意したホテルに連行された。


 両親も呼び出され、尋問が始まった。

 深夜にも関わらず、弁護士も駆けつけ、私達は全てを話すしか無かった。


 使い込み、散財した男が手を着けた会社の金。

 今まで何をどこで、どのようにして不倫をしたのか詳細な記録。

 洗いざらい全てを吐くまで尋問は続いた。


『大体分かりました』

 奥様は呟いた。

 そのうっすら笑う顔に僅かな希望を感じた。

 男は常に言っていたのだ。

 妻は俺を愛している、チョロい女だと。


『貴方達の望み通りにしてあげる』


『なにをです?』


『お...おい』

 奥様の言葉、真意が掴めなかった。

 私の望みは全てを許して貰い、政志とやり直す事だったのだ。

 愚かな私はまだ政志が何も気付いて無いと思っていた。


『お前は終わりだよ』


『...バカ』


 それまで私達を無言で睨んでいた両親が呟いた。


『終わりって?』


『...お前達の様子を教えてくれたのは政志君だ』


『嘘...』

 政志に見られた?

 それなのに政志は何も言わずに奥様を呼んだの?


『...酷い』

 逆恨みだった。

 自分のした事を棚に上げ、こんな状況に追い詰められたのは政志のせいだと私は...


『馬鹿な女ね、斎藤さんがどんな気持ちで教えたさえ考えられないなんて』

 奥様の言葉にようやく気づいた、自分達がいかに馬鹿で愚かだったかを。


『ま、政志に連絡を!

 ちゃんと話せば...』


『諦めろ!』


『バカ...』


『そんな事無い!

 政志は、政志なら...』

 ここで記憶が途絶えた。

 絶望と疲労で気を失ったのだ。


『...ここは?』

 気付けば私は男と薄暗い車内に閉じ込められていた。

 激しく顔を腫らした男は無言で項垂れている。

 自信に満ちたいつもの姿では無かった。


『どこによ?私は一体どうなるの?』

 狼狽える私に男は一通の封筒を差し出した。


『これは?』

 男は何も言わない。

 私は車内の照明を点け、封筒を開けた。


『何よこれは?』

 そこには私に対する慰謝料800万を請求する旨と、月々の返済に仕事を斡旋する、愛する男と幸せにと書かれていた。


『ふざけるな!!』

 男の胸ぐらを掴む。

 冗談では無い、使った金は男からのプレゼントでは無かったのか。


『...諦めろ、もう終わりだ。

 アイツに逆らったら...殺されるよ』

 震える声で男は呟いた。

 そして男は続ける。


 これから俺達は辺境の町にある妻の経営する会社に行く。

 そこで、慰謝料の返済をするのだと。


 怯えた男の目に声を失う。

 確かに聞いた事があった。

 男の妻は各方面に顔が利き、逆らったが最後、消されてしまうと。


 冗談だと思っていた。

 いや、そう信じたかったのだ。

 こうして私と男の同居生活が始まった。


『...ウゲ』

 数ヶ月後、私に更なる悲劇が襲った。

 妊娠が発覚したのだ。

 誰が父親か考える間でもない。

 アフターピルはもうない、奴の子だった。


 必死で堕ろさせて欲しいと奥様に訴えたが、


『愛する人の子供を身籠れて良かったわね』

 その一言だけだった。

 こうして私は娘を授かった...


「どうぞ着きました」


「ここって」


 タクシーが止まり、到着したのは見覚えのある総合病院。

 何故ここに?


「病室でお待ちだそうです」


「それって?」


 混乱する私を置いて運転手はタクシーに乗り、消えて行った。


「とにかく行かなきゃ」


 病院に入った私は目的の病室へと急いだ。


「来たわね」


「.....どうして奥様が?」


 病室の扉を開くとベッドに眠る男の側に奥様が立っていた。


「ドアを閉めなさい」


「は...はい」


 慌ててドアを閉める。

 個室の病室で私と奥様、そして男の三人が会した。


「もう終わりよ」


「は...はい」


 奥様の言葉に力が抜ける。

 私は慰謝料の返済を半年間滞っていたのだ。

 大量の酒、私に隠れ食べた脂っこい食事による不摂生な食生活。

 そして心臓発作に倒れたのだ。

 未だ意識不明の男、回復の見込みは無い、その治療費に...


「何か勘違いしてるわね」


「勘違いですか?」


「治療費で慰謝料の返済が出来なくなるのは了承したでしょ」


「そうですが...」


 それでもだ、私は給料の天引きを止めて貰ったが、僅かに余った金を密かに貯めていたのだから。


「はした金の事を心配してるなら気にしないで、それはあげるから」


「え?」


 知ってたのか、でもどうして?


「...疲れたのよ」


「疲れた?」


「恨む事によ、もう貴女なんかどうでも良い」


「それはつまり...」


「もう終わり、貴女は自由よ」


 奥様の目に涙が滲む。

 余りの展開に息を呑んだ。


「愛してたのよ...こんな男でも」


「う...」


「こんなクズにね、バカみたい...

 信じられないでしょうけど、子供達には良い父親だったわ...」


「奥様...」


「仕事が落ち着いたら二人で余生をって...

 必死で働いてる間に、貴方達は...」


「すみません...」


 初めて聞いた奥様の言葉。

 私はなんて愚かな事を...


「謝らないで!」


「ヒッ!」


 ベッドの柵を叩く奥様が私を睨んだ。


「確かにこの人は私を裏切った、でも馬鹿な誘いに乗った貴女は今も憎いのよ!!

 謝るくらいで楽になれると思わないで!」


「は...はい!」


 奥様の悲痛な叫びにどうしていいのか分からない私だった。

 

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― 新着の感想 ―
[良い点] 「ある夜の出来事」のやらかしSideのお話 紗央莉さんが女神だった裏でクズ野もとい 楠野佐百合さんがどうなったか 「ある夜」の感想欄で書かれた話以降について その末路を皆でじっくり堪能しま…
[気になる点] 山井さん、何処かで聞いた気が。 [一言] 20歳で付き合い始め、26歳から他の男(りょうじ)と不倫。徐々にのめり込み28歳ごろには彼氏よりもクラスへ。 で、バレて愛する男(皮肉)と奥様…
[一言] 「ある夜の出来事」の佐百合編ですね >大量の酒、私に隠れ食べた脂っこい食事による不摂生な食生活 ついでにヤることもヤってそう、亮二だし
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