第7話 不気味な静けさ
「下がれっ!」
ティナの正常化によって消えた岩壁の後ろから押し寄せてきたのは、大量の黄色い粘液だった。
急激に流れ込んで来たそれは、この空間すべてを覆い尽くすほどの量で、鼻が曲がるような臭気が立ち込める。
強力な酸で出来た消化粘液の類いだ。
俺はティナの襟首を掴んで即座に後方へ飛び、パメラも低い姿勢で転がるようにして通路の出口へと下がった。
だが、途端に出入口方向から差し込む外の光が消えやがったんだ。
おい……冗談じゃねえぞ。
退路に蓋をするかのように再び、岩壁が出現しやがったんだ。
食虫植物のごとく獲物を誘い込んでおいて閉じ込めた上で溶かす。
こういう罠かよ!
ティナは即座に銀環杖を振り上げた。
「正常化!」
すぐに岩壁は消え、出口が口を開けるかと思われたが、そこにもう一枚の岩壁が出現しやがった。
「な……ノ、正常化!」
ティナが泡食って二度目の正常化を敢行するが、消えた二枚目の岩壁の向こうにまたしても三枚目の岩壁が現れた。
何枚あるんだ!
くそったれが!
俺は背後を振り返るが、黄色い粘膜はすでにわずか2メートル先まで迫っていて、飛び散る飛沫が俺の胴衣を焼いて溶かしやがる。
こうなったら一か八かで粘膜を炎で焼き払うしかねえ。
可燃性で爆発するかもしれねえが、このままじゃどちらにせよ溶かされて終わりだ。
そう思って俺が灼熱鴉を撃とうとしたその時、俺に先んじてパメラが声を上げた。
「拙者にお任せを! 旋狼刃!」
そう叫ぶとパメラは白狼牙を抜き放ち、得意技を繰り出した。
だが、こんな狭い場所で竜巻を起こしたら壁が崩れちまうぞ。
そう思った俺だが、パメラが繰り出した旋狼刃は通常のそれとは異なる軌道を描いた。
それは前回のように上に向かって巻き上がるのではなく、前方に向かって水平に吹き荒れた。
そして押し寄せる黄色い粘液を押し返していく。
同時に背後では全ての岩壁を正常化して消し去ったティナが声を上げた。
「退路確保! 脱出を!」
「先に出ろ!」
そう声を張り上げると俺は前方に吹き飛ばされていく粘液に向かって炎の鴉を撃ち放った。
「灼熱鴉!」
それはパメラの放つ旋狼刃に乗って鋭く飛び、舞い散る粘液に引火した。
途端に粘液が燃焼し始め、激しく燃え上がる。
やはりそうか。
俺は咄嗟にパメラの腕を掴んで後方に飛び、大木の幹の部分を上昇してアジトの出入口から飛び出した。
そのすぐ後に、出入口から高熱の黒煙が爆風によって吐き出されたんだ。
先ほどまで涼しかった森の空気が熱く澱む。
「あ、危なかった……」
すでに脱出済みだったティナは呆然と黒煙を見上げてそう呟いた。
俺があの時、あのまま灼熱鴉を放っていたら、全員爆風に巻き込まれて黒焦げになるところだった。
そうなれば炎属性の俺以外は助からなかっただろう。
ヒルダの奴め。
腹立たしい罠を仕掛けやがって。
「パメラさんがいなかったら、全滅していたところでした」
青ざめた顔でそう言うティナにパメラも安堵の息をついた。
「何の何の。3人いるからこそ危機を脱出できたでござるよ。やはり3本の矢は簡単にはへし折れないでござる」
「でもどうしましょうバレットさん。またああいう罠があるなら、再びあそこに入るのは危険なんじゃ……」
困惑の表情を浮かべてそう言うティナだが、俺は迷わず言う。
「罠があるから入らない? ガキの使いじゃねえんだ。ヒルダにとってそりゃ願ったり叶ったりだろうが、俺はそんな簡単じゃねえってことを思い知らせるには、真正面から突っ込むしかねえだろうが。再突入だ」
そう言うと俺は黒煙の収まったアジトの出入口にもう一度向かい、用心しながらそこに降り立った。
熱気はこもっているが、黒煙は排出され、粘液も焼き尽くされたようだ。
おそらくこの先も同じような罠が仕掛けられているんだろうが、今ので俺も学んだ。
ここにいる小娘どもの力を借りるのは不本意だが、ヒルダが仕掛けてくるであろう策謀を上回るには、それしかねえだろう。
「ティナ。また色々と妙なアイテムを総動員してヒルダの罠に備えろ。あの女のこざかしい手に対抗するには、おまえのこざかしいアイデアが効果的かもしれねえからな」
「い、いちいち言葉に棘がありますね。素直に私の発想力を認めたらいいのに」
「拙者の力も存分に使って下され。休みながらであれば継続的にお手伝い出来るでござるよ」
そう言うとパメラは白狼牙の白鞘を下げた腰帯を締め直す。
その疲労度ゲージはまだ緑色であり、十分に戦えることを示していた。
そこから俺たちは再びアジトの中へと一本道を歩き続けた。
だが、俺たちの警戒心は肩透かしを食らうことになる。
10分ほど歩き続けた俺たちはそれ以降、何の罠にも出くわさず、アッサリと一本道を踏破してアジトの奥にある広間に辿り着いた。
「……何やら狐につままれたような気分でござるな」
拍子抜けしたようにそう言うとパメラは広間の中を見渡した。
円形の広間の壁には堕天使どもの寝床となる穴がそこかしこに開いていて、それぞれ扉代わりに粗末な布がかけられている。
ここは堕天使どもの居住スペースか?
だが、その向こう側に奴らの気配は感じられない。
どうも妙だ。
俺たちを待ち受けているはずの罠も最初の一度きり。
兵隊どもの姿が見えないアジト。
もしヒルダが本気で俺たちを排除する気ならもっと徹底的にやっているはずだ。
どうにも誘い込まれているような気がしてならねえ。
そう訝しみながら俺はアイテム・ストックから小さな固形燃料を取り出す。
焚き火の種火として使うそれに指先で火をつけると、燃え始めたそれを堕天使どもの寝床穴の前に垂れ下がる粗末な垂れ幕に向かって投げつけた。
堕天使どものプライバシーを守るためのそのボロ布は、燃える小石を巻き込んですぐに火を噴き上げ、ほどなく焼け落ちていく。
その向こう側に見える堕天使の寝床穴は、やはり無人の空室だった。
まあ、思った通りだ。
気配も感じられなかったしな。
小娘たちは用心深く周囲に視線を送りながら言葉を交わす。
「やはり無人でござるか。堕天使らはここを放棄して退陣したのでござろうか」
「だとしたらやはり私の修復術を見たから、でしょうか。そうだとしたらヒルダのみならず部下の堕天使たちも不正プログラムに関与、加担していた可能性がありますね」
フンッ。
何にせよ気に食わねえ。
堕天使の小僧は言っていた。
ヒルダの能力は本人以外は誰も知らないと。
「ならあの小僧はまんまと嘘をついてたったことか。こんなことならあいつの舌をコンガリ焼き上げてやれば良かったぜ」
そう毒づく俺にティナは嘆息して言う。
「まったくバレットさんはすぐそれなんですから。先ほど運営本部から彼のログ解析結果が届きましたよ。やはり彼はシロです。その行動ログを解析した限り、彼は本当に不正プログラムに関することを関知していませんでした。ただ、だからといって他の団員たちが誰も知らなかったとは言えませんが」
運営本部に拘束されている小僧の調べは進んでいるようだ。
要するにミソッカスみてえなあの小僧には、重要機密は知らされてなかったってことか。
「とにかくこのアジトの中を探して回りましょう。団員たちがいなくても何かが見つかるかも知れませんし」
「それはいいが油断すんなよ。奴らがいないと決め付けてると、いきなり現れてブスリとやられるかもしれねえからな」
そう言うと俺は2つ目の固形燃料を取り出す。
しかしそれを見たパメラが俺を手で制した。
「ここは拙者が」
そう言うとパメラは白狼牙を抜き放つ。
「旋狼刃!」
パメラの放った刃の竜巻は、壁際の寝床穴にかけられた垂れ幕を切り刻み、かたっぱしから吹き飛ばしていく。
なるほどな。
これなら手っ取り早いし、万が一どこかの寝床穴に敵が隠れ潜んでいたとしても、そのまま片付けることが出来る。
そうして全ての垂れ幕が吹き飛んだ寝床穴は、見事にすべて無人だった。
「チッ。こりゃ時間の無駄だな。サッサと奥に進むぞ」
そう言うと俺は無人の広間を後にした。
ティナとパメラも用心しつつ俺の後についてくる。
事前に聞いていた小僧の話によれば、この広間の先は細い通路がしばらく続き、突き当たりにヒルダの部屋があるという。
小僧がヒルダに襲われた時、普段は呼ばれることなどないヒルダの部屋に初めて呼ばれたらしく、そこはさっきの広間よりも広い場所だったらしい。
そこがこのアジトの最奥部であり、それ以外に部屋はない。
そこにヒルダがいなけりゃ、いよいよこの潜入騒動はまったくの無駄足だったってことになる。
頭にくるぜ。
もしいるならサッサと出て来やがれ。
俺が内心で悪態をついたその時だった。
俺は何か空気が震えるようなわずかな音を耳にして足を止めた。
「バレットさん?」
「どうしたでござるか?」
「静かにしろ。何か聞こえる」
俺の言葉にティナとパメラは口を閉じて耳をすませる。
わずかな空気の振動が鼓膜を揺らした。
それはすぐに大きな地鳴りのような音に変わり、ティナとパメラは顔色を変えた。
やがてドスンとひとつ、大きな縦揺れが俺たちを襲う。
「じ、地震?」
ティナが上擦った声を上げ、思わず腰を落として姿勢を低くする俺たちの頭上から、パラパラと砂埃が舞い落ちる。
そして次の瞬間、先ほどよりも遥かに大きな音と振動が鳴り響いた。
「きゃっ!」
ティナは悲鳴を上げて尻餅をついた。
するとそこでようやく音と振動が鳴り止んだ。
「一体何だったのでござるか?」
ティナを助け起こしながらパメラも目を白黒させている。
その時、背後からフワッと強い風が吹き付けてきた。
反射的に振り返った俺の視界を大量の砂煙がもうもうと覆う。
「何だこりゃ!」
「ケホッケホッ!」
すぐ傍にいるティナが咳き込み、パメラも口を押さえる。
それもすぐに見えなくなるほどの砂煙によって視界が利かなくなった。
こりゃ……まずいんじゃねえか。
俺は何やら嫌な予感がして、今来た道を戻って走り出した。
そんな俺を小娘どもも追いかけて走る。
そして1分ほどで先ほどの広間へと到着する……はずだった。
「……くそったれが」
俺は怒りを吐き出すようにそう言った。
広間のあった場所は大量の土砂と岩石で覆い尽くされていやがったんだ。
俺の後を遅れて走ってきたティナとパメラも同じ光景を目の前に愕然と立ち尽くす。
「土砂崩れ……そ、そんな」
ティナの声はわずかに震えていた。
広間はもう隙間もないほどの土砂と岩石に埋まっている。
天井から崩落しやがったんだ。
とてもじゃねえが俺たちが掘り進んだり除去できるシロモノじゃない。
退路は断たれた。
そして厄介なのは、これがただの土砂だってことだ。
もしこれがバグにまみれた不正プログラムの産物なら、ティナが修復術で何とかすることは出来ただろう。
だが、目の前の土砂にバグは見られない。
要するに俺たちは今度こそ閉じ込められたってことだ。
この事態を前にティナだけでなくパメラも神妙な顔をしていた。
この事態が自然現象によるものと決めつけるほどお気楽な奴はここにはいない。
ヒルダの罠だ。
そしてそのことを裏付ける出来事はすぐに訪れた。
「うおおおおあああああうううううう……」
押し寄せる無数の足音と洞窟内に反響する唸り声に俺たちは顔を見合わせた。
退路を塞がれた俺たちに向かって奥の方から大群が押し寄せてくる。
「バレットさん……これって」
「ああ。ようやくお出迎えのようだな。客をもてなすのが遅いんだよ。失礼な連中だぜ」
「来るでござる!」
そう叫ぶとパメラはいち早く先頭に立ち、居合いの構えで腰を落とす。
そんな俺たちの視線の先、洞窟の奥から奴らはやって来やがったんだ。




