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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

焦げた水道水

 恋とは、心に宿るモノでは無い。そもそも、心なんてモノは存在しない。あるのは、脳と、脳に刻まれた記憶と、記憶の叫びに伴う心臓の鼓動と、鼓動が灯した、全身の火照りだけである。私が貴女の後ろ髪を、背中を、足を、靴のかかとを見つめる時、私の火照りは、視界を焦がす。焦げた視界を舌で舐めると、味はあまりしなかった。甘くも、苦くもない。酸味も、匂いもない。ただ、ただ、それは焦げていた。熱を帯びていた。それなのに、なんとなく危険な感じがして、急いで吐き出した。口から出たのは、唾液だけ。それとも、唾液に混ざった、焦げた視界か。

「あ、羽生さん。また会ったね。」

 貴女の無垢で優しい笑顔は、その輝きは、私の眼球には歪んで映ってしまう。私の、焦げた水道水みたいな眼球には。貴女のありのままを、映すことができないんだよ。暦さん。


 暦さんは、明るくて、優しい、素敵な日陰者。純粋無垢な彼女は、複雑怪奇な「学級社会」からは取り残されてしまう。黙っていても友達なんか出来ない。でも、たまに黙らないと、友達は去ってしまう。鼓膜を痛めそうな雑音は、ある人にとってはクラシック音楽だ。正直な日陰者には、それを耐えることが出来ない。暦さん、貴女みたいな人にはね。


 私は、正直に生きるのを辞めた。嫌だったからではない。もっと生きやすい自分になろうとしたからだ。「ありのままの自分」と「生きやすい自分」は違う。ありのままの私は、きっと正直で、真面目で、純粋無垢な私だ。暦さんみたいに、とは言わないけれど。それに対して、そんなもの捨てた方が、私は生きやすかった。友達だって、多少は出来た。ずっと一緒に居たいとは思えない、ずっと一緒に居る友達が、数人。孤立は生きづらい。生きづらいから、変わった。変わるのは簡単だった。少しばかり勇気は必要だったけれど、勇気なんてモノは、偽りのセーフティ機能が生み出した鉱物に過ぎない。脳のどこかをしばらく掘ってみれば、無限に湧いてくる。勇気なんて、大したモノではない。


 変わることよりも、変わらないことの方が、ずっと大変だ。暦さんは、全然変わらない。不条理から逃げず、不条理の一部にもならず、不条理に牙を向けることもない。ただそこに、あるがままの暦さんとして座り続けている。日陰に閉じ込められても、太陽光に眼を焼かれても。彼女はずっと、そこに座っていた。


 私は、そんな彼女に、多分、恋をした。恋と言っても、甘くも、苦くもない。焦げた水道水みたいな、無味無臭で、少しだけ熱を帯びた恋だ。そもそも、水は焦げやしないけれど。


 そういうわけで、私の恋は、ありはしないモノだったのかもしれない。それとも、あるべきではないモノだったのか。私は、そう簡単には、暦さんに近付けなかった。私の周りに居る友達モドキたちが、彼女のことを好いてはいなかったからだ。私は、友達モドキに見られていない所で、暦さんに近付こうとした。友達モドキなんか捨てればいいじゃないかと、正直者は言うかもしれない。いやいや、少し待って欲しい。私は、孤立したくはないのだ。だって、生きづらいから。


 友達モドキが部活とか掃除で一緒に帰れない日、私はいつも暦さんの後をつけた。肝心な所で、勇気が不足して。声を掛けることも、横に並ぶこともなく、ただ後ろを歩いていた。ゆっくりでマイペースに歩く彼女を、追い越してしまわないような歩幅で。近付き過ぎないように、見失わないように。だけれど、ある日。

「羽生さん……?偶然。今日は一人なんだね。」

 それが、全ての始まりだった。


 私のロングスカートが、風のない帰り道に、ふわり、ふわりと舞う。私は、暦さんと一緒に帰っていた。最高の時間だ。もう、友達モドキなんかどうだっていい。そう思えるほどに。それからも、私は何度か暦さんと帰った。誘ったり、誘われたりする訳でもなく。偶然を装って、後ろから追い掛けて、気付かれて、そして。そして、一緒に帰った。暦さん。暦さん。暦さん。貴女と一緒の時間には、幸福が溢れて止まない。


「あんた暦と一緒に帰ってたって、マジ?」

 幸福は、友達モドキの干渉を受けた。誰かから聞いたのだろうか。暇な人も居るものだ。こんな時「ありのままの私」なら、友達モドキを捨てて、暦さんを選ぶだろう。そしてこの場合、きっとそっちが正解なのかもしれない。生きやすさよりも、ありのままである事が大事な時もある。それに、「生きやすい私」から「ありのままの私」に変わるのは、逆がそうだったように、きっと簡単なはずだ。だから。だから……。でも。私は。

「そんな訳ないじゃん。誰があんな根暗と。」

 私は、生きやすさを選んでしまった。そして、その選択に伴うこの言葉は。

「……。」

 暦さんの耳にも、多分届いていた。だって、彼女の座る席は、私の目の前だったから。


 何かが終わってしまった。何かを諦めてしまった。何かを、捨ててしまった。そんな気分がどうしようもなく押し寄せて、押し寄せて、吐き気がしながら、私は一人で帰っていた。眼球が痛む。視界に、嫌な霧が映る。この眼球はもう、貴女の笑顔を映せない。暦さんはきっと、私を嫌いになっただろう。暦さんは正直な人だから、それを隠すことも多分しない。私は暦さんに、黙って嫌われるしかないのだ。暦さん。暦さん。暦さん。貴女が、正直者なばっかりに、私は。私は……。私は、貴女に……。

「あ、羽生さん。また会ったね。」

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