ルチアの気持ち
にぎやかな子どもたちの声を遠くに聴きながら、ルチアは古びた建物に背を預けて力を抜いた。
「ルチアさま、御髪が汚れます!」
「いいじゃない、エミリー。どうせ服は土まみれ、帰ったらお風呂に入るのだから」
今日は勇者の鎧でもなく、貴族の女性らしいドレスでもない。平民の男性が着るというシンプルなシャツにジレを着て、細身のズボンを履いている。脚元は膝まである編み上げのブーツ。
とても身軽で気持ちまで軽くなるようだ。
(無理を言って出かけて良かった)
エミリーの小言を聞き流して、ルチアは心地よい疲労に身を委ねる。
今日はノアがルークの供として勇者の引退パレードに参加しているため、本当はルチアはハウスタウンにこもっているはずだった。
けれどじっとしていると昨日のオーウェンからの求婚のことを考えてしまうから、エミリーにお願いをして出かけたのだ。
孤児院の子どもたちに剣の稽古をつけたい、と口実をつけて。
王都は人口が多いだけあって、孤児院に預けられる子どもの数も領地とは比べものにならない。
身分を隠して孤児院をおとずれたルチアは、大勢の子どものパワーに圧倒されてすっかり疲れていた。孤児院の裏手はひと目のない場所だからと、遠慮なくくつろぐ。
稽古のあとにもかかわらず院の庭を駆け回って遊ぶ子どもたちの姿に、自分はもう若くないのだと思い知らされる。
「エミリー。結婚って、どんなものなのかな」
ぼうっとしていると、不意にくちから思考がこぼれ落ちた。
くちにしてから、しまったとルチアは身体を起こす。
「いや、今のは忘れてほしい。エミリーは私のために今日まで独身のまま勤めてくれたというのに……配慮に欠いていた」
身代わりの勇者という秘密を守るため、ルチア付きの侍女に選ばれたエミリーはルチア以上に狭い世界で暮らすことを要求された。
結婚はおろか恋人を作ることもできず、ルチアが勇者として遠征に出る間は帰りを待って無人の部屋の手入ればかり。
ひどく、退屈な人生を送らせてしまった。
「そんな! 配慮だなんて。私は男装なさるルチアさまをはじめて見たときから、生涯をルチアさまに捧げようと誓っておりますのに!」
だというのに、エミリーは真剣な顔でそんなことを言ってくれる。
「ははは。ありがとう、エミリー。私がエミリーを娶ってあげられれば良かったのだけれど」
「それはっ、なんというご褒美っ!」
ルチアの冗談にエミリーは大げさに反応してくれる。
ことばの意味はよくわからないけれど、明るい彼女には何度も救われてきた。
小柄なエミリーはつぶらな瞳に栗色の髪が相まって、昔から子リスのようにかわいらしい。くるくる変わる表情とよく動く働き者の彼女は、いつまでたっても愛らしいままで、とてもルチアより年上には見えない。
「いえいえ、そうではなくて! 結婚とは!? もしやルチアさま、ついにようやく重たい腰をあげてノぁ」
「うん、副団長に結婚を申し込まれてね」
くわっと目を見開いたエミリーに、ルチアは照れながらも答える。
途端に、エミリーは目を大きく見開いてくちを閉ざしてしまった。
「エミリー、いまなにか言いかけていなかった?」
「いえいえいえいえ! そんなことはございませんとも! ええ、それで! ルチアさまに結婚を申し込んだというのは、あの騎士団の副団長さまでしょうか?」
早口で否定されたうえ流れるように促されて、ルチアは昨日のオーウェンを思い出してじわりと頬に熱を登らせる。
「うん。十年前から私が女だと気づいて黙ってくれていて、それからもずっと、勇者のことを支えながら見ていたって。私のことを尊敬してくれていて……よ、嫁に来ないか、と言ってくれたんだ」
改めてくちにすると恥ずかしさが湧き上がる。四十にもなって、若い娘のように照れているだなんて。
「まあ! まあまあまあまあ! 男装の麗人のモテ期キター!」
くちを手のひらで覆いながら、エミリーが喜色にあふれた声をあげている。相変わらずなにを言っているかはわからないけれど、ひどく嬉しそうだとわかる。
しかし、エミリーはハッとしたように表情を改めた。
「あの、その場にノアさんは」
「居たよ。私が動揺していたものだから、ずっと手を握っていてくれた」
「……っそ、それで! ルチアさまはどのようなお返事を?」
エミリーが何かをこらえるように顔をくしゃりと歪めたのは一瞬。問われて、ルチアはうつむいた。
「なにも……なにも、言えなかった。とても良い話なのだから受け入れるべきだとわかっていたのだけれど。副団長は、オーウェンはいつまででも待つと言ってくれたけれど」
昨日から、そのことをずっと考えている。
手合わせのあと騎士塔に与えられた部屋の片付けをするあいだ、ノアとの間にことばはなかった。いや、物言いたげなノアの視線を避けてくちを閉ざしたのはルチアだ。
またとない良い話なのだ、受けるべきだとわかっているのに、ルチアは答えをくちにできなかった。
そうこうするうちにノアはルークの供をするために別行動となり、一晩中悩んだルチアは、息抜きのためにエミリーを連れて出かけたのだ。
今ごろ、引退前のお披露目を終えたルークは新たな勇者と会食をしているころだろうか。その場には勇者を支える者としてオーウェンもいるだろう。
その場に同席しているであろうノアは壁際に控えて、なにを思っているだろうか。
「ルチアさまは、どうしたいのですか」
再び悩み、黙りこんでしまったルチアに、エミリーがやさしく問いかけてくれる。
「良い話だとか、受けるべきだなんてことは置いておいて。ルチアさまがどうされたいのか。教えてくださいませ」
「私の、意思」
エミリーのことばにルチアは瞬いた。
貴族の娘として、行き遅れとしてどうすべきかではなくて、ルチアがどうしたいのか。
「旦那さまもルークさまも、きっとルチアさまの意思を尊重してくださるはずです。おふたりはずっと、身代わりを勤められるルチアさまのお心を案じておられましたから」
おだやかなエミリーのことばが、すっと胸にしみてくる。
勇者として過ごした二十五年のあいだ、父は何度となくルチアの気持ちを確認してくれた。身代わりでいるのが辛いなら、いつでも辞めていいのだと言ってくれた。
兄のルークも、謝罪のことばを封じて感謝ばかりをたくさんくれた。自分ひとりが栄誉を手にすることを気にしてか、褒賞のすべてをルチアに渡そうとしていた。養うべき家族がいるのだから、とどうにか半分受け取らせたけれど。
その家族だって、子を成せないルチアの分もという思いがあったことを知っている。ルークは何も言わないけれど、わかっていた。
父も兄もルチアを愛してくれている。
貴族としてどうあるべきかではなく、心のままにあることを許してくれる。
改めてそのことに気づかされて、ルチアははじめて自分の心と向き合った。
「副団長さまでなくとも良いのです。たとえば平民男性とともにしがらみのない暮らしという手もありますし、結婚にこだわらずおひとりで自由気ままに暮らしても良いですし」
エミリーが提示してくれる可能性をひとつひとつ想像して、ルチアは自分の気持ちを表すことばを探す。
「私は……」