気が付いてしまった思い
トマス家のカントリーハウスは最小限の人数で回せるように、部屋数も最小限になっている。
そのため、使用人のための棟などなく、ルチアの部屋のとなりはエミリーの部屋だ。
おかげで、深夜といえるこの時間でも明かりを持たずに行くことができる。
気軽にいつでもお越しください、というエミリーのことばを免罪符に扉をノックしたルチアだったけれど、返事が無い。しばらく待ってみても、扉の向こうはしんと静まっている。
「……いない?」
父も兄ももう寝ている時間だというのに、エミリーが部屋に戻っていない。
ほかに行く場所といえば、と考えてルチアはキッチンに向かう。夜中にくち寂しいときは温かいお茶を飲むのです! と言っていたエミリーのことばを思い出したのだ。
暗い廊下を明かりも持たずに進む。勇者をしていたときは夜間の討伐もあったし、暗がりには慣れている。
ついくせで足音まで消しながら向かった廊下の先でキッチンからこぼれる明かりを目にして、やっぱりここだったか、とルチアはくちを開く。
「エミ……」
かけようとした声は、明かりの下の人影を目にしてのどの奥に消える。
キッチンの作業台に向かって並んで腰かけているのは、ノアとエミリーだ。ふたりで一服していたのだろうか、それぞれの手元にグラスが置かれている。
それは見慣れた光景。けれど、エミリーがノアの頭をなでる姿なんてはじめて見た。
ふたりは仕事の同僚として、適度な距離感を持って接しているとばかり思っていたから。
衝撃に固まるルチアの視界で、ノアがエミリーになでられている頭を作業台に押し付けて突っ伏す。いつも背筋を伸ばして立つ彼の、そんな気を抜いた姿を見るのは幼いころ以来ではないだろうか。
こちらに背中を向けているせいで表情までは見えないけれど、あんなくつろいだ姿をエミリーの前では見せるのか、とルチアは動けなかった。
そのせいで、聞くつもりもないのにふたりの会話が聞こえてきてしまう。
「ルチアさま、今日はとっても楽しかったのですって。髪飾り、お相手の方の目の色の石がついていてね。すてきだったわぁ」
「……そういうの、欲しいのか」
むくりと身体を起こしたノアが問えば、エミリーは彼の頭から手を離して肩をすくめた。
「まあね。いくつになってもやっぱり、憧れるものでしょう。商人の方と食べ歩きなんかもしたそうよ。それって庶民デートよね、完全に。いいわよねえ」
「……俺だって、街遊びくらい連れて行ってやれる」
「あら、それは楽しみね」
ノアがうなるように返し、エミリーがころころと笑うのを聞いて、ルチアの胸がずきりと痛んだ。
露天商が広げる品物を手に取り、エミリーの髪にあててみるノアの姿が脳裏に浮かぶ。
その髪飾りにはノアの瞳のようなエメラルドグリーンの石がはまっているのだろうか。エミリーはほほを染めて受け取るのだろうか。
「ルチアさま、どなたと結婚するのかしら。さみしくなるわねえ」
「……結婚、か。俺もプロポーズしてえなあ……」
しみじみとつぶやくノアの声に、ルチアは目を見開いた。
まさか、と思ったところでエミリーの笑い声が聞こえる。
「ようやく? 私、待ちくたびれちゃったわ」
くすくすと笑う声に、ノアが「悪かったな」と不貞腐れたようにこぼすのをもう聞いていられなかった。
足音を殺してその場を離れる。
令嬢には必要のない能力。けれど剣の道を進み、戦いの場に生きてきたルチアがしっかりと身に着けている能力。
今は、その能力があって良かったと心の底から思えた。
明るいキッチンから遠ざかり、ひとり暗がりを進む。
動揺する心は気持ちを張りつめさせれば耐えられる。どんなときでも自分を保てるように、戦いのなかで生き延びられるように鍛えてきたのだから。
けれど。
込み上がってくる涙を止めることはできない。
戦いへの恐怖も怪我の痛みも耐えられるようになったけれど、心から込み上げるようにあふれる涙をせき止める訓練は、したことがなかった。
(こぼれるな、こぼれるな、こぼれるな……!)
必死に心のなかで唱えながら足音を立てないように、ルチアは精いっぱいの速さで自室を目指す。
涙をこぼさないために、まばたきを耐えてただ足を動かす。
ただ前へ進みたいのに、ルチアの頭は勝手に見たくもないものを見る。
エミリーに頭を撫でられるノアの姿。くつろいだ姿で寄り添うふたり。街を歩くふたりは、手をつなぐのだろうか。それとも腕を組むのかもしれない。そこにルチアの存在は必要ない。
いつも表情を崩さないノアは、エミリーの前ではやさしく笑うのだろうか。幼いころに笑い合ったノアの顔しか見たことのないルチアには、大人になったノアの笑顔は想像できなかった。
「……お似合いだなあ」
自分の部屋に滑り込み、閉じた扉に背を預けてルチアはつぶやく。
こらえるのを止めた涙が、頬を伝って次々と落ちていく。
「私がはやく結婚しないと、ふたりが結婚できないんだ」
くちにすれば瞳はますます熱くなる。
みっともなく泣きわめくのを耐えて、ルチアの鼻がぐすりと鳴った。
どこかで、これからもずっといっしょにいられるものだと思っていた。
勇者をやめても、ルチアのそばには彼らがいるのだと思っていた。
そんなわけないのに。
ルチアが誰かを選ぶように、ノアにもエミリーにも誰かを選ぶ権利がある。父が母を大切にするように、兄は自分の家族を大切にするだろう。
それぞれが大切なひとを見つけて、ルチアだけが取り残される。
家族のようにずっと近くにいてくれたから忘れていた。ノアは、エミリーは、仕事だからルチアのそばにいてくれただけなのに。
生涯をルチアに捧げる必要なんてない。
もっと早くに気が付くべきだった。
これからのルチアの人生に、ノアもエミリーも居ないのだ。
「馬鹿だなあ、私は」
握りしめた拳が震える。
いなくなってしまうと思い至ってようやく、ルチアは自分の気持ちに気が付いた。
ルチアがこれからの人生でそばにいてほしいと願っていたのは、ノアだったのだ。
エミリーとはたとえ互いに結婚して離れても、会いに行くことができると思っていた。
けれどノアは、エミリーが結婚しようとルチアが結婚しようと、そばにいるものだと無意識のうちに思ってしまっていた。
どうしてこんな簡単なことに今まで気が付かなかったのか。
遅かった。
あまりにも気が付くのが遅すぎた。
いいや。
ノアとエミリーが愛し合っているのなら、どれだけ時間をさかのぼっても遅かったのかもしれない。
それでも、もっと早くに気が付いていたのなら、もしかしたら。
「はは……馬鹿だな……」
ずるりと扉に押し当てた背中を支えにして崩れ落ちた。
せめて今日だけは泣くことを自分に許そうと、ルチアは膝に額を押し当てる。
明日は笑えますように。
笑ってふたりの仲を応援できますようにと、声を押し殺して泣いた。