ぜいたくな悩み、おとなげない甘え
ノアが呼んでくれた馬車に乗り込んで、ルチアたちは帰路についた。
窓の外に見える夕焼け色の景色がだんだんと色を失くしていくのを見つめながら、気まずい沈黙に耐える。
向かいの座席に座るノアは、いつも通りに背筋を伸ばして座っている。眼鏡越しの澄ました顔には特別な感情を見つけることができず、彼が何を考えているのかわからない。
ただ、重苦しい沈黙に耐えるようにルチアは目を伏せた。手のなかの髪飾りだけが心のよりどころのようで、もらったばかりのそれを指先で撫でながら早く屋敷に着きますように、と祈っていた。
タウンハウスに着いてからも、ノアはルチアと目を合わせることは無かった。
何か言いたげにこちらを見ている視線は感じたけれど、ルチアが顔をあげるとノアが顔を反らしてしまう。
「ルチアさま、お疲れでしょう。お風呂を用意しておりますから、温まってきてください」
出迎えてくれたエミリーにも、不穏な空気は気づかれたのだろう。
あれこれと聞かずに促してくれるのに逆らわず、ノアに背を向けた。
すると、またもの言いたげな視線が背中に突き刺さる。けれど振り向いて視線を逸らされまた落胆するのかと思うと、ルチアは気づかないふりをしてしまった。
「ノア、ルークさまがお待ちよ」
エミリーがノアを遠ざけるように言ってくれて、正直ほっとした。
「……ルチアさま、失礼します」
静かに立ち去るノアを振り向かず、ルチアはバスルームへと歩き出す。
入室前にふと思い出して、手の中の髪飾りをエミリーに渡した。
「あら、こちらは? もしやノぁ……」
「街を案内してくれた方が、プレゼントしてくれて。あ、ちょうどそこに嵌っている石と同じような目をした方だったよ」
彼女の手のなかで改めて見れば、髪飾りにちいさな石がはめ込まれていることに気が付いた。ロバートの目の色によく似た小石だ。
そのことを告げると、きらりと目を輝かせかけたエミリーがなぜか固まった。
けれどエミリーの不思議な行動はいつものこととルチアは気にせず続ける。
「街を歩いて露店をのぞいたり、屋台の食べ物を買って食べたりしてね。とても楽しかった。今日の思い出に取っておくから、しまっておいて」
「わ、ワァ。キレイデスネェ……」
そう言ってくれるのを聞いて、エミリー用に髪飾りを買えば良かったと後悔した。
「ごめん、エミリーにも買ってくればよかったね。代わりと言っては何だけど」
申し訳ない気持ちになりながら、飴玉の瓶をエミリーに渡す。いっしょに食べよう、と言うとエミリーは大げさに喜んでくれた。
気を使わせたな、と反省しながらルチアはひとり、バスルームへ向かうのだった。
※※※
その夜、ルチアは眠れずにいた。
暗い気持ちはシャワーの水とともに流して、夕食の席では家族三人で今日の楽しかったことなどを話してなごやかに過ごせたというのに。
食事も済んで、エミリーも下がらせひとりになると、途端にあれこれと色々な考えが思い浮かんで眠れない。
勇者を引退してからのほんの短い期間で、三人もの男性に声をかけられてしまった。
これまでの人生で剣の道ひとすじだったルチアにとっては大事件だ。
それぞれにルチアを思ってくれ、ルチアの心を待ってくれると言った。
けれど、ことば通りにいつまでも待たせるわけにもいかない。
ルチアが悩む時間が長いほど父に心労をかけるし、兄が自分の家族と過ごす時間が短くなってしまう。
誰かを選ばなければならない。
けれど誰を選ぶべきなのか。
オーウェンは頼り甲斐のある良いひとだ。
勇者としての戦いのなか、何度も支えてくれた彼のことをルチアも信頼している。
武を誇るものとしてともに並び立つことができるだろう。
ウィリアムの手を取れば生涯、安泰だろう。
彼の眼差しはルチアも知らなかった自尊心をくすぐってくれた。
恐れ多い気持ちもあるけれど、彼のやさしいことばと熱い思いがあればルチアの心は満たされるだろう。
ロバートといる時間は楽しかった。
出会ってからの期間こそ短いけれど、彼と過ごす時間は気負うこともなくただのルチアでいられた。
彼と見て回る世界は未知にあふれているだろうけれど、ふたりでならそれさえも楽しめるだろう。
どのひとも、ルチアにはもったいないほど良いひとだ。
誰と生きたとしてもルチアは幸せになれるだろう、と思える。
考えれば考えるほど答えが出せなくなって、ルチアはとうとうベッドから身体を起こした。
「エミリーに相談しよう」
ひとりで悩んでわからないことは誰かに相談すべきだ。
けれど母は領地で寝たきりだし、父に言うには気の多い娘だと呆れられてしまいそうで言えない。
ルークはふたごとはいえ兄だ。相談すれば聞いてくれるだろうけれど、気恥しい。
「こんなとき、いつもなら……」
勇者をしていたときは、困ったときや悩んだときにはノアに相談をしてきた。
ふたりであれこれ考え、それでも足りなければ兄を巻き込むことで、ルチアはどうにかこうにか勇者を続けてこられた。
けれど、今回はノアを頼れない。
頼りたい気持ちはあるけれど、昼間のノアを思い出せば彼の部屋の扉をノックする勇気は出なかった。
そもそも、もう勇者でないルチアが、ノアを頼るのはいけないことなのかもしれない。
ふと至った考えに、ルチアの胸がさみしさに震える。
「そう、ノアは勇者の補佐をしていただけなんだから。それに、貴族の女性が男性と夜にふたりで会うなんて、良くないことのはずだから」
遠い昔に習った貴族の在り方をつぶやいて、ルチアはさみしい気持ちをなだめた。もう勇者でないルチアは、貴族としてあるべきなのだ。
このさみしさも、エミリーになぐさめてもらおう。
親しいひとが遠くなるようでさみしいのだと言えば、やさしい彼女は抱きしめてくれるかもしれない。
誰かひとりの男性を選べば、エミリーの腕ともお別れになるかもしれないのだ。
今だけ彼女のやさしさに甘えてしまおうと、ルチアは夜着のうえに上着を羽織って部屋を抜け出した。