新たなる選択肢
唐突な告白めいたことばにルチアは瞬きをくり返す。
まっすぐに見つめ返してくるロバートの瞳から目を反らせないまま、ルチアは恐る恐るくちを開いた。
「庶民流の冗句か……? また遊ぼう、という意味を持つなんてことは」
「正真正銘、プロポーズだよ」
「なっ!」
からかうような口調で、けれど目は真剣なロバートにルチアは絶句した。
驚き混乱しながらも、頭のなかでは考えが渦巻く。
父がルチアの案内のために未婚の男性をつけるはずがない。気兼ねなく遊べるように、と年のころが釣り合う相手を選ぶくらいはするかもしれないが、ロバートは既婚のはずだ。
「ルチア、顔真っ赤だね。ふふ、僕は既婚者だよ」
「な、か、からかうな!」
考えていることを読まれたのか、告げられたことばにやはりからかわれたのだ、とルチアはロバートをにらみながら帽子を深くかぶり直す。広いつばが、少しでも顔を隠してくれるように。
「既婚者だけど、妻にはもう十年も前に先立たれていてね」
続いたことばにルチアは照れや怒りも忘れ、慌てて顔を上げた。
「それは、済まないことを」
「いいんだ。もう吹っ切れてる。それに、妻はかわいい子どもを四人も残していってくれたからね」
そう言うロバートの声には、確かに悲哀の響きは感じられない。ただ、温かな愛おしさが込められているだけだ。
「……そうか、寂しくはなかったのだな」
「うん。寂しくなかった。僕には子どもたちがいたし、商売もあった。忙しくて、寂しいと思っている暇もなかった」
ロバートが穏やかな顔で言うのを見て、ルチアはほっと息を吐いた。今日会ったばかりの彼だけれど友人になれた気がして、彼の心の浮き沈みが気にかかってしまう。
身分を隠したルチアは多くを語れないけれど、彼のことをもっと知りたいとそのことばに耳を傾ける。
「けれど、子どもたちもみんなひとり立ちをしてね。商売も子どもに譲ったから、隠居を期に異国を見て回ろうと思っているところに、あなたに会ったんだ」
「ちょ、ちょっと待ってほしい。子どもがひとり立ち? 隠居? あなたは、ロバートは何歳なんだ?」
穏やかな語りを聞いているつもりだったルチアは、思わぬことを言われてついくちを挟んでしまう。
「僕? 僕は三十五歳だよ。子どもは、いちばん上が二十歳で、いちばん下が十六歳だね。兄弟で協力して商売を盛り上げてくれてる、頼もしい子たちだよ」
ロバートは気を悪くした風もなく、くすりと笑って答えてくれた。
ルチアは「三十五、二十歳、十五のときの子……?」と情報量の多さに圧倒されながらもロバートの年齢を把握した。言動が若いような気がしていたが、やはり年下だったらしい。思っていたほどの年の差はなかったが。
「異国を旅していろんなひとや物を見たい、そこにあなたがいたなら。そう思ってしまったんだ。あなたの身分も本当の名前も、知らないのにね」
くすりと笑ったロバートの顔から、ルチアは目を離せなかった。
はじめに見せた妖艶な表情とも、街歩きをするなかで見せた子どものような表情とも違う。
叶わない夢を抱いて、けれど叶えられたならと夢想する哀しい笑みだ。
その笑顔をルチアは何度も目にしていた。
勇者として人びとに囲まれる兄を遠目に眺め、ふとすぐそばの水たまりに映る自分の顔ににじむ表情。
華やかな服をまとって笑い合う少女たちを馬車の窓に見ながら帰った、自室の鏡に映った顔に浮かんでいた憧れと諦めの入り混じった静かな笑み。
その切なさが、ロバートの笑みににじんでいる。
それを見て取って、彼のくれたことばに潜む想いの深さを悟って、ルチアは胸がきしんだ。
彼はルチアの身分を知らないけれど、平民同士ではないことに気づいている。
彼が手を伸ばしたところでルチアの身分に届かないと気づいていてなお、ルチアを求めてくれている。
「ロバート、私は……」
その想いにルチアが返せることばを探そうと、くちを開きかけたとき。
「ルー!こんなところでなにを!」
夕暮れの静けさを切り裂く声がした。
振り向けば、走り去る馬車を背に駆けて来るノアが見える。
思わず立ち上がったルチアが、身分を隠しているいまノアの名を呼んでいいものか悩んでいるうちに、ノアのほうが目の前にたどり着いた。
「ルー……さま。彼は?」
肩で息をしながらも、ノアがたずねてくる。油断なく細められた眼鏡の奥の目は、いつの間にかルチアの横に立っているロバートに向けられていた。
「彼は」
「ああ、お別れの時間が来ちゃったね。残念」
ルチアが説明をするよりはやく、ロバートが肩をすくめて明るい笑顔を浮かべた。
残念、と言いながらも彼の声はどこか楽し気だ。
面倒な案内役が終わるのがうれしいのか、と寂しい気持ちになったルチアに顔を寄せて、ロバートがくすりと笑う。
「ねえ、こういうときはきちんと偽名を名乗るものだよ。僕みたいなのに愛称を覚えられてしまうんだからね、ルー?」
ささやく声がひどく甘い。目を見開いたルチアが何か言うよりも早く、ロバートがルチアの帽子を手に取った。
止める間もなく外された帽子のした、さらりと流れた髪に触れて彼がほほえむ。
「あなたが広い世界を見たいと思ってくれたなら、僕をたずねてきて。またね、ルー」
ぱちん、と軽い音を立ててルチアの髪の毛が頭の後ろで留められた。露わになったうなじにそっとキスを落としたロバートは、帽子をルチアの頭に軽くのせて離れていく。
「なっ、お前!」
「あははは!」
ノアが怒声をあげたときには、ロバートの姿はひとの波に飲まれてもう見えなくなっていた。
最後に残した笑い声を聞きながら、ルチアはそっと後頭部に触れた。手探りで外したものに目をやる。
「これ、昼間の……」
手のひらにおさまるちいさなそれに、見覚えがあった。
露店を巡ったとき、あれこれ悩みすぎてルチアがけっきょく買わなかった髪飾りだ。ロバートはいつの間に買っていたのだろう。
庶民向けに作られた露店の品物は、母が持っていた宝飾品ほど洗練されておらず、年のいったルチアにはきっと似合っていないはずだ。そう思ったから、ルチアも買わずにいた。
けれど、プレゼントされてしまえばうれしくて、ルチアはロバートの去った街を見つめて、髪飾りを指でなぞるのだった。




