おだやかな未来を思い描く
「それは、王族としての命令でしょうか」
硬い声でエミリーが問いかけた。
途端に、ウィリアムは眉を下げて悲しげな表情になる。
「そのような無粋なことはしません。いい年をして恥ずかしいことですが、私は戦う勇者の姿に憧れを持っておりました」
ウィリアムのことばを聞いて、ルチアは現王の弟が武張ったこととは無縁の穏やかな方だと言われていたことを思い出した。
争いを好まず、兄である王との間にいらぬ諍いをもたらさないよう独身を貫いているということも。
「勇者ルークは勇者を引退後、遠い領地に帰ってしまうと聞いていましたから。最後にお会いして剣を振るう姿を見たいと思ったのですが」
しわの刻まれた顔に照れを浮かばせて、ウィリアムが微笑む。
「長年憧れていたあなたが女性でそのうえ既婚者で無いのなら、私のそばにいて欲しいと思ったのです。これは王族としてではなく、私個人の願いです」
ウィリアムのことばを最後まで聞いて、エミリーは無言でルチアの横に下がった。
「それでしたら、私から申し上げることはございません。あとはルチアさまのお心ひとつです」
静かに頭を下げるエミリーに、ウィリアムがぱっと表情を明るくする。軽やかに一歩を踏み出した彼は、ルチアの右手を取り両手でうやうやしく包み込んだ。
「私がこの年まで独り身でいたのも、今日のこの日のためだったのかもしれません。勇者として半生を過ごしたあなたに報いるにはあまりにささやかですが、この手を取ってくださったなら王族のひとりとして、不自由のない暮らしを約束いたします」
剣だこだらけのルチアの手よりやわらかい、けれどしっかりと節くれ立った男性の手に直接触れられていることに、ルチアは緊張してしまう。
昨日で別れを告げたはずの全身鎧が無性に恋しかった。
勇者として過ごすなかでノアの手に触れることは何度もあったけれど彼は常に布手袋をはめて接していたから、手とはいえ男性の素肌に触れるなど、いつぶりだろうか。
「あの……私は……」
ことばが胸につかえて出てこない。
勇者として振る舞うルチアはこんなに優柔不断では無かったはずなのに。
戦いの場においては迷わず駆け抜けて生きてきたというのに、自分自身のこととなると途端にどうしていいかわからなくなってしまうのだと、この歳になって知るなんて。
繋がれた手をどうしていいかもわからないまま、きょどきょどと視線を泳がすルチアを見つめて、ウィリアムが柔らかくほほえむ。
「この場で答えを出すことは求めません。あなたの心が決まったときに、聞かせてもらえれば良いのです」
彼の穏やかな笑みは、ルチアの心を包み込むようだ。
答えを急かさないと言ってもらえたことにほっとしていると、ウィリアムがいたずらっぽく口角をあげる。
「けれどあまり長く待たせないでくださいね。私はもう五十を迎えますから、あまり返事が遅いと墓の下に入ってしまいますよ」
「そんな。十しか違わないのですから、そのようなことは」
まだ五十だと言うこともできたけれど、ルチアの母はその年のころから段々と眠っている時間が増えてきて、今ではほとんど寝たままでいる。
ウィリアムのことばがあながち冗談とも思えなくて、ルチアは反応に困った。
「ああ、すみません。あなたを困らせたいわけではなかったのですが」
ルチアの困惑をすぐに察して、ウィリアムが眉を下げる。
包み込むようにつないだ手にそっと力を込めて、彼はほほえんだ。
「すこしでも私のことを考えてくださるなら、宰相宛てに手紙をください。結婚の返事でなくとも、構いません。お茶を飲んで話したり王城の庭園をあなたと歩きたいのです。ゆっくりと、互いを知る時間を持ちませんか」
おだやかなウィリアムの思いやりが、ルチアの戸惑う心にじんわりとしみてくる。
彼の手を取ったなら、こんなおだやかな心地で日々を過ごせるのだろうか。
娘時代にほとんど着ることの無かった華やかなドレスをまとい、優雅なティータイムや庭園の散歩を楽しんで。王族ならば、楽士を呼んでダンスをすることもあるかもしれない。
病弱だと世間に伝えてきたルチアは、ダンスパーティーに出たことも、優雅なお茶会に招かれたこともない。
そんな優雅な暮らしが出来るのならば、父も兄も安心してくれるだろう。
昔を思い出して剣を手にしたくなったときには、どうだろうか。
王族の妻として騎士のような剣を振るうことはきっと許されないだろう。それとも、隠れて素振りくらいはできるだろうか。
戦いとは無縁のおだやかな暮らし。ルチアの剣術のファンだと言うウィリアムは、ふたりきりのときに過去の栄光を思い出させてくれるかもしれない。
そんな未来を思い描いてみた。
オーウェンの申し出で散々に悩んだ後だからこそ、ルチアの気持ちにわずかな余裕が生まれていた。
その余裕で描いた未来は、悪くないように思えた。
けれど、ルチアはまだオーウェンとの未来について考えていない。返事をするならば、どちらもしっかりと考えたうえでなければ、失礼だろう。
ルチアは、ウィリアムに包み込まれた自分のそっと抜き取った。
きちりと姿勢を正し、真正面から彼に向き合う。
「ウィリアムさまのお申し出、大変に光栄なことと存じます。しかし軽々しくお返事を差し上げられることでもありませんので、おことばに甘えてしっかりと考えさせていただきます」
「はい、待っています。次に会うときには、もうすこし打ち解けてもらえるとうれしいですね」
ルチアとしては失礼のないようにとことばを選んだつもりだったが、男女の仲を深めようという相手に対しては相応しくない物言いだったらしい。
家族のほかにノアとエミリーくらいしか親しくする者のいなかったルチアにとって、単純な上下の関係だけでなく個人の意思を加えたやり取りは縁が無かった。
この歳になってもまだまだ学ばなければいけないことが山ほどあるようだ、とルチアは情けない気持ちになる。
ウィリアムがくすりと目尻のしわを深くしたとき、遠くでチリン、と鈴の音が聞こえた。
「ああ、もう時間のようです」
孤児院の裏手という寂れた場所に似つかわしくないひどく澄んだその音色は、目の前の貴人に合図する音だったらしい。
「庭園のバラがもうすぐ見頃を迎えます。ぜひあなたに見てほしい。また会いましょう」
そう言い残して、ウィリアムは去っていった。