身代わり勇者の引退
やわらかな陽射しのふりそそぐ窓辺に腰かけて、ルチアは眼下の景色に目を細めた。
遮る物のない広い鍛錬場で、簡易鎧を付けた騎士の卵たちが剣を振っている。街中にある騎士塔の最上階、ルチアに用意された部屋までも騎士たちの威勢の良い掛け声が届く。
(なつかしいな)
幼いころ、ルチアもまたああして剣技を磨いたものだ。ルチアの場合は事情があって集団での指導は受けることがなかったけれど、それでも懐かしい。
あれからずいぶん長い時間が流れて、ルチアももう四十歳だ。
鍛え続けた剣技は若いころとは比較にならないほど磨かれたと自負しているが、加齢により体力や筋力が落ちていく自覚もあった。
力任せに魔物をねじ伏せていたあのころは若かった、と振り返ってしまう。
遠い記憶に思いを馳せていたルチアは、部屋の外から近づいてくる足音に気が付いて鎧のバイザーを下ろした。
「ルーさま、ノアです。入室してもよろしいでしょうか」
「うん。入って」
ノックに続いたのが既知の相手の声と名前であったことで、ルチアは肩の力を抜いた。同時に、下ろしたばかりのバイザーも上げる。
眉からあごまでを覆うバイザーはルチアの必需品だけれど、視界の狭さにはけっきょく最後まで慣れなかった。
「失礼いたします」
入室してきたのは侍従のノアだ。細身の体を黒の三つ揃えに包み、濃い紫のタイを隙なく締めている。ダークブラウンの髪をオールバックになでつけた彼は、やや野暮ったい眼鏡の奥できれいなエメラルドの瞳を細めた。
「ルーさま。入室者の確認もせずにお顔をさらしてはなりませんと、何度申し上げたら」
「ノアの声は間違えない。それに、足音は一人分だったよ」
ルチアが自信を持って答えれば、彼は眉を寄せながらも口元を緩ませるという、器用な顔をしてみせた。彼とルチアは長い付き合いだけれど、この表情が不機嫌なのか、喜んでいるの未だにわからない。
ルチアの兄は「複雑な男心というものだよ」と苦笑していたけれど。
「それに、ノアだって私のことをルーと呼んだろう。この恰好のときはルークと呼んでと言っているのに」
言いながら、ルチアはバイザーを下ろしてすっかり顔を隠した。女性にしては背の高いルチアはプレートアーマーに全身を包まれてしまえば、男か女かもわからなくなる。
見慣れた主人の鎧姿に、ノアはきれいな作り笑顔を浮かべた。
「ルークさまの愛称もルーさまですから。なんの問題もありません」
隙のない態度でしれっと言うとき、ノアは決して譲らない。こうなったら言わせておくしかないというのはとうの昔に学んでいる。腕っぷしならばルチアの圧勝なのだけれど。
「それよりも、何をしておられたのですか。お仕度がまだ済んでいないようですが」
騎士塔でルチアに与えられた部屋を見回したノアは、あちらこちらに置かれたままの荷物に目をやって唇のはしを吊り上げた。
眼鏡の奥のまったく笑っていない目に見据えられて、その鋭いグリーンの光にたじろぎながらもルチアは彼を手招く。怪訝な顔をしながらも寄って来たノアに窓の下を見るよう促した。
「もうこの景色も見納めかと思うと、つい眺めてしまってね」
鍛錬する騎士見習いたちの姿をよく見ようと、ルチアはバイザーを上げた。
部屋をもらった当初は散々むさくるしいと言っていたのに、と笑うルチアを振り返ったノアは、きれいな眉をわずかに寄せている。
けれどそこに先ほどの不機嫌さはなく、端正な顔に浮かぶわずかな表情は悲しみを漂わせていた。
いつも冷静に支えてくれる侍従が似合わない顔をしているものだから、ルチアはついつい声をあげて笑ってしまう。
「ははは、そんな顔しないでよノア。私はそもそもここにいられるはずのない人間だったんだから、思うさま剣を振るえた今日までの日を幸運に思うだけだよ」
「ルー……」
気遣わしげな表情を浮かべたノアが手を伸ばし、その手がルチアに触れようとしたそのとき。
カンカンカンッ。
力強いノックの音が部屋に響いた。
びくりと引っ込んだノアの手を視界の端に映しながら、ルチアはバイザーを引き下げた。
「勇者ルークどの! 明日の引退式の打ち合わせの準備が整いました! ご足労願います!」
扉越しでもよく通る声は、騎士団の誰かだろう。
「わかった、いま行く!」
負けぬようはきはきと、けれど声が高くなってしまわないよう気をつけて応えてからルチアは窓辺を離れた。
「……いよいよ引退、か」
ちいさくつぶやいた声は兜に阻まれてノアにも届かなかったらしい。
さっそうと扉の横に向かった彼がドアノブに手をかけて視線で伺ってくるのに、ルチアはうなずいて返した。
ガチャリと音を立てて開いた扉の向こうは、カーテンを開け放った部屋のなかより明かりが少なくて一瞬、ルチアはその先が見えなかった。
それはまるで、明日からのルチアの生き方が見通せないことを暗示しているかのようで、立ち止まってしまいそうになる。
(この歳まで勇者として剣を振るってきたのに、明日が終わった途端にドレスをまとって生きられるだろうか)
何度となく繰り返してきた自問だ。
貴族の令嬢としての結婚適齢期を過ぎたころから、歳を重ねるごとに胸にのしかかってきた自問の答えは、まだ出ない。
「ルーさま?」
ノアにちいさく呼ばれて、はっとした。
「いや、何でもないよ」
長く、本当に長く仕えてくれたノアの瞳に心配が揺らめくのを見て、ルチアは気を引き締めた。
答えなどなくても進まなければならない。道の先にいる魔物がどれほど強いかわからなくとも進んできた、今日までのように。
(私は、勇者ルークなのだから)
自身に言い聞かせてうす暗い全身鎧のなかでぐっとくちを引き結ぶと、ルチアは一歩を踏み出した。