現代日本人による「謙虚」の誤解について
大和民族の民族性ないしは、日本国民の国民性として、自他ともに第一に挙げられる特徴といえば「謙虚」ということであろう。わたしは、この常識を一部賛同はできるが、大半は賛同できない。
現代の日本人は非常にこの「謙虚」という言葉を分かりやすく誤解している。辞書では、「謙虚」は、『自分を偉いものと思わず、すなおに他に学ぶ気持があること。』と書かれている。わたしが誤解していると感じるのは勿論、辞書的な意味のみの話ではないが、ある種こちらも譲歩に近い形でこれのみを書かせていただく。
現代日本人は「謙虚」を専ら「ナルシズムの否定」と勘違いをしている。これは間違いも甚だしいもので、思わず溜息も吐いてしまうものである。
そもそもとして、人間やそれを含む動物というものには「ナルシズム」というものは絶対的に存在する。これを否定するということは動物としての本能を否定することと同義である。
そして、これが何よりも重要なのだが、現代日本人は「ナルシズムの否定」を、「外面上」でのみ実行しているのである。この「ナルシズムの否定」においても、その行為をすることによって自分は謙虚であると誤解して、そこに「自己愛」を感じているのだ。言わば、「エセ謙虚」に「自惚れてる」ということだ。
現代日本人の多くがこのような思想を持っていることは本来ならば可笑しく、異常なのである。このような、ほかの民族では現れないような現象によって、現代日本人の頭の中には矛盾が産まれてしまったのだ。それは、「自分で『謙虚』を評価している」という矛盾である。それこそ「自己愛」と言わずに何と言えるだろうか。
この「エセ謙虚」にはもうひとつの側面がある。それは、「自分の意見を押し出さないこと」である。言い換えれば「考えを放棄した『一番病』共が増加してしまった。」ということになる。
現代日本人は、周りの考えに流される人が大半なのである。頭の中には乾いたスポンジしかない民衆は、声を上げている少数派でも直ぐに吸い取り、それを多数派へと変貌させてしまう。それが決して正義とは遠かろうと。
ここで、最初にわたしが引用した辞書的な意味での「謙虚」を読んでみる。わたしがこれまで挙げてきた数々の現代日本人の特徴として、ひとつでも当てはまることがあるだろうか。結果的には、日本人は「謙虚」から最も遠い国民性へと近づいていると言えるだろう。
わたしは最初に「評価」というような肯定的な言葉を敢えて使わなかった。それは、この「謙虚」という言葉が「エセ謙虚」によって悪い方向へと堕ちていったからだ。これは「謙虚」という言葉を楽な方向へと改変し、その言葉に甘え続けた我々の責任である。
我々は今一度、この「謙虚」についてよく考えていかなければならないのではなかろうか。