16. どんな場所でも
眠り姫こと宮下先輩と保健室で出会ってから、数日が経った。ちなみに、そのことを秋津さんに報告すると、「嘘でしょっ、家で漫画なんて読んでる場合じゃなかった……! 悔しい、この目で見たかった……」と嘆いていた。黙っていれば美人なのに、とことんもったいない人だ。
しばらくは、何事もなく日常が続いていたのだ。なんなら、宮下先輩のことも忘れちゃうくらい。ある日は、天谷さんが生理痛で死にそうになっているのを介護し、またある日は、相変わらず転びまくっている進藤君を手当して。
宮下先輩のことを思い出したのは、ある日の放課後だった。思い出した、というよりは、強制的に思い出してしまった、が正しい気もするけれど。
「――何、してるんですか?」
今日も私は、授業が終わってすぐ、保健室に向かおうとしていた。私の教室がある文系棟から本館までの近道である階段をおりて、渡り廊下を歩く。そのとき、視界の端に、何か大きな物体が映った。
園芸部が育てている花壇――の隣の茂みに、見覚えのある線の細いからだが横たわっていた。いや、横たわっているという表現は正しくないかもしれない。正確には、茂みに埋もれていた。上半身が。
……っていやいやどういうことやねん。好奇心に負けてつい目で追ってしまった私のばかやろう。見なければ、スルーして保健室に向かうことができたのに。
咄嗟に私は考えた。見なかったことにして、このまま去ってしまおうと。だけど、仮にも保健室の留守を任されている身としては、さすがにそれは実行できなくて。
とりあえず、近づいてみる。案の定、気持ちよさそうな寝息が聞こえてきて、ほっとする。一応、死んでるわけじゃなさそうだ。
ということは、逆に、例の病気が発動してしまったのだろう。どこでも眠れる人がいるというのはわかるけど、いくら何でも場所を選ばなさすぎでしょうが。
呆れる気持ちもあったけれど、無理のある体制で眠る姿は、心配でもあった。
だから意を決して、彼に声をかけたわけである。こんなところで眠ってしまっている、お姫様に。
意外にも、宮下先輩は私の声に反応してくれた。てっきり起きないかと思っていたのに。投げ出された右手が、ぴくりと動いたのだ。そして、もそもそ、のそのそと起き上がる体。
埋まっていた頭が起き上がり、こちらに向く。無駄に色気を放出している寝起きの顔には、残念なことに葉っぱがたくさんついていた。主に口回りに。……とことん残念な人だな。
「……あれ? 何、してるんだっけ?」
「それはこっちのセリフですよ。とりあえず、おはようございます」
「……君、どこかで会ったこと、あるような」
「保健室の鈴木です。先輩、ここで眠るのはさすがにどうかと思います」
あー、と声を出しながら上体を起こしていく宮下先輩。伸びをする姿は猫のようだけど、あまりに上背がありすぎて、しなやかすぎている。スタイルの無駄遣いだ。
「……んー、掃除の途中で、眠くなって、花壇を避けたところまでは覚えてる」
なるほど。花壇に突っ伏すことだけを回避した結果、茂みに埋もれた形になったのか。
ていうか、掃除していたほかの人たち、起こしに来てあげなよ。そう思ったけれど、ちょっとやそっとのことじゃ起きないのだ。数日前に経験したので、分かる。
逆に、今起きたことがびっくりである。おそらく、そこまで深い眠りじゃなかったんだろうけど。
「宮下先輩、外でも寝ちゃうんですか」
私の質問に、先輩は肩をすくめた。それは肯定ということか。とことん恐ろしい人だ。
「よかったら、保健室でコーヒー淹れますよ。インスタントですけど。それで、なんとか家までは繋いで、家で存分に寝てください」
「……いいの?」
「また倒れられても困るので」
そう言うと、先輩はすっと目を細めた。感情を顔に出さない人だと思ったけれど、そうでもないらしい。うれしそうな雰囲気を感じ取り、私も少しだけ笑った。
どうやら先輩はまだ眠たいようで、足取りがおぼつかないので、肩を貸してあげる。先輩との身長差はおそらく30cm近くあるので、あまり力にはなれていないかもしれないけど、ないよりマシだと思いたい。
そうして、保健室についたときには、私の方が疲れていた。先輩、結構体重かけてきて重たかったんだもんよ!!
「じゃあ、コーヒー淹れるので、座っててください」
私の言葉に、こくりと頷く先輩。やたら眠る以外は、手のかからない人だ。そう思ってしまうのは、最近私の周りで騒がしい彼らのせいだ、絶対に。あの人たちは本当に手がかかるのだ。
考えながら、急いでお湯を沸かす。マリちゃんはもう部活に行ったようで、扉には不在の札がかけられていた。保健室には、先輩と二人きりだけど、無言の時間は思ったよりもつらくない。
インスタントコーヒーの容器のふたをあけると、薬品の匂いとは違う、良い匂いがふわっと香る。それを感じながら、マグカップを二つ用意して。今日は私もコーヒーにしよっと。
「……鈴木さん」
「はい? なんですか?」
コーヒーを用意しながら、上の空で返事をする。それがいけなかったのかもしれない。私は、先輩が立ち上がってこちらに近づいていることも、先輩が究極に色気を放っていた……つまり、眠る寸前だったことも、まったく気づくことができなかった。
私の名前を呼んだくせに、先輩から言葉がかえってこないことを不思議に思って、振り向いたときにやっと気づいたのだ。先輩が私のすぐ近くに立っていて、その長いまつげが伏せられていることに。
咄嗟の判断で、持っていたマグカップは机に置いた。少し乱暴においてしまったけれど、奇跡的にコーヒーはこぼれなかった。
けれど、そんなことに注意を向けている暇はなくて。
「……ごめ、ん。もう、無理」
ちょちょちょちょっと待ってえええ!
そんな私の心の中の叫びもむなしく、先輩は意識を手放した。私の目の前で。
ゆらり、と傾く宮下先輩。大きなからだが、まっすぐこちらに向かってくるのが、スローモーションで見えた。
こんなときですら、先輩の寝顔は美しい。むしろそれだけが唯一の救いかもしれない。っていや、今そんなこと考えてる場合じゃなくて!
あ、ヤバイ、と思ったときにはすでに遅く。先輩が倒れた衝撃で、私は後ろへ尻もちをついてしまった。おしりにじわじわと痛みが広がっていくけれど、それよりも、私の胸にしなだれかかって眠る先輩が問題だ。
私の立派でない胸が受け止めている先輩は、またまた気持ちよさそうに夢の世界へ旅立ってしまった。すうすうと眠りこける先輩は、今度こそ起きそうにない。
細い細いと思っていたけれど、こうしてもたれられると、さすがに重たい。っていうか、この状況だと、床で二人で抱き合っているように見えなくもない。いや、私は一切触ってないですけどね!?
だってしょうがないじゃん、完全に私の胸に顔うずめて寝てんだもん! いや、お粗末な胸ですけど、女の子なので、これはどうにかしたいんですよ!
「先輩、起きてー!!!」
私の叫び声が、保健室にこだました。
ちなみに、その後しばらくして、床で目覚めた先輩は「……あれ?」と不思議そうに首をかしげていた。
――だって、先輩重くて、ベッドまで運ぶなんて無理だったんです。それに、乙女の胸を勝手に借りた代償として、床で眠るくらい安いもの……だよね?
先輩を床に放置した張本人の私は、知らん顔で目覚めのコーヒーを彼にあげたのだった。