誰かに騙されたのだとしたら、それは誰だろう
トマウが目覚めると女の姿はなかった。エイハスが空っぽの棺に鼻先を突っ込んでいる。
何もかも何かの間違いなのだと、トマウは思いたかった。体のあちこちが痛みを感じているが、気のせいだと思いたかった。だが建物の一角から漂ってくる焦げくさいにおいが現実を思い知らせた。招かれざる客が我が家にいる。
トマウはにおいの漂ってくる窓の一つを覗き込む。女が住宅の一室に据え付けられた小さなかまどの前でうつらうつらとしていた。栗色の長い髪はぼさぼさで、尼のような白い服は油で汚れている。
部屋の中は濃い煙が漂い始めているが女は気づいていない様子だ。トマウも気づかなかった事にして棺の元に向かい、エイハスを引っ張り出す。甲羅のように膨らんだ背中のある箇所を決められた手順で操作する。すると一枚の板が外れる。中には確かに中身があった。一切手を付けられてはいない。
甲羅を元に戻し、エイハスを撫でながらトマウは頭の中で少しばかり整理する。
中身は死体だと思って奪った棺の中に生きた女がいた。死臭に気付かず車を見逃したのはこれが理由だろう。
誰かに騙されたのだとしたら、それは誰だろう。ケスパー。この女。依頼主。棺をどこかに運ぼうとしていた男達。そのいずれでもないか、あるいはその全員か。
もしくは騙されてなどいないか。つまり注文通りにあの棺に死体を入れて運ぶ、その可能性をトマウは考えてみた。引き渡す時に死体であればいい、そういう事なのかもしれない。それは報酬に見合う仕事だろうか。もしくはその仕事に見合う報酬だろうか。
叩かれたように窓が開き、追い出されるように煙が溢れだした。空気を求めて這い出してきた女が咳き込みながら何事かを言っているが、意味のある言葉になっていなかった。しばらく咳き込んだ後、女は涙を流して言う。
「すみません。お待たせしました。ちょっと手間取ってしまいまして」
女は咳き込みながら煙から逃げるようにやってくる。エイハスは女から逃げていった。
「俺は何を待たされたんだろう」とトマウは呟く。
「えーっと、朝食はまだですよね? 錆ついた機骸みたいに身動きとらずに寝ていらしたので。ですので作っていたんですよ、朝食を」
「てっきり我が家を燃やし尽くそうとしているのかと思ったよ」
トマウはまだ少しずつ煙の出てくる窓に目を向ける。火はコンロの中に収まっているらしい。
「とんでもないです! これから頼みごとをする相手の住居を燃やすなんて。私はそんな非常識な人間ではないです」
「家主に黙って台所を使うのは常識か?」
「すみません。世間知らずと言われても仕方ありません。他人の家に入るのはこれが初めてでして。まあ、別にいいのかな、と思ってしまいました。墓荒らしさんの分も作ればいいかな、と」
「それで、朝食は?」
女は咳払いのように咳き込む。
「燃えてしまいました。すみません。お料理は初めてで」
女はしおらしい様子で目を伏せた。初めて料理するという事を今日この時この場所に選んだのは何故だ。
「出来ない事に挑戦する姿勢は素晴らしいな」
トマウは思ってもいない事を口にする。
「恐縮です! そう言ってもらえると助かります」
トマウはこれ見よがしにため息をついた。女は不思議そうにトマウを見つめ返す。
「それに見知らぬ他人の家で料理を作るなんて俺にはとても出来ないよ」
「確かに勝手の知らない台所を使うのは大変でしたが。私、今とっても腹ペコなので気にしていられませんでした。そもそも勝手の知っている台所なんて無いですけどね」
はにかむ女を見ながら、トマウは出口の見えないこの話を切り上げる事に決める。
「あんた、名前は?」
「スースです。よろしくお願いします」
「さようなら、スース」
トマウは朝食の準備を始める事にした。
「あ。私も手伝いますよ」




