法律は破っても約束は破らない
出来るだけ対等な関係であろうとはしていても、中州の支配者に抗うのは得策ではない。何より財の差が違う。それは兵力の差となり、権力の差となる。命じられた事を行えば、必ずケスパーは報いてくれる事を中州の人間は知っている。それが信頼となり、支持となる。
トマウがケスパーに命じられた事は何度かあった。その全てをトマウは達成し、その全てにケスパーは報いた。その全ては確かに難易度の高い命令ではあったが、その全てがトマウに実行可能な業務だった。
「遅ぇぞ。トマウ。そんなんだからお前は稼ぎが悪いんだ」
煙たい事務所で薄茶色のソファにケスパーはふんぞり返っていた。大きく吸い込んだ紫煙を全て吐き出す。灰皿には灰の山が出来ていた。
ケスパーの前の机には大量の紙幣と一枚の紙、手紙が置いてあった。トマウは適当な相槌をしてケスパーの前に立つ。
「似たような事は何度かあったが、真剣に取り合う気になったのは初めてだぜぇ。トマウ。お前をご指名だ」
そう言うとケスパーはその手紙をトマウに渡した。そこには日付と時間の指定に加えて、何をして欲しいのか、依頼が書いてあった。
『シウム大橋を西岸から東岸へ、三台の車が渡ります。間に挟まれた一台の霊柩車に積まれた棺に納められた遺体を盗んでください。最も優秀な墓荒らしにこの仕事を任せてください。手付金とケスパー氏の仲介料を同封します。成功報酬は倍の額を用意しています。遺体の引き渡し場所を書いた地図を遺体と共に棺に納めています』
これが本当なら、とトマウは頭の中で前置きする。とんでもない金額が手に入る。弔銃の代金を払ってなお余りある金が手に入る。エイハスが満腹になり、中州を出て行ける。真っ当な人生、崖っぷちを遠くに臨む生活、中州のクズ共を踏みつけにする普通の人間の生き方ができる。トマウは自身の人生で最大の好機が訪れたように感じた。日付は明日だ。
これが本当なら、だ。とトマウは頭の中で繰り返す。
「俺様も怪しい依頼だとは思う。だがお前ならやってくれるだろうと思う。どうだぁ?」
「文面通りならあんたには一つもリスクがないな」
無感情な声でトマウが呟くように言うと、ケスパーはもったいぶって紫煙を燻らせる。
「まぁ、そう言うな。手付金はまるまるくれてやるし、成功報酬の半分をくれてやらぁ。しかも大橋を渡る車だぞ? 袋の鼠ってもんじゃあねぇか。勿論手伝ってやっても構わねえ。相応の金でいくらでも協力してやるぜぇ」
「いいさ。俺一人でやれる。これ以上減らされてたまるか」
ケスパーが鼻を鳴らす。
「なんなら俺がやりてぇくらいだ。だが知っての通り、俺は法律は破っても約束は破らねぇ。紙切れ一枚でも例外じゃあねぇ」
どこまでも青い空が広がっていた。雲一つなく、ただ白い太陽が一つ鎮座しているだけの爽やかな空だ。雨と川の陸とも呼ばれるミアムセ島の中でも、最も日照量の少ないこのクヾホオク市にあって、これほどの快晴は滅多にない。風は微かで、すこしばかり棄て山の臭いが漂ってくる。
手紙に記された時間を目前にして、トマウはシウム大橋の西岸より、おおよそ四分の一の地点で欄干に腰かけてぼんやりと空を見上げていた。時折橋を行き交う霊気自動車や橋に漂う赤い靄に視線をやるが、すぐに空へと戻してしまう。そもそも死体を積んでいる車が近づけば、トマウには臭いで分かる。居眠りでもして相当幸福な夢に取り憑かれでもしない限りは絶対に見つけられる。油断、ではないがその余裕は仇となった。
目の前を三台、黒塗りの自動車が通り過ぎる。
最後尾の車が視界から消えた直後、トマウの体は電撃でも浴びたように跳ね、ホルスターに伸ばした指が引き金を引く。弔銃の発砲音が響き渡り、最後尾の車の霊気機関が機能停止し、血のような燐光が漏れ出す。しかし止まったのは最後尾の車だけだった。
欄干から道路へ飛び降りたトマウは霊柩車が止まらなかったのを確認すると、追いかけて駆けだす。最後尾の車から出てきた厳つい男を横目に、もう一度、今度はホルスターから出した弔銃を、銃口を霊柩車に向けて発砲する。二度目の弔銃音は黒塗りに朱地の装飾を施した霊柩車を捉えた。
「止まれ」と背後から男が鋭く叫ぶ。
トマウは振り向くが、男が握っているのがただの警棒だと確認すると構わず霊柩車の元へ駆けて行った。
バックドアを開けて棺を一つ確認する。他に棺がない事を確認する。運転手が混乱しつつも警棒を振りかざして抵抗しようとするが、トマウが拳銃を向けると大人しくなった。
「良ければこの車を借りたいんだけど。どうかな」
「銃なんて、今日び所持しただけでも重罪だぞ」と運転手は声を震わせつつも勇ましく忠告する。
「それは知らなかったな。念の為に聞くけどもしかして殺人も重罪なのか?」
そう言ってトマウは照準を運転手の眉間に定める。
運転手は黙って頷き、運転席を降りた。代わりにトマウが運転席に移動し、念の為に鍵を回すが霊気機関は始動しなかった。
唐突に濁った嗚咽と共に男が運転席の脇に倒れ込む。警棒がトマウの足元に落ちた。最後尾の車を運転していた男だ。男は脇腹を抑えて唸っている。トマウには何が何だか分からなかった。
前を走っていた車が異常に気付いて戻って来た。その車から出てきた男が銃を持っていることにトマウは気づいた。
「カタギじゃなかったのかよ。何が重罪だ」
折畳み式の台車と共に棺を引っ張り出す。そして脇目も振らずに勢いよく欄干を乗り越え、棺を中州へ落とした。トマウ自身も後を追う。