この世で最も刺激的な事
トマウはこれ以上ないという程に全力で走った。もはや人目を気にする意味もない。集まる視線を掻き分けるようにして突き進む。浸水した地下道を濡れる事も気にせず走り抜ける。出口から漏れるオレンジの光に向かって駆け上がる。
熱が全身を襲った。眼を撫で、口に忍び込む。肌をじりじりと灼く。煙が肺を何度も突き刺す。
集合住宅は光と煙に包まれていた。周囲の窓から炎が噴き出す。空は黒煙で何も見えない。
エイハスは探すまでもなくすぐ近くにいた。全く周囲の様子に気付いていないかのように地面に座っている。生物に比べれば鈍感だが、機骸といえど強い熱や光から回避行動を取るはずなのに、エイハスはその場で固まっているかのようだった。
トマウはしかしエイハスの不審な様子など気にせず、手を伸ばす。するとエイハスは後ろへと飛び退いた。そしてトマウから逃げるようによたよたと離れていく。離れていく先にメルキンがいた。
踊り狂う炎に照らされてメルキンはほくそ笑みながらエイハスを踏みつけた。しかしエイハスはそれが自身の役割と思っているかのように甘んじて受け入れている。
「どういうつもりだ、メルキン。焚火なら他所でやってくれ」と、トマウは出来るだけ平静に冷静に言う。
メルキンはエイハスに何かをねじ込むかのように足で抉るように踏みつける。
「相変わらずだね、トマウは。僕はこんなにも変わったっていうのに」
「ああ、髪を切ったようだな。似合ってるぞ」
「予感はあったんだ。いや、予感じゃあないね。あれは、仮説かな。そう、きっとそうだと内心思ってはいたんだけどどうしても確かめられなかった」
「ああ、そっちか。靴を新調したんだな。中々良いと思う」
トマウはエイハスを踏みつけるメルキンの足を睨み付けて言った。トマウは捉えどころのない怒りを押し込めていた。
「この世で最も刺激的な事ってなんだと思う? トマウ」
「ある女の作った料理だな。あれを超える刺激は中々ない」
「破壊だよ。特に精巧なものを壊す時が最も刺激的だ」
「確かにあの料理は俺の精巧な脳細胞を破壊し尽くさんばかりだったよ」
「そしてケスパーを殺したことは天命だったんだ。それを今証明してみせよう」
メルキンが微かに手を振ったのを合図に、炎の彩る上階から真鍮の塊が次々に落ちてくる。一つ二つ三つ、十二十三十。機械部品を散らしながら、鈍い音が次々と地面を叩く。それは小鬼型機骸で、それらは一斉にトマウに飛びかかってきた。
弔銃を抜く隙もなく、トマウは取り押さえられる。幾つもの小さな腕によって羽交い絞めにされ、床に座らせられ、身動きが取れなくなる。
「調教師にでも転職したのか? それともこいつらはお前の親戚か?」
熱を帯びた小鬼達が各々の役割に徹してトマウを羽交い絞めにする。まるでメルキンの手足のように小鬼達は行動していた。トマウにはその理屈が少しも分からない。
「霊感だよ、トマウ。気が付けば僕は機骸を操れるようになっていたんだ。そしてそれはケスパーを殺した事が切っ掛けだった。僕は生まれ変わったんだよ。この感覚、君にも味わってもらいたくらいだ」
トマウは興味なさげに振る舞う。脱出を試みようと手足を動かすが真鍮の小鬼どもが少し軋むだけでびくともしない。
メルキンの言う事はどこか腑に落ちない。機骸に関する不審な出来事は確かに幾つかあった事をトマウは覚えている。弔銃が効かなかったり、効いてもすぐに動き出したり、だ。それらはメルキンに関わる物事であり、かつ、だがケスパーを殺す前の出来事だった。
「下らない。うちのエイハスだって口笛一つで宙返りくらいするさ」
炎に照らされた蝋燭のような白い顔でメルキンは呆れたように笑う。
「なるほどね。宙返りか。よし。させてみようじゃないか。ほら」
そう言ってメルキンはエイハスを踏みつけていた足をどける。するとエイハスはすっくと立ちあがり、トマウの目の前まで歩いてきた。
「もうちょっと右」メルキンがそう言うとエイハスはそれに従った。「そう、そこ。そこからだ」
一瞬、力を込めるように足を曲げると、エイハスが宙返りをする。体は大きく揺れ、着地は覚束ない。とても不格好ではあったが形にはなっている。トマウはエイハスのそのような動きを初めて見た。
もう一度。もう一度。何度も何度もエイハスは宙返りし、トマウから少しずつ遠のいていく。トマウの塒の端の方へと離れていく。その先には、塒の角の辺りには、地下水道への穴がぽっかりと開いている。イドン河を引き込んでいる水の流れの強い地下水道だ。
メルキンは言った。「僕はね、トマウ。人を殺すために生まれてきたんじゃないか、とそう考えるに至ったんだ。平々凡々な人生だと思っていたけれど、それも当然さ。とても大切な僕の役割から離れて生きていたんだからね。トマウ、君は何のために生きているんだい?」
トマウが喉の奥、肺の奥底から絞り出すような唸り声をあげる。火事場の馬鹿力とでも言うべき怪力をトマウは発揮した。小鬼型を蹴散らし、エイハス目掛けて疾走する。エイハスは操り人形のようによろめきながら宙返りをし、果ては取り押さえようとしたトマウと共に地下水道へ、落ちる。




