ケルゲレン要塞
森の木立に遮られない、明るい光を全身で浴びながら、大柄な馬――『子馬』に跨ったイリスは、視界の先にそびえる巨大な城壁を指さした。
「見えたぞ。ここが、ヴェノム大森林の最寄りの街――ケルゲレン要塞だ」
森を抜けた先にあったのは、森の木々と同じくらいの高さの城壁に守られた、巨大な城塞都市――ケルゲレン要塞だった。
ケルゲレン要塞は、大陸東部最大の大国であるジブラルタル神衛共和国が作り上げた、人類勢力圏最東端の要塞である。
人類の東進を妨げる、魔性の森ヴェノム大森林。そこからの攻撃を防ぐために作られただけあって、その守りは堅固を極めていた。
巨大な六角形をしている本城は、広大な水堀と高い城壁に囲われ、それだけでも堅牢極まりない造りなのが見て取れる。さらに、その各辺からは、跳ね橋で本城と繋がった角のような突出部が突き出し、その根元にある城門に迫る敵を十字砲火で迎え撃つようになっていた。最も森に近い突出部は特に念入りに強化されているらしく、森の木々の梢より高い巨大な塔が突端部に設けられている。その最上部に見える鐘は、魔物の襲撃を警告するためのものだろう。
さらに、物理的な防御だけでなく、魔術的な防御も信じられないくらい固められており、各突出部の先端を起点に、薄らと光って見える六角形の巨大な結界――神聖結界が張られている。湖のほとりで戦ったジャイアントオーガですら、この神聖結界を突破するのは難しいだろう。
「やっと、着いた……!」
そんな要塞を目の当たりにして、イリスの後ろを歩いていたクローデルは、安堵のあまり地面に膝を突いた。
イリスと出会った時は、使い古されているとはいえまともな服を着て、髪もきちんと整えた、それなりに見れる格好をしていたクローデル。
だが、今のクローデルに、その面影は欠片程度しかない。
来ている服は、至る所にほつれやひっかき傷が出来て廃棄寸前の雑巾のような有様になり、頭からは木の枝やら何やらが飛び出している。顔色は疲労でどす黒く染まり、鞘に収まった聖剣は今やただの歩行補助具と化していた。
「これでやっと、まともに眠れる……!」
そんな、敗残兵もかくやといった有様のクローデルは、死にそうな声で歓喜の叫びを上げながら、ここに到るまでの一週間を思い返す。
あの湖を出発し、ケルゲレン要塞にたどり着くまでの一週間は、クローデルにとって地獄以外の何物でもなかった。
オーガを相手にした時の様子から、クローデルの実力が極めて低い(イリス基準)ことを悟ったイリスは、クローデルに肉壁程度の働きも期待できないと判断した。
そのため、イリスは街まで移動する計画を――一切変える事はなかった。
最寄りの街――ケルゲレン要塞と現在地を直線で結んだルートを、魔物の密集地帯だろうが何だろうがお構いなしに、昼夜を問わず突っ切る。そんな、策もクソもない衝撃的な計画を聞いて青ざめるクローデルに、イリスは無表情のまま、端的に告げた。
「着いて来れなければ、死ね」
「…………」
イリスに見捨てられれば死を待つばかりである以上、クローデルに拒否権はなかった。
その結果としてクローデルは、昼夜問わず襲い掛かってくる一般脅威度Bランク以上の魔物と戦いながら、一日平均六十キロの行軍を余儀なくされたのだ。睡眠時間は一日当たり三時間であり、それすらも魔物の襲撃で途切れる事がしばしばだった。
そんな状況が、一日二日どころか丸々一週間も続いたのだ。それは最早人間の限界に挑戦するような荒行であり、クローデルの体力を大いにすり減らした。
さらに、全周囲から間断なく魔物が押し寄せるという激しい戦いの中で、どうしても使用せざるを得なかった聖剣の囁きが、クローデルの精神を蝕んでいた。延々と『魔王ヲ殺セ……』と囁かれ続けたクローデルの目は、肉体的な疲労とは別の意味でも死んでいた。
(でも、それももうおしまいだ……!)
疲労と涙にかすむ目でケルゲレン要塞の城壁を見ながら、クローデルは脳裏で地図を広げ、この先の故郷へ向けての旅路を考える。
先ほども言ったように、ケルゲレン要塞は人類支配圏の東端にあたる要塞だ。
それに対し、クローデルが住んでいるノイエンベルク緩衝領は、大陸の北の守りを担っているヘルゴラント神衛帝国のさらに北に存在している。
そうなると、単純に北西に直進すればノイエンベルク緩衝領にたどり着けそうなものだが、大陸の現状を考慮すると、そんな安直なルートを選ぶことは出来ない。
今の大陸で、人類が完全、または優勢な状態で支配しているエリアは、全体の七割程度しかないのだ。それ以外の地域は、魔物の支配下にあると言っていいだろう。
基本的に、人間は魔物より弱い。ただの村人ではゴブリンなどの一般脅威度Dランク以下を相手取るのがやっとであり、それ以上のランクの魔物が頻繁に出現するような地域では、人間が安心して暮らすことなど出来ない。
そこで作られたのが、一切の魔物の侵入を許さない、絶対の防壁――神聖結果である。
大地を流れる霊脈からくみ上げた魔力で構築される神聖結界は、一般脅威度Sランクの魔物であっても、容易には突破できないほどの守りを誇る。そのため、神聖結界で覆われた範囲は、人類の完全支配領域と見なされている。主要な国家の本土を含む大陸の四割は、この神聖結界で守られている。
だが、神聖結界も完全無欠というわけではない。
神聖結界の欠点とは、結界から漏れ出る膨大な量の余剰魔力が、大量の魔物を引き寄せてしまうというものだった。
確かに、神聖結界は絶大な防御力を誇る。だが、間断なく、十万単位の魔物が押し寄せるような事になれば、神聖結界を維持している霊脈の魔力が枯渇して、結界を破られる可能性もあるのだ。実際、かつてそうして滅んだ小国が存在する。
それを防ぐために作られたのが、鏡面結界だ。
鏡面結界には、魔物を防ぐような力はない。だが、それに囲われていれば、内部の魔力や人間の存在が外から認識できなくなる。これにより、神聖結界の魔力に惹かれた魔物が巨大な『軍』を構成して襲い掛かってくるような事態を相当程度防ぐことが出来る。
また、もし鏡面結界の内側に大規模な魔物の群れが侵入した場合は、鏡面結界と神聖結界の狭間にあたる地域で軍の総力を挙げた決戦を行い、神聖結界への到達前にその撃滅を図る事になる。
この狭間が緩衝領と呼ばれ、大陸の三割を占めている。所属している国家によって細かい政策は異なるが、魔物の脅威度が高く、いざという時には戦場として焼き払われるリスクの代わりに、税などがほぼ免除される点は共通だ。
クローデルの住んでいたニアフォレスト村も、本国であるヘルゴラント神衛帝国を守るために存在する緩衝領の一つであるノイエンベルク緩衝領に所属している。
こういった条件を考慮し安全なルートを考えていくと、最も適していると思われるのは、一度真っすぐ西に進んで、大陸の西の守りを担っている、神聖結界で守られた大国――ジブラルタル神衛共和国に入り、それから北西に進んでヘルゴラント神衛帝国の本国に入るルートだろう。これなら、魔物の危険がある地域はほとんどない。精々、ノイエンベルク緩衝領に入ってから遭遇する程度だ。
(本当に、帰れるんだ……!)
具体的なルートを考え、村に戻るのがそれほど遠く無い事を感じたクローデルは、疲れ切った顔を希望で緩める。きっと村では、サラが心配しているだろう。まだ母さんは出稼ぎから帰ってきてないと思うけど、その前に壊れた扉を直しておかないとなぁ……。
「何をニヤニヤしているのだ」
その時、プティに跨ってクローデルを見下ろしていたイリスが、故郷に帰る未来を想像していたクローデルに冷たい声を掛ける。
「立て、さっさとケルゲレン要塞に入るぞ」
どうやらイリスは、一週間に及ぶ修羅の旅も全く堪えなかったらしい。出会った時と同じ様子でピンピンしている。
「分かった」
その無尽蔵の体力に慄きながら、クローデルは大人しく頷く。
とんでもない行軍を強いられたとはいえ、クローデルはイリスに感謝していた。もしイリスが居なければ、一人でヴェノム大森林を抜けることなど絶対に出来なかっただろう。間違いなくイリスは、クローデルにとって命の恩人だった。
(でも、イリスとはここでお別れか……)
これからクローデルは、故郷であるニアフォレスト村を目指した旅路につくことになる。同郷というわけでもないイリスと、この先一緒に行動する事はないだろう。お互いの連絡先も知らない以上、この先の人生で会う事もない。
間もなく訪れる別れを思い、少ししんみりした気持ちになるクローデル。
この時、クローデルはまだ、神託と聖剣を舐めていた。
この二つは、クローデルの根っこに、どこまでも深く根を張っていたのだ。
そんな事知る由もないクローデルは、プティにまたがったイリスの後に続き、ケルゲレン要塞を囲む神聖結界に近づく。
神聖結界は、薄らとした光のカーテンのような外見をしている。突けば破れそうな華奢な見た目をしているが、これがあのジャイアントオーガの攻撃を軽く跳ね返すというのだから、物事は見た目では計れない。
そんな神聖結界を、イリスはするりと通り抜ける。神聖結界は、人に害意を持つ魔物以外であれば、何の支障もなく通り抜けられるように出来ているのだ。
その後に続き、クローデルが神聖結界に触れた瞬間――
カシャン――――ッ
――ガラスが割れるような、どこか儚い音と共に、神聖結界が砕け散った。
「え……?」
何が起こったのか分からず、クローデルは呆然としてその場に立ち尽くす。ついさっきまで、クローデルの前に広がっていたはずの光の壁が、クローデルの触れた場所から、朽ち果てるように光の粒子を撒き散らして消えていく。
「……なッ⁉」
何やら異常を感じて振り返ったイリスも、目の前で崩壊する神聖結界を見て絶句する。そして、普段の無表情を崩して目を剥いて叫ぶ。
「クローデル! 貴様、何をした⁉」
「知るか! 俺は何もしてない!」
厳しい口調で問い詰めて来るイリスに、動揺したクローデルも怒鳴り返す。そんなこと、クローデルが知るわけがない。ただ、神聖結界に触れたら、壊れた。それだけだ。訳が分からない。
だが、怒鳴りあう二人を置き去りに、事態は急展開を続けていた。
突然砕け散った神聖結界に、城壁の上を巡回していた兵士の動きが慌ただしくなる。叫び声と共に向けられた人差し指は、明らかにクローデルとイリスを指し示している。
同時に、要塞の西の端の塔に据え付けられた鐘が激しく打ち鳴らされ始めた。その打ち方は明らかに、非常事態を告げる時のそれだ。城壁の中からは、甲高いサイレンの音と共に『緊急事態発生。要塞守備隊総員に、第一種戦闘配置を発令。繰り返す。総員、第一種戦闘配置を発令……』という放送が響いている。
「な、何なんだよ一体⁉」
気が付けば、城壁上に設置された馬鹿でかい機械式の弓――バリスタが、その照準をクローデルとイリスに合わせ、開かれたままの城門からは完全武装の竜騎兵が突っ込んで来ている。
「チッ……!」
突撃してくる竜騎兵を見て、イリスは舌打ちと共に決断する。何が起こったのかは分からないが、このままここにいれば、拘束されるのを免れる事は出来ないだろう。今ここで、捕まるわけにはいかない。
「乗れ、クローデル!」
「わ、分かった」
その背中にクローデルとイリスを乗せた子馬は、イリスが手綱で指示するのも待たずに、素早くその場から駆け出す。
追撃を仕掛ける竜騎兵たちの怒号を背に、クローデルとイリスは、一週間ぶりの街を、足を踏み入れる事もなく後にするのだった。
竜騎兵を撒いた後、ケルゲレン要塞から十分に距離を取った平原でクローデルとイリスは向き合っていた。その雰囲気は険悪極まりないものだった。
「貴様、一体何をしたのだ?」
そう問いかけるイリスの目は険しい。何しろ、あと少し決断が遅れていれば、竜騎兵隊に捕えられてしまうところだったのだ。こんな事態を招いた元凶であるクローデルに向ける優しさなど、耳かき一杯ほどもなかった。あるのは疑いの目だけである。
「知るか」
対するクローデルは、イリスの問いかけに投げやりな答えを返す。クローデルにだって、あの時何が起こったのかさっぱり分からないのだ。尋問じみた問いかけに、苛立つのもしょうがないだろう。
「俺はただ、普通に結界を通り抜けようとしただけだ。何も変な事なんてしてない」
苛立ちながら無実を主張するクローデル。だが、状況証拠を元にしたイリスの追及は止まらない。
「だが、貴様が入ろうとした瞬間、結界が崩壊したのだぞ」
「そ、それは……」
否定しがたい事実を前に、クローデルは口ごもる。確かに、イリスは問題なく結界を通り抜け、その後からクローデルが入ろうとした瞬間、結界は崩れた。
口ごもるクローデルを見て、イリスはさらに疑念を深める。
「神聖結界は、全ての邪悪を弾く」
そう言いながら、イリスはそっと腰の刀に触れる。
この世界には、人に擬態するような魔物が確かに存在する。そういった存在は人里近くにしかいないため、今までイリスは、ヴェノム大森林の奥地で出会ったクローデルに対してそのような疑念を持っていなかった。
「それに引っかかったのは、貴様が何か邪悪な存在だからではないか……?」
だが、神聖結界に弾かれた以上、その思い込みは捨てるべきだ。
「イ、イリスさん? 一体何をおっしゃっているのですか……」
イリスの言葉に嫌な何かを感じたクローデルは、緊張のあまり妙な丁寧語になりながら、そっとイリスに問いかける。
それには答えず、イリスは逆にクローデルに問いかける。
「貴様、どうやってあそこまで――ヴェノム大森林の最深部まで来たのだ?」
「う……」
クローデル戦いを見ていたイリスは、クローデルがどのようにしてここまで来たのかずっと疑問に思っていた。
イリスの見たところ、クローデルは森に入って半日で棺桶に入る程度の実力しかない。
そんなクローデルがヴェノム大森林の最深部までたどり着く事が出来たのは、とんでもない幸運に支えられての事だと認識していた。
だが、クローデルの正体が、神聖結界を砕けるほどの実力を持つ、人に擬態した魔物だというのなら、全ての不自然に説明が付く。付いてしまうのだ。
もちろん、事実は異なる。
クローデルがどうやってそこまで来たのかと言われれば、それは聖剣による強制転移によるものだ。
だが、それを説明しようとすれば、どうしてもクローデルが勇者に選ばれた件を話す必要が出て来る。しかし、クローデルとしては、本当の事を話したところで、それは信憑性皆無の、荒唐無稽な話と捉えられる可能性の方が高く思えたのだ。
とはいえ、このタイミングで口ごもるのは明らかな悪手だった。
「貴様が何を考えているのかは知らんが、神聖結界に対する調べが甘かったようだな」
口ごもるクローデルを見て、イリスは疑いのレベルを上げる。
そして、即断即決のモットーに基づき、スラリと刀を抜き放った。
「さあ、邪悪な魔物よ。私に付きまとった目的を吐け。そうすれば楽に逝かせてやる」
突きつけられた切っ先に、クローデルは真っ青になって叫ぶ。
「ちょ、ちょっと待て! 俺は魔物なんかじゃない!」
「なら、それを証明して見せろ」
そう言いながらも、イリスがクローデルの答えを求めていないのは明らかだった。その表情からは、疑わしきは殺せの精神の下、クローデルを斬り殺そうという明確な意思が見て取れる。
「そんなこと、どうすれば証明でき……ッ!」
その時、クローデルはピンと来た。明らかに神聖結界に弾かれそうな、魔物なんかよりよほど邪悪な存在について、思い当たる節があったのだ。
「まさか……ッ!」
クローデルは、さっと視線を自分の腰辺りに向ける。
そこにあったのは、黒い謎の金属に金と赤の象嵌が施された、見るからに邪悪な印象の剣――たった一週間前にクローデルの元にやってきて、数多の災厄を現在進行形でクローデルにもたらしている『聖剣』だった。