姫巫女襲来
フライパン目がけて割った卵の中には、黄身が二つ入っていた。
「お、双子だ」
そんな事に小さな幸せを感じながら、エプロンを付けた黒髪黒目の少年――クローデル・ニアフォレストは、慣れた手つきで朝食を作っていた。
今日のメニューは、今焼いている目玉焼きと、冬ごもりの間に消費しきれず保存期限が迫りつつあるベーコンを山盛り。それと、昨日のうちに焼き上げておいた『前世の記憶』を元に再現したふわふわ天然酵母パンである。
そう『前世の記憶』である。
ノイエンベルク緩衝領。その辺境の開拓村ニアフォレストに住む少年クローデル・ニアフォレストは、現代日本の記憶を持つ転生者であった。
そんなクローデルが転生した先は、中世ヨーロッパの香り溢れる、剣と魔法の世界だった。
ここまで聞くと、物語の定番である圧倒的な魔力を生かした超絶戦闘力や、現代知識による知識チートも備えていそうなものだが、現実は違った。
確かに、クローデルの魔力は平均よりかなり高い。魔法や剣の使い方も、それなりに上手いと自負している。
だが、それはあくまで常識的な範囲でしかなかった。戦闘力を学力に例えれば、一般的な転生主人公が飛び級の果てに十五歳でマサチューセッツ工科大学を卒業するのに対し、クローデルは頑張れば地方の国公立大学に入れる程度のレベルである。悪くはないけれど、決して主人公を張れるようなレベルではない。
なら、知識チートはというと、こちらも駄目だった。
なぜなら、クローデルは、転生前の記憶の多くを失っていたからだ。
自分がどのように死んだかどころか、前世での名前すらクローデルには分からないのだ。残っている曖昧な記憶も、高校生くらいで切れている。そんな有様でノーフォーク農法などの知識だけ覚えていたら、おそらく前世はウィキペディアである。人ですらない。
そんなクローデルに、テンプレ通りの知識チートなど不可能だった。前世では家事仕事をよくしていたせいか、料理関係で村の奥様方に革命を起こすのが関の山である。
こんな感じで、クローデルには転生者らしい事などなにも出来なかった。どうやら、凡人は転生しようと凡人という事らしい。
それでも、クローデルはそれを残念とは感じなかった。
確かに、物語の主人公のように、圧倒的な戦闘力を駆使して英雄になったり、知識チートで億万長者というのは、想像するだけなら楽しそうだ。
だが、薄らと残っている前世の記憶の中で、身近にいたリアル主人公連中に散々振り回された憶えのあるクローデルは、間違っても自分がそちら側の存在になりたいとは思わなかった。前世が波乱に満ちていたからこそ、今生では平穏に暮らしたいというのが、クローデルの願いだった。
だが、クローデルは甘かった。
クローデルを転生させたこの世界の神様は、気まぐれと善意で動く神聖な存在ではなく、打算と利己心の下に動く実に生臭い存在だったのだ。
壮大な手間をかけてクローデルを転生させた彼ら・彼女らは、その代価をとりっぱぐれるつもりなど欠片もなかった。
対価の支払いを求める、高利貸しの如き神々の手は、その背中まで、あと少しの所に迫ってきていた。
カリカリになるまで焼いたベーコンは、実に美味そうな匂いを漂わせ、クローデルの胃袋を刺激していた。
クローデルは、焼きあがったベーコンを半分に分けて皿に盛りつける。目玉焼きも、きちんと二つ焼いてある。
だが、今のこの家にはクローデル一人しかいない。普段は義理の母と二人で暮らしているのだが、冒険者なるファンタジーな職業についているクローデルの母は、去年の秋から長期の仕事で家を空けていた。
なら、残る一人分は誰の分なのかというと、それは、毎朝のように家を訪れる幼馴染の少女――サラの分だった。
サラは、ここニアフォレストの村長一家の一人娘で、クローデルの幼馴染だ。金糸のような髪とサファイアのような瞳を持ち、こんな田舎には不釣り合いなほど整った顔立ちをしている。また、綺麗な顔に似合わない槍の名手でもあり、普段はクローデルとペアを組んで森での狩りに精を出している。
そんなサラは、クローデルの食事を相当気に入っているらしく、やたら頻繁に我が家に食事に来る。可愛い幼馴染が、自分の作った食事を美味しそうに食べてくれるのは確かに嬉しいのだが、普通こういうのは幼馴染の少女が作る側だとクローデルは思う。完全に立場が逆転している。
その時、玄関からノックの音が聞こえてきた。どうやら、食事を作るタイミングはぴったりだったらしい。
「ちょっと待て、今開ける!」
エプロンを脱いで椅子に掛け、クローデルは玄関に向かう。
そして、鍵を開けようと金具に力を込めた時、ふと疑問に思う。
(あれ、サラっていつもノックなんてするか……?)
答えはすぐに出た。サラはノックなんてしない。いつの間にか作った合鍵で勝手に入ってくる。
(なら、外にいるのは……?)
その答えが出る前に、クローデルの手は半ば無意識の動きで鍵を開けてしまった。鍵を開けるカタンという音は、外の相手にも聞こえているだろう。今から閉めるわけにはいかない。
(仕方ない……)
そして、ゆっくりと扉を開けた先に居たのは――
「おめでとうございます、クローデル様! あなたは神から『勇者』に選ばれました!」
――まるで宝くじの当選発表のように、クローデルが勇者に選ばれたなどという妄言を口にする、巫女装束のかわいい女の子だった。
「あ、あの。すみません。もう一度言っていただけますか?」
もしかして、何かの聞き間違いかな? と一縷の希望を残しながら、外向きの笑顔をひきつらせたクローデルが問い返す。
それに対し、訪問者である少女は、クローデルとは対照的な満面の笑みで先ほどの言葉を繰り返す。
「クローデル様は勇者に選ばれたのです!」
その言葉に、クローデルはにこやかな接客スマイルを浮かべ――
「すみません。宗教の勧誘とか間に合ってるんで」
――少女を外に残したまま、静かにドアを閉めた。
容赦なく締め出された少女が「ちょっと、待ってください!」と叫んでドアを叩いてくるが、クローデルにドアを開けるつもりはない。鍵を閉め、さらに閂までかける。この手の輩は、遠慮というものを地平線のかなたに投げ捨てているのがデフォルトだ。一度でも迎え入れたらおしまいである。
「春だなぁ」
どうやら、暖かくなると変な輩が増えるというのは、迷信でもなかったらしい。
閂を軽く押さえながら、クローデルは飽きずに扉を叩き続ける招かれざる客人をどうしようかと考える。
「ん……?」
その時、外に閉め出された少女が扉を叩くのを唐突に止めた。
その事に不穏なものを感じたクローデルは、咄嗟に扉から離れ――
「……ッ⁉」
――直後、バキャッという音と共に鍵穴付近を粉砕し、扉から突き出たメイスの先端に、表情を凍りつかせた。
「嘘だろ……」
この家の玄関扉は、厚さ十センチ近いオークの一枚板という狂った素材で作られている。間違っても、メイスの一撃でボール紙のようにあっさり穴が開く代物ではない。
そんなとんでもない一撃を叩きつけてきた少女は、改めて扉を開けようとする。だが、まだ閂があるので扉は開かない。
「あら、閂も掛かってるのかしら?」
しばらく扉をガタガタ揺らし、閂の存在に気が付いた少女は、扉の穴から手を突っ込み閂を外そうとする。クローデルからは扉の穴から伸びる手が蠢く様しか見えないわけで、最早軽くホラーである。
「ん、これかしら」
そして、クローデルが何も出来ないでいるうちに、最後の砦であった閂が、カランと床に転がる。
ゆっくりと開く、内開きの扉。
その向こうで呆然と立ち竦んでいるクローデルに、破城槌の如き一撃をお見舞いしてきた可愛らしい見た目の少女は、穏やかな笑みを浮かべ、メイスを突き付けながら、改めて『お願い』をする。
「クローデル様。出来れば、お話だけでも聞いていただけませんか?」
「はい……」
クローデルに、拒否権はなかった。