第2殺人『殺人鬼の強欲』
薄暗い洞窟の中で赤黒い肌を晒す一匹の化け物。獣のように鋭い眼光を見せつけてくるその姿はまさに【鬼】。立派に生えた角も鋭利に尖っていて、刺されればかなり痛そうだ。
だがそんなことは些細な興味でしかない。青年が気にしているのは、その化け物の魅力。
全体図を見ても筋肉の量は申し分ない。丸太、いや電柱のように太い腕に3mはある巨漢。
足も長く、蹴られればいくら青年でも堪える。だがそれも体格的に恵まれているというだけで、他の本質的な魅力はあまり感じない。自分が楽しみにしていたのはこの程度だったのか、と青年は勝手に落胆し、泣き崩れた。
「………あぁぁぁ!!酷い!!こんな………あんまりだ!!」
青年は顔を手で覆い、膝から力が抜け、糸の切れた人形のようにそのまま床に崩れ落ちた。
涙が溢れ、青年は大声で泣く。狭い洞窟だからかよく響く。そして今度は青年はゆっく立ち上がり、泣きながら前に歩き出した。
「僕は……こんな……この程度の化け物なんかに期待してたの……!?そんなの……そんなのって……」
「えっ、いや……ちょ、ちょっと!」
アリスは泣きながら歩いていく青年に向かって必死に呼び掛けた。
青年の向かう先は危ない、そう覚ったアリスは必死に何度も青年を呼び止める。そのまま怪物のもとまで進めば、必ず命を失うことになる。これ以上犠牲を出すことは避けなければならない。だがアリスの声も聞かず、青年はそのまま泣きじゃくりながら怪物に近づいていく。
「グガァァァ……」
【怪物】は泣き喚く青年を奇妙に思ったのか、殴ることはせず、肩に触れようとする。
だが、【怪物】の指が肩に触れた瞬間、青年は一瞬で豹変した。
「油断してんじゃねぇぞ、餓鬼が」
「ーーーーーーー!!」
笑った。青年の整った、愛らしい顔が歪むほど、頬を吊り上げて笑った。
とても不気味。アリスの視点ではこの暗闇ではっきりは確認することはできないが、直視すれば血の気が引くほどに、殺戮の怪物が一瞬威圧されるほどに、その笑顔は不気味だった。
そして、その怪物が威圧され、動きを止めた瞬間を見計らい、青年は攻撃を仕掛けた。
「ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッ!!!」
ーーーーー突如、大きな破裂音が鳴った。
爆発でもしたのかと錯覚してしまいそうな音量にアリスは咄嗟に両耳を塞ぎ、薄暗く見えにくいが確かに視界に映る青年の姿を確認した。怪物を蹴り飛ばしたかのように、足を高々と上げている。
「グガァ………?」
怪物の顎は見事なまでに砕かれ、顔の下半分は歪み、鋭利に生え揃っていた歯は砕けて地面にこぼれ落ちる。顎が落ち、赤黒い舌がだらしなく放り出される。口内も出血が激しく、口を閉じることも出来ないため、歯茎から出る血が胸板を濡らす。
蹴りによって顎を砕かれた怪物は体勢を崩し、敢え無くして膝を地面に着けた。
その体勢を低くした瞬間を狙って、青年は怪物の顔面を強く蹴り上げた。遅れて脆い音が響き、蹴られた衝撃で怪物の身体は宙を舞った。重力の抵抗に逆らうことなく、そのまま容赦なく地面に叩きつけられた。
「無駄に硬いなぁ……鉄でも蹴ったのかと思ったよ♪」
「……え?」
ーーーーーーー信じられない。
少なくとも100Kg以上はあるその巨大な肉体を軽々と蹴り上げた。先ほど、ハンズが怪物に蹴りを入れたとき意図も簡単に骨が粉砕され、一切のダメージを与えられず朽ちて逝った。
なのに、青年はその細い足で怪物を宙に浮かし、地面に沈めた。
アリスは汗ばんだ掌を地面に着け、ゆっくりと起き上がった。彼の顔をよく見るために、覚束ない足取りで近づいていく。
「離れてな♪あの鬼……まだピンピンしてる♪」
「ッ!!」
アリスの考えを汲み取ったように、青年は自然にそう言った。
「グルガァァァァァァァァアッッ!!!」
怪物はすぐに立ち上がり、怒り狂いながら青年に襲いかかった。
電気が体を走り抜けるような咆哮を青年に浴びせ、近くにいたアリスまでも巻き込み、威嚇した。
その咆哮には青年も僅かだが怯んだ。そして怪物は拳を目の前に立つ青年の顔に向け、弾丸のような速度で攻撃を仕掛けた。
だが青年は怪物から逃げることなく、敢えてその場に居座り続けた。
反応出来なかったわけではない、回避するのに十分な時間はあった。しかし、青年は避けず、防御を行った。
量腕を前に出し、左右の腕を折り曲げクロスさせる。その典型的かつ初歩的なガードを決め、真正面から怪物の拳を受けた。
「ーーーーーーーーーッッ!!」
怪物の一撃は、アリスの視点から見ても凄まじい迫力があった。
拳を前に突き出しただけで、風圧が発生した。周りに転がっていた小石が一気に吹き飛び、少女の髪が引っ張られるように舞った。その風圧だけで、怪物の一撃が大砲並みの威力があると物語っていた。
だが、その食らった張本人の青年はあまり、効いたような様子は見せない。
それどころか、余裕と言わんばかりに笑っていた。
「痛い、たしかに痛い。でも……我慢できないほどじゃあないなぁ♪」
「グガァッ!?」
青年は怪物の腕を掴むと、力強く握り締めた。
ギチギチと脆い音を経てながら怪物の赤い腕が段々と青く変色していく。怪物が苦しむように足掻き、最後は堪らなく青地面に膝を着く。怪物のような異形な形を模していながら、仕草や反応が人間らしさを帯びているのが少し面白く思ったのか、青年は大口を開けて高笑いした。
「あははははははははははははははははッッ!!!力が弱いなぁ(笑)」
「グギァ………ァァ……ア!?」
「どうした?僕の細い腕なんか振り払えばいいじゃないか♪」
青年の意味深な言葉には妙な信憑性が帯びていた。実際、怪物の動きは妙に不自然さを感じさせるほど、鈍りが目立っていた。素人目にもわかる拳の勢いの低下、拳圧だけで周りの小石を吹き飛ばすその勢い、凄まじいと言えば凄まじいが、さきほどエクレアやハンズに繰り出された一撃に比べればやや迫力不足にも見えた。
アリスにすらもその変化がわかるほど、怪物の動きの劣化はあからさまだった。
その拳の勢いが低下した理由を、青年は腕を掴む力を弱めることなくそのまま説明し始めた。
「君、右足首に深い傷があるね」
青年は視線を落とし、下の方に指を指す。
暗闇ではわかりにくい、そのうえ皮膚が真っ赤なため自然と血が目立たない。傷があるかなんて判別するのは困難な筈だが、青年にはお見通しのようだ。彼の自信あり気な表情がそう言っている。
その隙を突くように怪物は絞められていない側の手で青年の首をへし折ろうとするが、青年はその僅かな敵意にも反応し、素早く腕を掴み取る。
「足首を負傷、それで拳を打つときに踏ん張りが効かず動きの動作にも若干のズレが生じた……人体の構造が人間と似ているせいかもね♪」
左右両方の腕を掴まれ、完全に攻撃を封じられた怪物の取る次の一手は容易く予測できる。
怪物は期待を裏切ることなく、青年の首もとにーーーーーーーーー噛みついた。
「!?」
「…………ぁ」
死んだ、確実に死んだ。そう思わせるほどの見事な噛みつき。怪物は素早く口を青年の首まで持ってくると、顔を横に傾け、そのまま口を開けて歯と歯の間にその細い首を挟む。
アリス咄嗟に両の掌で目元を塞ぎ、視界を経つ。
だが聞こえてくるはずの青年の悲鳴が一向に聞こえてこない。喉を裂かれ、声も出せないほど手酷くやられたのか、それすらもわからないほどに静かだ。アリスは指と指との隙間からこっそり覗き見るように青年の生死を確認した。
「ーーーーーーーーえ!?」
アリスは驚きのあまり声に出してしまった。
怪物は震えるように首を引き、自分でも何が起こったのかわからない、とでも言いたげな反応を見せる。
青年の首に噛みつき、歯を立て、喉仏を穴だらけにしたと思いきや、青年の首にはそれらしい傷が見当たらず、あるとすればうっすら皮膚に浮かぶ歯形ぐらいだ。
「やっぱ獣並みの知能じゃ理解なんて出来ないかぁ♪」
ずっと掴み、自由を奪っていた腕を手放し、青年は一旦怪物を解放する。怪物はある程度身動きが取れるようになった途端、すぐに後ろの壁まで後退した。まるで何かに怯えるように、怪物は警戒心を極限まで高めている。
さきほどまで仲間を蹂躙され、為す術無くして命を奪われる身だったアリスとしては、この事態は非常に理解し難く、受け入れ難い。あの絶対的な恐怖、死を覚悟するほどの未知の体験、それを与えた怪物の力は、限りなく《最強》に等しい。誰もあの怪物に勝てないのではないか、偉大な父を持つアリスからしても、そう思わせるほどの異常な力。
だが、この男ーーーーーーーーアケチミズキを名乗る青年が一瞬にして立場を変えた。
圧倒的な上下関係を、この男はこの短時間で新しいものに塗り替えた。怪物の不意を突き、顎を砕いた。あの凄まじい一撃を喰らっても余裕を保てるタフさ。腕を掴み、締め上げれば怪物も悶絶する規格外の握力。そして、首を噛まれても歯形だけで済むという信じられない現状。この短い時間でアリスの中の価値観は一気に崩壊していく。
「顎砕かれてるの……わかってます?今の君に"噛む力"はほぼゼロ♪僕の硬い首を噛千切るなんて夢のまた夢ぃッッ!!」
顔を容赦なく蹴り飛ばした。笑いながら次々と暴力を振るう青年。返り血が服に飛んで汚れるのも気にせず、青年は怪物の肉体を傷つけていく。だが怪物も黙って攻撃を受け入れるほど穏やかな生物ではない。太い腕を振り上げ、馬鹿正直にまた青年の顔面目掛けて拳を繰り出す。
「…………ッ!!」
顔面を殴打。
驚くほどにシンプルに。特に工夫もなく、渾身の一撃、というわけでもない。拳を鈍器に見立てたように降り下ろす、何度も、何度も、降り下ろす。角を掴み、青年が殴りやすい位置に引っ張る様は子供を叱りつける姿に酷似している。
それほどの優勢、もう何があっても覆ることはない。そう思わせるほど圧倒的な力。
アリスもそう、思っていた。
「ーーーーーがぁ!?」
再び来る頭痛。
脳に亀裂が刻まれるような激痛が、頭の中で繰り返し反響する。虫に脳を食われているのか、そう表現してもいい。本当に泣きそう。青年は痛みに耐えきれず、地面に伏せた。
「あひ……ぁひっ……痛いよ……痛いよぉ♂€」
「ど……どうしたの!?」
アリスの問いかけにも生返事、とても正常とは思えない様子。額を地面に擦り着け、頭を垂れながら静かに喘ぐその姿は、先程まで怪物を痛ぶり、弄んでいた男とは思えないほどの豹変ぶり。隙しかない、もしアリスが怪物の立場だったら、この機を逃す余地はない。案の定怪物は身を起こし、呻き声を漏らしながらゆっくり立ち上がった。
「ァァァア…………グガァァァァァァァァァァァアアッッ!!!」
「ぶびぼっ!?」
地面に転がる青年を容赦なく蹴り上げた。
もろに食らった。今の蹴りの勢いでは確実に内臓は潰れている。青年は宙を舞い、壁に叩きつけられた。そのまま地面に落ちると、青年が血を吐き出した様な声が奥から聞こえてきた。
苦しそうに噎せる青年は立ち上がる動作を見せない。呼吸が上手く出来ていないのか、呼吸音がやけに荒い。
「かはっ……ぁ……がぁ……ぁ……」
「グルァ……」
怪物はふらふらとした足取りで青年に近づいていく。薄暗くてもわかる、獣の吐息。獲物を狙っているときの獣の臭い。血生臭い、危険な臭い。
「はっ……はっ……はっ………」
アリスは、経緯は分からなくとも、自分を救おうとしてくれた青年がこのまま蹂躙されるのが許せない。
だが足が動かない。震えが止まらず、立つことを維持するのがやっとだ。全身の血管が、筋肉が、萎縮している。肉体が、拒絶している。あからさまに、臆している。冒険者が、魔獣に。そんなこと、あってはならない。
「はっ……はっ……あぁぁぁぁあっ!!」
苦しそうに声を上げる。虚勢にしか見えないだろう。
だが、これが今のアリスに出来る最大限の威嚇。そして、大声で叫んだ。
咆哮、なんて格好の良いものではない。小動物の威嚇、吼えただけだ。少しでも隙を作り、彼だけでも逃げてくれれば、そんな考えがアリスの頭の中を過っていた。
恐怖による判断力の低下。作戦と言うにはあまりにも無計画、無鉄砲。大声で吠えたにも関わらず、怪物はアリスに見向きもしない。
「ーーーーーーーー私のせいで誰かが死ぬなんて……もう嫌なの!!」
耐えられない。
人が目の前で死ぬのは、いくら冒険者でも堪える。
それが自分のせいで命を落としたのなら尚更。
隙を作るなど、無理かもしれない。
だが、このまま見てるぐらいならーーーーーーーーーーーーーーー、
「私はッ!冒険者だぁーーーーーーーーーーーーーーーッッ!!!」
泣きながら、走り出す。
足腰に力が入らないせいか、走り方が不安定で歪だ。今にも転びそうな、幼児のような走り方。
向かってくるアリスにようやく気づいた怪物は、まるで蝿を払うかのように、腕を軽く振り上げた。
「ーーーーーーーーーーーーーーーーーーぁ」
この時、確かな死の予感が、胸を突き刺した。
怪物の手が触れただけでも全身が弾け飛ぶだろう。
死を覚悟していなかったわけではない。
だが、こんなに呆気もなく、隙を作ることもできず、朽ちてしまうのか、と。
最後の最後で、飛び出してしまったことを、後悔してーーーーー、
「ーーーーーーーーーーーーお嬢さん、ナイスだよ♪」
「………へ?」
突如、暗闇から呟かれた声。
「だから痛くねぇんだよ……あんなの♪」
「グガァッ!?」
怪物の体が浮き上がった。
その下には、血塗れの青年が、居た。
あの体格差で持ち上げるなんて、常軌を逸している。
怪物は3mは確実に超えている。逆に青年は170cm程度。しかも怪物はあの筋肉量。重量は計り知れない。それを持ち上げる青年のほうが計り知れないと言うべきか。あの細い手足にどれほどの力が詰まっているのか、謎だ。
「重いなぁ……とぅおりゃぁぁぁ!!」
変な掛け声であの巨体を軽々と投げ飛ばし、今度は地面に怪物を叩きつける。
「ごめんねえ、あまり長い時間は遊べないよぉ♪」
青年は申し訳なさそうに頭を下げたまま怪物の腕を掴み、思い切り振り回した。
壁にぶつかり、怪物は痛そうに唸り声を上げたが青年は気にすることなく続けた。
「弱い弱い弱い弱い弱いッ!!圧倒的にぃぃ!!僕のほぉうがッ!!!」
「ガルグァァァァッッ!?」
「つぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえッッ!!」
止まらない攻撃の連鎖。片手であの巨体を縦横無尽に振り回し、壁や地面に叩きつけている。
激突した際に砕けた岩の破片が赤い皮膚に突き刺さり、血が周りに飛び散る。
圧倒的な戦況、圧倒的な実力。突然やってきた見知らぬ青年は彼女の命を狙う厄災を滅ぼし、完膚なきまでに蹂躙し続けている。普通の人間とは比べ物にならない身体能力、怪力を持つ男、アリスは青年を信用していいのか、正直わからなかった。
「さっきのお姉さんが負けるとは思えないんだけどなぁ♪」
青年はパッと怪物の腕を放すと、そのまま怪物は地面に転がった。
少し飽きたような態度の青年は怪物の頭を踏みつけ、偉そうに語った。
だが、その余裕も一瞬で歪んだ。
「ーーーーーーーは?」
腕が消えた。
青年のほそい左腕が忽然と姿を消した。
後からやってきた激痛に青年は心を乱した。
「いてぃぁぁぁぁああぁぁッ!!」
突如、青年の腕が吹き飛んだ。
血が噴き出し、細長い血管が傷口から垂れる。
怪物は立ち上がり、青年は痛そうに身を転がし、悲鳴声はまるで泣きじゃくる子供のようだった。
だがすぐに体勢を立て直し、無理やり笑顔を作った。
「………はぁ?今まで手加減してたってゆーの?相手の出方を見てたとでも言う気かよ獣の分際で♪」
青年は笑いながら怪物に接近し、残った片腕で攻撃を続けた。
「不意討ちぐらいでっ、調子にのんなや♪」
とても片方の腕だけで攻撃しているとは思えない殴打の連続。
狭い洞窟だからかより鮮明に聴こえてくる怪物の身体が破壊されていく音。
骨が軋み、肉が悲鳴を上げた。怪物の肉体も限界に近いことは明白。
青年は次の攻撃で仕留めるため、回し蹴りのフォームに入るが、予想外のトラブルが。
「あっ」
滑った。
腕が吹き飛ばされ、血が地面に溢れていたことを頭に入れていなかった青年は、見事な滑りを見せつけてくれた。
地面に転がり、思い切り打ったお尻を押さえながら苦笑いを浮かべた。
「い、いやぁ……今のノーカンで……がっ…!!」
太い指が絡め取るように、青年の細い首を掴み、持ち上げた。
自分の体重の重さによって首は絞められ、どたばたと足を揺らす姿は何とも弱々しい姿だ。
《怪物》の黒く鋭い、刃物のように尖った爪は青年の喉に段々突き刺さっていき、僅かに血が滲む。
口から涎が垂れ、もう虫の息であることを悟ったのか《怪物》はそのまま地面に叩きつけ、青年の頭部は盛大に地面にめり込んだ。短い悲鳴と共に青年の悪足掻きは止まり、ついには足も動かなくなった。
「グルルルルルルルルッ………」
「ーーーーーぃひ」
手を放すと、次の興味は少女に移り変わった。
丁度握り拳と同じ大きさの眼球がぎょろりと此方を向き、その鋭い眼光が胸を刺す。
一歩、また一歩と此方に近づいてくる怪物の恐怖に腰を抜かし、少女は身動きが取れない。
唯一救いに来てくれた男も地に転がり、ハンズ達同様動く気配がない。
少女は今度こそ、自分の死を悟る。
「ーーーーー僕はまだ死んでないぞ♪」
ーーーーー首を絞められ、呼吸困難で窒息死だと思われていた青年は、怪物の背後に立つ。
怪物が感づき、勢いよく後ろを振り向いた瞬間を見計らって、肩に飛び乗った。
首に片手を回し、そのまま捻切るように勢いよく骨を折る。
「グガァ………!?」
しっかりと骨の折れる音が聴こえたことを確認すると、青年は華麗に地面に飛び降りる。
怪物は折れ曲がった首を揺らしながら、地面に倒れ込んだ。
「………いやぁ、死んだふりって熊には効かないらしいけど" 鬼 "には効くんだなぁ♪」
青年は痺れた手を振りながら、遠くで怯えたままのアリスを凝視する。
生まれつき視力が悪く、こういった暗い場所では性別を判断するのも困難を強いられる。
青年は興味本意でアリスの元まで近づいてーーーーーーーー、
「ーーーーーグァ」
「は?」
それは、歩いていた途中のことだった。
後ろから聞き覚えのある鳴き声がした。
青年は反射的に後ろを振り返ると、首を折られ、命を絶たれたハズの《怪物》が立ち上がっていた。
獣臭い吐息を吹きながら、口からは涎を垂らしているその姿は、尋常ではないほどの殺意と異常性を感じさせるには十分だった。
「………首折られて生きてるとか……キミ頭おかしいんじゃないのぉッッ!?」
青年は【怪物】の頭上に向かって高く跳躍すると空中で体を捻り、頭部に強い蹴りを入れた。
効いたのか多少ふらついたが、すぐにこちらに向かってきた。
「効いてないわけじゃぁないけど……これ以上の延長は好ましくない。だから僕も少し本気を出す♪」
そう言うと青年は深い呼吸を行い、精神を安定させるような姿勢を見せた。
空手に似た構えをして、目を閉じ、精神統一をしているような青年の姿を黙って見ているほど、怪物にも余裕は無かった。太い腕を振り上げ、青年の首目掛けて降り下ろそうとした瞬間、青年の攻撃は始まっていた。
筋力を絞るように力を込めた渾身の正拳突きを《怪物》の腹に食らわせる。
これは手加減などしていない。だが全力でやると筋肉繊維がはち切れてしまうため、80%が限界だ。
しかし80%の力も一か八か、このような場面でしか出せない力だ。
この《怪物》が立ち上がった直後、青年の本能が危険信号を鳴らした。
だがこれは決して臆しているのではなく、明智水樹の冷静で迅速な判断だ。
「ーーーーーーぁ」
ーーーーー青年の打ち出された右腕はバネのように弾き飛ばされた。
綺麗に血が跳ね、右腕だった肉片が爆発したように辺り一面に散乱する。砕けた骨の破片が割れた硝子のように青年の頬に突き刺さった瞬間、青年の腹は意図も容易くもぎ取られた。
「ーーーーーガァ」
ーーーーーー《怪物》の腹部は綺麗に崩壊した。
腹筋は破壊され、幾千もの絡み合った筋肉繊維が千切れ、細胞が消滅していき、貫いた。
《怪物》は自身の腹に風穴が空いたことを認識すると、吹き飛ばされる間際に目の前に立つ男の脇の腹を掴み、毟り取った。内臓を引きちぎることには失敗したが、見事肉を抉った。そのことに満足したのか《怪物》は潔く意識を閉じ、壁まで吹っ飛んだ。
「ーーーーーーーーがばばばばばばばばばば!?」
今まで体感したことのない未知の衝動が青年の肉体を揺らす。
血が踊るように、青年の気持ちを昂らせ、熱く煮えたぎる。
強すぎる痛みは、麻薬のように人の精神を不安定にさせる。
「がぁ……こんな、こんなに痛いのは……初めて……くそ……あの鬼野郎め……♪」
大量の血液が腹の奥底から込み上げてくる。
口一杯に溜まり、滝のように口から溢れ出てきた血を地面に溢しながら、青年はゆらりゆらりと覚束無い足取りで壁にもたれ掛かった。
「がぁぁぁぁ………!!」
相討ちになってもおかしくないこの状況で、青年は今もなお激痛を耐え抜いている。
息も荒く、顔色も酷く青白くなっていく。血がどんどん失われていき、意識さえ朦朧と薄れていく。
傷口を必死に震える左手で塞ごうと試みるが、もう両腕を失っている状態だ。
止まることのない出血は徐々に青年の体温と理性を奪っていく。
そのまま青年は数メートル先にある何かを視界に捉えた。
あれはーーーーーーーーーおびただしい数の内臓。
あぁ、綺麗。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ーーーーーーーーぁ?」
夕焼けが幾つも並ぶ教室の窓を紅く照らし、反射した光が古びた床に射し込む。
心地よい陽射しが分厚い制服に染み込むように、僕の体に侵食していく。
自分の両腕を枕に居眠りをしようとした直後、隣の席から漂う異臭に気付き、気まぐれに右を振り向いた。
『ーーーーーー助けで』
ーーーー顔面の肉を酷く抉られ、骨が露出している生首が、机の上に置かれている。
血が滴り、机の角から滴がこぼれ落ちる音が嫌にに耳の奥にまで届いてくる。
僕は此方を向いている生首に対して怯むわけでもなく、身体の体勢を直し、静かに生首を睨んだ。
「君は、本当に、助けてほしいのかい?」
『ーーーーーーぁ』
いつの間にか生首は消え失せ、赤黒い血だけが机の上に広がっていた。
「助けて……か」
席を立ち、窓の元まで歩くと、僕は後ろを振り返り教室全体を見渡した。
真っ赤な床に転がる死体を見下ろし、亡骸の姿を直視すると、静かに笑った。
「……ハハハハハハ。"人の助け方"なんて……僕は知らないよ」
命を奪うばかりの人生。
幾つもの大切なモノを壊すばかりの存在。
友が打ちのめされたとき、手を差し伸べることもできない。
愛する人が泣いているとき、この手で抱くこともできない。
そんな不器用な僕が、人を助けるなんてできるはずもないだろう?
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「アリス様!!ご無事ですか!!」
「……え?」
目の前で怒鳴るように私の名を呼んでいる誰か。
暗い闇の中から私を引き摺りだそうとする呼び掛けに私は瞼を開けることで応えた。
私の身体を揺すり、大声で名を呼び続けていたのは全身武装の騎士。全身を覆い尽くしているせいで顔もろくに確認できないが、身に付けている鎧に彫られた模様は見慣れたエヴァンジェリン家の家紋を表していた。つまり目の前で私の名を呼んでいるこの男はエヴァンジェリン家に仕える騎士だということがわかる。
「……お目覚めになられましたか!!アリス様!!!」
「私は……ぁ……ぃ……」
背中にゴツゴツしたものが当たってとにかく痛い。どうやら壁にもたれ掛かっている状態のようだ。
気分も悪いがこの頭痛、どうにかならないものか。痛みのせいで今まで自分が何をしていたのか、何故ここで寝ていたのかもわからない。騎士は私の目覚めを心から喜び、安堵しているように見えるがどうにも後ろを隠しているようにも見える。私は体勢を傾け、騎士の背後にあるナニかを確認した。
「ーーーーーーーーーッッ!!!」
ーーーーーーー内臓。内臓。内臓。内臓。内臓。内臓。
それを視界に入れた途端に目に染みるような刺激的な異臭が蔓延していることに気づいた。
赤黒い臓物が辺り一面にばらまかれ、切断された片腕や頭部など生々しくグロテスクな物体が私を囲むように配置されている。
「ーーーーーーーおぇっ」
私は吐き気に耐えきれずそのまま大量の胃液と今朝の朝食を口から吐き出した。
年頃の娘が、なんて余裕を保てるほど今の私の状態は正常ではない。
目の前で嘔吐した私に騎士は最大限の配慮と気遣いをしてくれたが、礼の一つも言えないほど私は虫の息だ。
「………思い出した。ハンズ、オルオ……」
全てを思い出した。
二人が一匹の怪物に容赦なく蹂躙され、もうこの世にはいないことも。
突如現れた青年によって怪物は殺され、私は命を救われたことも。
ーーーーーーー救ってくれた名も知らない青年が、死んでしまったことも。
「………お兄さんたちは騎士だよね?どうしてここに……」
「我々は匿名の通報があったため、ここ周辺を探索していたところ………血の痕がありましたので、この洞窟を覗いてたところ……この有り様」
「………匿名の、通報?」
「おいッ!!こっちのヤツ生きてるぞ!!」
遠くから聴こえてくる男の声。遠くといってもこの狭い洞窟内では声が反響してどこから聴こえてきたのかは意識がまだはっきりしない私には判断しかねる。だが数m離れた壁に数人の騎士たちが集まっているのがわかった。
私は震える足で立ち上がり、平衡感覚の抜けた歩き方で壁まで進む。
「……生き…てる、って……誰が?」
私の仲間は全員死んだ。私の目の前で無惨に殺され、生命を維持できるような状態の仲間は一人もいなかった。
オルオは首を切り離され、全身をばらばらに切断された。
ハンズは頭部を握り潰され、上半身を擂り潰された。
万に一つも、生きている可能性など皆無だ。
だから、もし、生きているとしたら。
「ーーーーー信じられんな……腸をぶちまけている状態だというのに……心臓はまだ動いておるわ」
「筋肉を無理やり収縮させて出血を抑えている……信じられん……!!」
壁付近に集まる騎士を退かし、アリスは囲まれていた人物の顔を確認する。
「ーーーーーーーーぁ」
顔色は真っ青に偏食し、口周りは乾いた血が塗られている。
綺麗な寝顔はまるで天に召されたかのように安らかだ。
暗闇ではっきり見えなかった青年の顔が騎士の持っているランプに照らされ、今ははっきり鮮明に見える。
「この人……私を救ってくれた人だよ」
そこに居たのは、生き残っていたのはーーーーーー私を救った男。
腹部の肉を怪物にもぎ取られ、腹に詰まっていた内容物を地面にぶちまけた男の命は、まだ消えてはいなかった。
筋肉を収縮させてあの穴に近い傷口を塞ぎ出血を防いだと騎士は言ったが、人間にそんなことができるとは思えない。
だがあの男は普通とは違った。
常識では計り知れない異常性を私に知らしめた。
だから、今は私の常識などあてにするべきではない。
もし、筋肉を収縮させて傷を塞いだことを事実として肯定するとしよう。
見るところたしかに筋肉で塞がれていて、出血も止まっていることは私の肉眼が確認を済ませた。
だがそれでも、今この男が生きていることに疑問を抱く。
「内臓が不足した状態で………どうして生きていられるんだ?」
騎士の言うとおり、内臓が不足した状態で生き続けるというのは生物学的に不可能だ。
魔法や異能力でもない限り、今生きている事実を説明できない。
だが、今は彼は生きている。
どんな理由があろうと、人智を超えようと、恩人の命がここに在る。
「………今、治すね」
私はその場に腰を下ろし、震える両手に気力を集中させた。
空気中の酸素が減り、温度が少しずつ上昇する。
私は目を瞑り深呼吸をすると呪文を唱えた。
「 " 巻き戻せ " ーーーーー《完全再生》」
時間が、巻き戻った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
誰だ。僕の睡眠を妨害する阿呆は。
暗い海に沈んでいく僕の手を掴んでくる。誰だ。
女の手だ。綺麗な。小さい、子供の手だ。
暖かい。温かい。あたたかい。
触れていると、凍った肌がゆっくり溶かされていくような、そんな心地好さが、優しさが、僕を包んだ。
「離せよ。やっと死ねるんだ。邪魔をーーーー」
痛みが腹の中で渦巻いている。痛い。熱い。熱くて。熱くてたまらない。
口の中が鉄の味でいっぱいで、上手く呼吸が出来ない。手足が痺れているのか、全く動かない。
腹がむずむずしてくすぐったい。そういえば腹の痛みが引いている。なにがおこっている?
「あぁ」
「意識が戻ったぞ!!」
「凄い……噂には聞いていたがこれほどとは……」
周りから男の声がする。寝起きに聞くのが男の声なんて残念だ。
腹部の痛みが消え、くすぐったかった感覚も今ではすっかりなくなっている。
それどころか心地よくてこのまま寝てしまいそうだ。いい匂いがする。懐かしい。
全身の力が入らないが、この薄い瞼を開ける力ぐらいならある。
僕は瞼を開け、視線の先にある女の子の顔を直視した。
「ーーーー待っててね。もうすぐで治るから!」
「ーーーーーーーーーーーーー」
ーーーー血を溢したような紅く輝く瞳。
雪のような白い肌に、硝子細工のように細く脆そうな手足。
触れれば汚れてしまいそうな、幼くも引き締まった胴体。
幼さない顔、繊維のように細く美しい白髪。
『美しい』という表現がこれほど似合う少女もそうはいないだろう。
だがその容姿は異形で、視るものを臆させるほどに神秘的な姿だ。
人間味を感じさせないといったほうが正しいのかもしれない。
芸術性すら感じさせる美しさ、僕は一瞬で見惚れ、思わず笑ってしまった。
ーーーーーーーあぁ、綺麗♪
ずっと求めていたモノ。
ずっと心に空いていた穴が埋まったような感覚。
ずっと探していた、在るはずのないモノ。
「アリス様、顔色が………!!」
「大丈夫………久しぶりに"治した"から疲れただけ……」
ーーーーーーーーありす。
ーーーーーーーーアリス。
ーーーーーーーーアリスか。
僕の中で何かが弾けた。赤い果実が。熟れた果肉を迸らせて、血流が沸騰するような。
興奮。赤いドレスを着飾って今すぐにでも踊り出したいくらいに、今の僕は正気ではない。
「ーーーーぁり、す」
ねぇ、こっちを向いてよ。
僕のアリス
「………え?」
「どうしました?アリス様」
「今、名前を呼ばれた気がしたけど……」
「誰も呼んでいませんでしたが………それより早く荷馬車にお乗りください!このことを早くお父上様に!!」
ねぇ、お願い、行かないで。
もっとお話ししよう?
君の好きな食べ物は?
趣味は?
好きな臓器は?
君の血の色はどんなに綺麗なのか、想像しただけで涎が出るよ♪
待っててね、アリス。
ーーーーー君は必ず、僕が殺してあげるから♪