プロローグ《殺人鬼》
# # # # # # #
ーーーーーー20□□年□月□□日、○○○○死亡。
奇妙な文面が脳内を横切る。
『○○○○死亡』という部分だけが、心に引っ掛かりどこか靄がかかっている。
「ーーーーー」
重い瞼を開くと、黒く塗り潰された世界が視界を埋め尽くした。
目の前に広がるのは黒で染め上げられた壁と床。華やかさは足りないが、不思議と気品が感じられる空間。
シックで赴きのある黒いソファ、ピカピカに磨かれた埃一つ無い黒いテーブル、洒落たロゴが描かれている黒いティーセット。そしてここから少し離れた部屋の隅に置かれてい巨大な黒いグランドピアノ。
そのピアノを手慣れた様子で演奏する仮面を付け、素顔が分からない不思議な雰囲気を纏う女性。
あのピアノから奏でられるメロディーは暗く、この部屋には不向きな曲だ。
だが不思議と嫌いではない。初めて聴くはずなのにどこか懐かしい。不思議と心が踊る。
自分の腰を下ろしているソファーの肌触り、尻部の包まれる感触や腰の寄り掛かる感覚は確かなもの、決して夢などではないはずだ。
用心深く頬をつねるが、わかったのは自分の頬が餅のように柔らかいことと、頬は実際につねると意外に痛い、ということだった。
「ーーーーーーーーーー」
青年はここがどこなのか、そう考えるよりも先に、目の前に座る人物に視線を寄せた。
ソファに腰を下ろし、黒い帽子を被り、顎から鼻を覆った黒い仮面を着ける素顔の知れない男。
青年と仮面の男との距離は1mも離れていないはずだが、実際より遠く離れているような距離感に青年は軽く戸惑う。
謎の長い沈黙が続き、重く異質な雰囲気が空気に混ざっているように、呼吸が困難になる。
黒帽子の男性はゆっくり脚を組み変えると、それを合図にしたかのように静かに沈黙を貫いていた青年は、ようやく言葉を発する。
「ーーーーーーぁ」
最初の第一声だというのに、なんとも府抜けた声なのだろうかと、青年は自分で自分に落胆する。
なんと声をかけたらいいのか、ここがどこなのか、あなたは誰なのか、聞きたいことは山ほどあったはずだが、しばらく喋っていなかったからか、声が上手く発声出来ずあのような間抜けな声が出てしまった。
ーーーーーーーー。
ーーーーーーーー。
ーーーーーーーー。
ーーーーーーーーしばらく。
しばらくという言葉に青年は過敏に反応した。
しばらく……つまりそれはどれほどの時間だ?どれほどの時間、自分はこの部屋で黙りこくっていたんだ?
小さな疑問が疑問を呼び、青年はソファの上で考える。
時間の誤差が、この空間に居ることにより時間の価値観が軽く崩壊していく。
『ワタシのことは誰だかわかりますか?』
「はぃ?」
ーーーー喋った。
人形のように動かず、動じず、感じず、静かだった男の口から、声と思われる音が漏れた。
誰?
わかるわけないだろう。
『その反応だと契約は無事機能しているようですね。』
「なんのことだか………ていうかあなたは誰ですか?ここはどこですか?」
『……なるほど、一から説明しなければいけませんね。ここは運命の部屋、という特別な場所です』
運命の部屋?何を言っているんだ、ふざけているのか、と一度は考えたが周囲の雰囲気を見ても冗談ではないと思われる。脈絡のない切り返しが少し気になるが、仮に本当にここが"運命の部屋"という場所だとしても、そこが日本のどこにあるのかも分からない。
というか、ここが日本かどうかも怪しい。最悪、拉致されてどこか外国に売られるなんて……いや、そんなドラマのようなことはありえない。
だが少なくとも、悪い待遇ではないはずだ。気づけば紅茶も注がれ、飲めと言わんばかりに紅茶の香りを漂わせている。不可解な点と言えば、この注がれた紅茶が異様に黒く、真っ黒な液体だということ。匂いは紅茶なので"紅茶"と言ってしまったが、見た目は完全に紅茶ではない。…………話しが脱線したが、お茶まで出してもらってるんだ、監禁とは思えない。
『……ワタクシはこの部屋の管理者を任されております。【オルガナ】と申します』
「……………………」
『話を進めましょう。突然ですがおめでとうございます。あなたはこの部屋の使用権を得られました』
「……いや、えっと……話が見えないんですが……」
突然そんなことを言われても理解できるはずがない。
だが、部屋というのは文脈的にこの黒い空間《運命の部屋》を指しており、使用権というのは、言葉のとおり使用する権利のことだろう。
「部屋の使用権……というのは…………《運命の部屋》の使用権ってことですかね?」
『はい。理解が早くて助かります」
いやいや、全然理解していないんですけど。
「貴方は選ばれ、この部屋の使用者として認められました。なので貴方にはいくつかの選択肢がご用意されています』
「いやいやちょっと待ってください」
ーーーー選ばれた、誰に?部屋の使用者?選ばれた?何様だよ。
見ず知らずの人間2人とこんな怪しい部屋に閉じ込められ、なぜこんなとこに居るのかも理由がわからないまま変な話を聞かされ頭がおかしくなりそうだ。
「ーーーーあ、あれ?おか、しいな……」
青年は気がついてしまった、一番大事なことを。
ここがどこか、何の目的でここにいるのか、目の前にいる男が誰なのか、そんな些細な疑問はどうでもよかったのだ。
そんなことより、最も大事で、青年の″存在″そのものを位置付けるアレを、忘れてしまっていた。
正常でいられなくなった青年は立ちあがり、震える声で質問をした。
「…………僕の…………名前、ってなんだっけ…………」
『ふむ…………』
ーーーー自分の呼び名。呼称。
生みの親から貰った大事な、大事であるハズの自身の『名前』を青年は忘れていた。
それは恥ずべきことだ、名付け親にも申し訳ないのもあるが、自分の名前を忘れるなど異常だ。
名前とは親から貰った最初の愛情。忘れては、ならない。
「ーーーーーーーーーー」
この部屋に連れてこられた時、この部屋にいる人間に変なクスリでも射たれたのかもしれない。
青年は腕の袖を捲り、なにか射たれような跡がないか必死に探すが見当たらない。
つまり、違う何かが原因。
必死な青年とは対照的に落ち着き余裕な様子のオルガナを青年は静かに睨みつける。
だが、帽子を深く被り、鼻から顎までを覆い隠す黒い仮面を着けており、顔の認識が不可能だ。それが原因で表情が読み取れず、何を考えているかわからない。
そのうえ、低く機械を使ったような声には生気がなく、このオルガナという男からは人間らしさなど一切が感じられない。それらの理由から、青年は人間と話しているような気分には到底なれなかった。
それに部屋の隅でピアノを弾く女性も、どこか不気味だ。目元を覆った仮面を着けているので、オルガナ同様顔はわからないが、鼻と口元だけでも美人だということはわかる。あんなに長く演奏をしているのにピンと垂直に伸びた背筋も乱れず、美しい姿勢のままで弾き続ける。
その姿が、どこか人間味を感じない。
そんなことを考えているうちに、満を持してオルガナの衝撃的な言葉が胸を突き刺す。
『説明の段取りを変えます。まず一つ目の貴方の疑問ーーーーーーあなたは既に死んでいます』
「……は?」
ーーーーーーーーーは?は?は?は?は?は?は?は?は?は?は?は?…………は?
何を言っている、言っているんだ、そんな馬鹿なこと、言わないでくれよ。
「……………冗談だとしても笑えませんよ」
頼むから、そんな、そんなこと、信じるわけ、信じられるわけ、信じられない、信じるハズがない。
だが、彼らが僕を欺いているという確証もない。
不気味な内装が、人間味を感じない不思議な風貌な部屋の住民が、さっきの悪夢が。
本当に死んだのではないか、という不安と死に対する絶対的な恐怖感を膨れ上がらせていく。
『まず説明を聞いてください。ワタクシの役目はこの《運命の部屋》に、輪廻に還る幾千もの【魂】の中からとびきり価値の高い″特別な者″を引き抜き、招くことです』
「ーーーーーー」
『そして、その者に選択肢を与え、運命を変える権利を提供することが、ワタクシの主な役割です』
「………正直、突拍子もない話で疲れましたけど、言いたいことはだいたいわかりました。つまり僕は死んで、僕が特別だったから、あなたに選ばれて、いま、この部屋に居るってことですよね?」
『素晴らしい、恐ろしいほどの適応力です』
ーーーー何を煽てているのだか。
青年は何故自分がこの空間に招かれたのかわからなかった。
オルガナは価値の高い、特別などと言っていたが、青年は自分がそんな大層なものには思えなかった。
ごくごく平凡な日常を過ごし、目立った特長や特技を持たない自分がーーーーーーあ。
ーーーーーー自分はどんな人間だった?
自分の名前だけではなく、自分の出生、親の顔、家族構成など、大事なことばかり忘れていることに気づいた。
だが言語や日常的な知識だけは覚えている。
学校で習った歴史や数学、料理の知識は変わらず脳に残ったままだ。
「あなたの記憶が欠けているのは契約による代償………いえ、記憶の欠損は契約の内容によるものです。」
オルガナは座ったまま右手を上げ、優雅に指を鳴らす。
響く音と共に、テーブルの上にはこの空間内では珍しい"白い紙"が出現し、青年はその紙に書かれてる文に視線を集める。
『明智水樹』様
一, 目標を殺害をするまで、これまでの『私』の人生に関する記憶を削除。生活するうえで必要な知識は残すこと。
二, 目的を達成し、記憶を復元出来たあかつきには『私』の望みを叶えること。
ーーーーーーーなんだこれは。
こんなもの、知らないし見たこともない。
だけど、この下に書かれている名前は、絶対に僕が書いた文字だ。
『貴方は自分自身の望みを叶えるために自分自身に誓約を結んだ。その結果 貴方は記憶を失い、全く新しい【アケチミズキ】が誕生しました。それが貴方です』
「…………アケチ、ミズキ?」
ーーーーーーそれが僕の名前なのか?
そんなもの口から出任せだと笑ってやろうかと思ったが、何故だかしっくり心に馴染む。
その名前を昔から知っているのだと、少し遅れて理解した。
「貴方は現世で命を落とし、一度だけ生き返る権利を得ました」
「ーーーーーーーー」
この際、自分が死んでいるということはもうどうでもいい。この状況を少しでも理解するために情報が必要だ。しかもその情報を引き出せるのが、この奇怪な男からだけ、というのが心配でならない。
「30分前の貴方は生き返る条件である契約内容を決め、結びました。その結果、契約通り【アケチミズキ】様は記憶を失い、今の貴方がまさにそれです」
「……………それが本当の話だったとしても、何故僕は記憶を失ってまで、こんな意味不明な契約内容を結んだんですか?」
「それをお答えすることはできません」
「目標を殺害って………まさか人をですか!?いやいやいや、無理に決まってるじゃないですか。ていうかなんで人を殺さなきゃいけないんですか!」
「それは貴方様が【殺人鬼】だからです」
「ーーーーーーーーーーは?」