001
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目蓋を開いた感覚がなくとも、光が満ちた。
「おおおお」
その場でぐるぐると首をまわしてあたりを確認する。石畳の広場のおおよそ真ん中に立っていた。
広場は円形で、その広場の中心を通り一直線に道が伸びている。
広場の周囲から、大通りの向こうまで、白い石造りの建物、遠くには木の建物が立ち並んでいる。背中には見上げるほどに大きなモニュメントが鎮座しており、全貌はわからない。遠くから見れば正体がわかるかもしれない。
謎のモニュメントよりも興味が引かれるのはそこにいる人々の姿だった。
例えば、目の前で談笑する燃えるような赤い髪の青年と、腰まで長くのばした緑髪の少女。青年の赤毛は日に透けて金色にも見えた。緑色の毛髪は今まで見た事もなく、生い茂る新緑を思わせる豊かな色彩は、染め上げではないことを主張するように輝いていた。
緑の彼女が特別という訳ではない。広場で露天を広げ大声で呼び込みをする彼も、そういった露天で買った商品を眺めて憩う彼女も、目標を目指して大通りを行き交う彼らも、それらを構成するひとつひとつが見た事の無い色彩をまとっていた。
それから、ようやく自分自身を確認する。
手のひらを閉じたり開いたりすると、指先のぬくもりが手のひらに伝わってくる。
手のひらの向こう側に見える不規則な石畳の上に立つ靴の表面は淡いグリーンで、自身の趣味にあわない。足の裏に伝わる感触はクッション性に乏しく、長時間歩く事には向いていないだろう。
手の指の関節はぎこちなさがあるものの、肌に伝わる感触と併せてみても、これがバーチャル世界だとは到底思えない。
「お、おおおお」
そのまま屈伸、背伸び、前屈、と一通り柔軟運動をこなす。
足をあげてばしばしと地面を何度か強く蹴りつけると道からは土煙が上がって、目元がかゆくなる。その土煙が談笑していた先刻の二人のもとまで運ばれて、二人はいやそうな顔をしてそこから去っていってしまった。やってしまった、という後悔から頭を下げるが、二人は背中を向けていて最早こちらをみてはいないのだった。
これは、本当にバーチャルなのか。
体の感覚や、この 土煙。キャラクターの表情筋も豊かで、外見の差異はあれどここに居るのは人だった。
そうなると、自身の姿を確認したくてたまらなくなるのが性である。が、生憎自分の目線からは簡易な布の服と平坦な底の靴と、腰には申し訳程度の木の枝が差し込まれていることくらいしか視認できない。
手のひらで顔をぱしぱし触ってみる。鼻は穴が二つあいていて、目は二つ。口は一つ。標準的な顔立ちではありそうでほっとする。
バーチャル・リアリティで操作するアバターの体格は操作感に違和感がないように現実と同じように指定した方がいいという情報に従った。顔はカスタマイズ不可で、本の骨格や画像から実際の容姿に近い印象にされる。リテイクの要望は何度も出せるそうだが、一番目のものをあえて確認しないで選んだ。実際に見るまでのわくわく感を優先したが、鏡がない。
持ち物にないか確認してみたが、あるのは腰紐に引っ掛けている木の枝くらいだった。確認したらよかった、と今更の後悔は頭を降って、次にこの腰に引っ掛けている木の枝に意識を向ける。
まさかこれが最初の得物なのだろうか、と引っ掛けられていた木の枝を掴んでしげしげと眺めた。
木の枝は木刀ほどの太さがあって振りがいがありそうだ、と握りやすさを確かめ、周りにはもう誰もいなくなっていることを確認して何回か縦方向に素振りをする。手のひらへの馴染み具合をたしかめるとなかなか良い。
ぶん、と横方向に振るってみると「ぎゃっ!」という声と思いのほかかたい感触としてが伝わってきて目を丸くした。
「えっ」
声のした方を振り向くと、顔にそばかすが魅力的な二つ結びの女の子が驚いたこちらと同じくらいびっくりした顔で、そこで立っていた。
「えっ」
その女の子の額には血が滲んでいる。
「えっ」
彼女の顔は驚いたままで体は明滅を繰り返す。明滅する度、透明度が高くなっていき向こう側の景色が見えるほどにどんどん色が薄くなっていく。
「えっ」
やがて、彼女は消えてしまった。
「えっ」
幽霊……だろうか、とかろうじて感想が頭をよぎり、そのまま動けなくなった。
「ぷっ…ははははははっ!」
そうしてかたまったままで立ち尽くしていると、こらえきれないといったふうな笑い声が聞こえてきた。
そちらに目をやると、目を見張った。
先ほど談笑していた青年、少女は十分に整った顔立ちをしていた。とくに少女は将来が期待できそうな緑だと内心考えていたが、それはおこがましい。
美の化身が、そこにいた。
陶磁を思わせる白い肌に白金にちかい髪が一つにまとめて肩に流れている。美しさは極まれば神聖さを帯び、厳かさに緊張が喚起され、体が硬直する。
「はっ、ははは、いきが、おなかがっ」
その美の化身が、腹を抱えて馬鹿笑いしていた。
笑い上戸らしい美の化身はしばらくぷるぷると震え、時折、手を叩きながら笑っている。
いくら美しくとも、そこまでの抱腹絶倒の様を見せられれば硬直も自然と解けた。視線が重なって、やはりこちらを見ているのだと確認する。
「あの……」
「ぜはっ、はー。お腹痛いー。ああ、ごめんね。その、うん、とっても新鮮っていうか、ありえないっていうか」
戸惑いがちにかけた声に、美の化身は軽く笑った事に謝ってから大きく息をすって、呼吸を整えた。
「はー。えと。初心者?かな?」
「はい、あの」
現状がわかっていないまま、なんとか口を開こうとするのを彼女は手を制した。
「わざとじゃないってことは、偶然だものね」
白魚のように美しい細い指先がこぼれてきた涙を拭いながら確認され、それに頷いた。
「あのね、あの子はゲームの導入部分を案内する子なの。で、あなたはその棒きれであの子を倒しちゃったってわけ」
「……は」
吐息のように言葉を吐き出したきり固まった姿に、美しい女は腹をかかえて笑うのだった。
美しい女の笑いが収まる頃になると、固まりもほぐれてがっくりと肩が落ちていた。
「普通、町の中で武器は振るわないし、しかもログイン直後にそういうことをするとは思わなかったから対応してなかったのね……。普通は警告がでるはずだし、こんなんでペナルティなんて、困っちゃうわよねえ」
彼女は腕を組んで小首をかしげ、宙を見ながら考える。言われた言葉の半分以上が理解できないことと先刻のショックから「はあ……」気のない返事を返すのがせいぜいだ。
宙を見たままの彼女の服装をあらためてみると、上等なものであることが伺えた。
光沢のある布の服の上に、使い込まれた事がわかる茶色の皮鎧を纏い、足下も臑を覆うロングブーツを装着している。腰には細身であるが銀色の金属で花の模様 の装飾の施された刀身と、大降り巻貝が括り付けられている。貝は等間隔に穴が開けられていて、笛のように見える。背中には布の鞄と矢筒が担がれていた。
布の服と木の枝と比べるべくも無いほどに立派な装備を身につけている。
一人前の戦士といった風情の格好だ。
「そうねえ。あなたが良ければ、私が案内しましょうか?」
彼女は宙にやっていた視線をこちらに向け、小首をかしげたまま問うてきた。
「えっ、そんな。悪いですよ」
重ねての驚きに両手を振って首も横に振った。
「いいのよ。盛大に、笑わせてもらったし」
「それは笑われただけではないでしょうかね」
苦笑いすると、彼女は「そうかもね」と首をすくめてみせた。
「時間もちょうど余っているところなの」と断る理由を防いでみせたあと、それからほんの僅かに顔を不安げに曇らせて「それとも迷惑かな?」とダメ押ししてきた。
すこし不安げな美女の破壊力は、有無を言わせないものがあって、また、彼女が抱腹絶倒していた時とは違う理知の光がしっかりと宿っている事に気づいた。強く否定される理由がない限り、彼女のなかで案内することは決定しているようだと判断し、「……ご厚意に甘えさせていただきます」頭を下げた姿を「よろしい」と満足気に美女は頷いた。