【幕間・1】彼女の話
姉を抱き上げて馬車を降りたジークヴァルドの後を、ルルとロロが早足で追いかける。
レーヴィ家は地方に領地を持つ貴族だ。そのため、現伯爵である姉弟の父は王都ではなく領地にある本邸に暮らしている。社交の季節になれば王都に顔を出すこともあるが、そのたびに娘のライラをあの手この手で領地に連れ帰ろうとするので、ひとり立ちしたい姉は父の願いとは裏腹にすっかり王都別邸からすらも足が遠のいてしまった。
眠ってしまい意識がないとはいえ、ライラがこの屋敷に来るのも何カ月ぶりか。ひょっとしたら以前の訪問は一年以上前だったかもしれない。古参の使用人たちの浮かれようは、無表情ながらも足取りの軽いルルやロロを同じものだった。
ジークヴァルドにルルとロロ、それに使用人が幾人か。茶会も夜会も開くことのない伯爵家別邸に住む人数は多くなく、だからこそ、待ちに待った当主の娘の来訪に、使用人たちは誰もが皆、にこにこと歓迎の気持ちを前面に押し出している。
ジークヴァルドを追い抜いて、ルルが部屋のドアを開ける。一年に一度も帰って来ることがなくなった姉の自室が今もまだ完璧に整えられているのを見て、ジークヴァルドは小さく笑った。
「嬉しそうだね、ふたりとも」
「嬉しい。義姉さまが帰ってきたから」
「嬉しい。義姉さまと一緒にいられる」
「うんうん。だったらやっぱり、頑張らなきゃね?」
笑顔で。何かを念押しするようにそう言うジークヴァルドを、双子はじっと見上げる。
ふたりの間を通り過ぎて、ジークヴァルドは姉を寝台に下ろす。見下ろした先にあるのは、実に平和そうな姉の寝顔だ。
まとめ髪を解いてやれば、いくらか楽になったのだろう。寝顔がさらに気の抜けたものになった。
「あはは。間抜け面」
見れば見るほど、姉は家族の誰とも似ていない。
血の繋がりがないのだからそれも当然のことなのだが、少しの違和感を抱えつつも肉親であることを疑わなかった時期がある分、ジークヴァルドは不思議に思う。どうしてこんなに似ていないのに、自分はこの人を実姉だと信じ切っていたのかと。
レーヴィ家は歴代当主のほとんどが黒の髪と瞳を持っている。その例にもれず、ジークヴァルドもその父の髪と瞳は黒い。母は他家から嫁いできた人間のため茶褐色の髪と瞳をしているが、その父母の組み合わせで姉のような金茶の髪に緑の瞳の娘はまず生まれないだろうということくらい、今なら考えずともわかるというのに。
臆面もなく娘のことを「私の天使」などと言い切る――むしろ日常的に娘本人に呼び掛けている。ちなみに、妻のことは「奥さん」呼びだ――レーヴィ伯爵の可愛がりようを見れば、実子でないと思う方が難しかったのかもしれない。ジークヴァルドの母にしたところで、娘と息子で態度を変えるような人ではない。
だがそれでも、ジークヴァルドは思うのだ。
何故自分は、この人と血が繋がっていないのだろうかと。
「ジークは、義姉さまを傷つけない?」
「どうかなあ。死なせるか傷つけるかなら、傷つける方を選ぶけど」
「ヴァル、約束」
「大丈夫。覚えてるよ」
ルルとロロは互いに顔を見合わせる。
寝台に横たわるライラと、彼女を眺めるジークヴァルドと。血の繋がらない姉弟を見て、互いをもう一度見て、こくりと同時に頷いた。
「ジークを信じる」
「約束」
「うん、そうだったね」
ジークヴァルドは振り返らない。
側室とはいえ自身の妻であるはずの少女たちよりも姉に心を傾ける。その様を、ルルとロロは悔しくなど思わない。そうでなくては困るとすら思っている。
彼ら三人の関係を、ライラが「君たち夫婦のことがよくわからない」と言っていたのも何も不思議なことではない。夫婦だと思って見るから理解できないのだ。ただ、互いにとって都合の良い名前の関係が夫婦であったというだけのこと。
「でも、眠り香はやり過ぎだと思う」
「義姉さま、馬車に乗ってすぐぼーっとしてた」
「それは僕もびっくり。父さんのことだから、姉さんにも基本的な薬の耐性くらい付けさせてると思ってたんだけど」
これは後でこっぴどくどやされるなと、ジークヴァルドは嘆息した。離れて暮らす娘のことを心配し過ぎる父親は、娘に黙ってこっそりと日頃の様子を配下の人間に見守らせ、定期的に報告させているのだ。今回のことだとて、三日と経たずに把握してしまうに違いない。
思っていたよりもずっと姉に甘い父親を思い、ジークヴァルドは鬱陶しげに前髪を書きあげた。これは、少々予定を変更しなければならないらしい。
「眠り香でコレなら、痺れ薬とかもっとダメだよねえ」
「多分ダメ」
「絶対阻止」
「参ったなあ。弱すぎるよ、姉さん」
眠る人間に届くはずがないとわかっていても、愚痴らずにはいられない。
か弱いだとか病弱だとか、そういうわかりやすい弱さでないところが厄介だ。ごくありふれた一般人並みというのは、彼女ひとりだけを狙いたい時に調整が難しい。
「練り直し、かな。今度こそ、あの人に出し抜かれないようにしないと」
どうしたものか。思案しながら、姉の頬から髪をよけてやる。細くクセのつきやすい猫っ毛は、先ほどまで結わえられていたせいでうねるように波打っていた。
「アレはどこのオールドミスだ」
ようやく再会した旧友は、実につまらない、いや、ある意味ではとても面白い格好をしていた。
地味で質素を通り越して逆に奇抜にすら見えた、灰色の女官服。型が流行に左右されない、良く言えば普遍的な、悪く言えば野暮ったいものだったせいで周囲の注目を集めていたことに、あの娘はとんと気づいていないようだった。
加えて、髪をすべてまとめてひっ詰めたあの髪形だってそうだ。今時厳格な女教師ですらそんな髪型はしないと呆れればよいのか、相変わらず間違った方向に努力する旧友を笑えばいいのか。カミラは当然のように彼女を放置した。指摘してやる優しさは元より持ち合わせていない。
あれで威厳が出ると思っているのだから片腹痛い。聞けば、女学院で教師をしていた時からずっと、仕事の時だけあのスタイルを貫いているらしい。個人的な用事で街に出る時はもっとありふれた格好だと目撃証言も入っている。
対面する男は、カミラの言葉に肩をすくめるだけだ。打つ手なし、或るいは、わからない、だろうか。とにかく彼女の格好についてコメントする気はないようで、カミラは不満げに鼻を鳴らす。
ふたりの間には鉄製の武骨な格子が佇んでいる。地下独特のひんやりとした空気と湿った臭気。あまり味わいたいものではないが、ここに来なければこの男と言葉を交わすことはできないのだ。
「何か言ったらどうだ、ハイムダール。そもそも私とライラが疎遠になったのは、お前が原因だろう」
ハイムダール。
先ごろ起こした事件により投獄されて以来、爵位を剥奪されたかつての許婚を見るカミラの瞳には、何のわだかまりもないように見える。
事実、カミラはハイムダールに憎しみでも嫌悪でもなく、奇妙な親しみのような感情を抱いていた。
自身の死を望み幾度となく命を狙った相手だと理解していないわけではない。他でもないカミラが指揮した調査により余罪が明らかになる中、ハイムダールの殺意はカミラが生まれた二十年前からずっと変わらず彼女に向けられていたことがわかっている。
いくら相手が獄に繋がれ頑丈な柵が互いを隔てているとはいえ、自身を殺そうとした相手とふたりきりで話そうなどと正気の沙汰ではない。自身の親衛隊隊長であるディオンが顔を顰めて言うのを無視して地下牢まで下りてきたのは、文字通り話したいことがあったからだ。ライラのことを。
「私から引き離しただけで満足するなど、お前らしくないことだ」
そもそも何故、ハイムダールはライラの見られた時、口封じもせずにその場を離れたのだろうか。
彼女がもっと察しの悪い人間で、夜中に見知らぬ男がいたとカミラ自身に伝えていたらどうなっていたか。特徴を聞けばカミラならばすぐにそれがハイムダールだとわかっただろうし、さして親しいわけでもない許婚が何の用で夜中忍んできたのかと疑問に思ったはずだ。疑問をそのままにしておくほど悠長な性格ではない。調べれば今回より時間はかかっただろうが、同じようにハイムダールの抱える真実に行き当たったことだろう。
破滅への引き金を引きかねない少女を何故見逃したのか。その後もハイムダールからライラへの直接的な接触はなかったと聞く。たった一度、遠目に視線が交わっただけで口止めできたなど、カミラならば決して思えない。
死んで欲しかったわけではない。生きていてくれて良かったと思うし、間違っても排除されないように自分から離れて行ったのだと今ならばわかる。保身に走ったことを責めるつもりはカミラにはない。
わからないのは、ハイムダールが何故ライラだけを警戒し監視しつつも見逃したのかという、その一点のみだ。
まだ何かある。カミラはほとんど直感で、自身の暗殺未遂事件に端を発し、目の前の男を黒幕として引きずり出した一連の出来事に取り溢しがあったことを悟っていた。王位を望んだ愚か者の陰謀では終わらない、何かが。
カミラの視線を受け、壁を向いていたハイムダールの視線がついとカミラに向けられた。
無機質な視線。そこに感情などという人間らしいものは存在せず、それがカミラは昔からずっと苦手だった。今ならばわかる。あの瞳は、カミラを人間としてではなく、ひたすらに邪魔なモノとして見ているのだ。
そこに敵意はなく、好意もなく、ひたすらに淡々と、それが必要なことであるからと一種義務的な感情で僅かばかりの殺意が宿る。
カミラは苦笑した。
「私は、お前は何かに執着できない人間だと思っていたよ」
だから驚いた。自分を殺したいほど玉座に執着していたらしいことも、簡単に排除してしまうのを躊躇する相手がひとりでもいたことも。
人格者と言われていたのは、すべてがどうでも良かったからだと思っていた。こだわりがなければ誰にも寄らず中立であるだろうし、誰かともめ事を起こすことなどなかっただろうと。次期女王であり許婚でもある自分に興味の欠片も抱かない男。かといって他に囲う相手がいるわけでもなく、先代から引き継いだ自領の統治を粛々とこなし、王配に内定していたせいで内政に口出しできないよう文官職からは遠ざけられ、騎士団にも入れず、それを不満に思う様子もなかったから。
無欲で野心もなく、大胆さには欠けるが思慮深く冷静。これ以上ないほどの王配候補だと、そう思っていた。まるであつらえたように都合の良い男だと。
とんだ考え違いをしていたわけだ。カミラは唇を舌で湿らせた。
ライラのことだけだ。この半年、時間を作ってこの地下牢に通ったカミラが、ハイムダールから何かしらの反応を得られたのは。今日この日、今回が初めて。それまでは、カミラの前では身じろぎひとつしなかった男が、である。これは彼女にとって大きな収穫だった。
「ライラに会いたいか、ハイムダール。お前が私と、お前自身から遠ざけた女に」
見極めなければならない。カミラは瞬きひとつすら見逃さないよう、注意深くハイムダールを観察する。
不自然な人事。引きずり出された旧友。それに伴う各人の動き。また何かが始まろうとしている今だからこそ、終わったはずの事件に隠された「何か」を知る必要があると、カミラは感じていた。
事の中心はライラだ。だが、糸を引いている者は別にいる。操られていることを自覚している操り人形ほど滑稽なものはないというのに、ライラはカミラが差し伸べた手を取ることはしなかった。
何のためにディオンとふたりきりの時間など与えてやったと思っているのか。女学院時代は父親離れしなきゃと事あるごとに自身に言い聞かせていたことを思い出し、彼女の父親と同世代の騎士に懐柔させようとしたのに、ライラは愚か、ディオンすら思惑通りには動かなかった。何故あそこで話題がカミラのことを案じる内容になるのか。ライラが去った後、彼の背中に思わず蹴りを入れてしまうほどには腹立たしいことだった。
『あのお嬢ちゃんを心配する権利があんのは、俺じゃないでしょ』
困ったように言ったディオンの言葉は呆れるくらい最もで、だからこそ腹立たしい。カミラにだって、そんな権利はないのだから。
答えろ。カミラは言った。日中ライラを問い詰めた時よりも鋭く、容赦のない声音だった。
「ライラを遠ざけるようお前に忠告したのは、どこのどいつだ」