理由の話
しかし、どうしてディオンさんは騎士なのに紅茶を淹れ慣れているのだろうか。聞いてみると、「下っ端の仕事はどこでも一緒ってこと」とウィンクされた。
「騎士学校出身のお坊ちゃん方なんかひっでえの。ただの色つき水だったり、逆に渋過ぎて薬みたいになってたり。挙句自分とこの使用人呼び出して代わりにやらせようとする奴なんかもいて、毎年新人指導担当は頭抱えてんのよ」
「ディオンさんも始めは苦労されたのですか?」
「流石にお茶の淹れ方くらいは知ってたよ、俺は」
そういえば、とわたしはふと思い出した。王女様を王女様と知らず、男爵家のカミラだと思って過ごしていた時。始めの頃、彼女は一切茶器や調理道具には触れようとしなかったな、と。
女学院の寮の部屋ではもっぱらわたしが紅茶の用意をして、彼女がどこかから手に入れたお菓子を出してお茶を飲んでいた。考えてみれば当たり前のこと。王女様が自分で紅茶を淹れる機会なんてなかったのだろう。
幸いわたしはお茶を淹れるくらい苦にもならなかったから、結局卒業までずっと、部屋で紅茶を飲む時はわたしが淹れていた。間違っても彼女に淹れてもらおうなんてしなくてよかったと心から思う。薬並みに渋い紅茶なんてどんな罰ゲームだ。
「殿下はさあ」
手に持ったカップを弄びながら、ディオンさんが口を開く。
「俺なんかが言うのも何だけど、結構お嬢ちゃんのこと気に入ってんのよ。あの僕ちゃん将軍に対するのとは違う意味でね。で、四年間、連絡がつかないことをあの方なりに気にしてたわけ。ただ、素直じゃない方だからあんな言い方だけどさ」
「はい」
「あー……ほんと、こういうの俺のガラじゃないし。ヤダヤダ、年取ったのかねえ。絶対後で『余計なことをするな』って言われんだよ、俺」
多分、言われるんだろう。ちょっと想像してみれば、その光景は簡単に頭に浮かんだ。
それでも、ガラじゃないと頭をかきながら、ディオンさんは真っすぐにわたしを見る。
その瞳は、思わず気おくれしてしまうほど強い。
「何か理由があるなら、誤魔化さずにちゃんと話してやってほしいわけだ。お節介で悪いね」
「そう言うのなら、覚悟はできているんだろうな、ディオン」
扉が開く。
本人よりも先に声が室内に飛び込んできて、扉に向かい合うように立っていたディオンさんはへらりと笑って居住まいを正した。
「お聞きでしたか」
「よく言う。気づいていただろう」
王女様に続いて室内に入ってきたのは親衛隊の副隊長ラントさん。扉の向こうにちらっと見えるのは、他の親衛隊の人達だろうか?
「余計なこととわかっていて口を出すとはな。お前はいつからわたしの親になった」
「まさか。確かに殿下のことは畏れ多くもご幼少の砌から存じてますけど、娘のように思ったことなんて一度もありませんよ。これはただのお節介ってやつです」
「ふん」
鼻を鳴らして王女様はわたしの向かいの長椅子に腰を下ろした。
鎧はどこかで脱いできたらしい。ついでに着替えも済ませたようで、執務用らしい袖の詰まったタイプのドレスを着ている。髪は、変わらず下ろしたまま。女学院時代はいつもまとめていたので、まだ見慣れない。
……どうしようか。わたしはすっかり困ってしまって、正面の王女様を見た。
「ディオン、ラント」
「はいはい」
「失礼します」
二人が退室していく。
パタリと扉の閉まる音がしてしばらく。王女様は椅子の背に体を預け深いため息を吐いた。
「ハイムダールか」
「…………」
「その顔、図星だな」
ああ、もう。
どうしてわかってしまうのだろう。これでもわたし、女学院教師時代に結構ポーカーフェイスを身に付けたはずなのに。
その名前が彼女の口から出たということは、もうほとんどわかってしまっているのだろう。わたしがどうして音信不通になったのか。
わたしは言い訳なんてしたくないのだ。そんなみっともないこと。自分が大したことのない人間だということはよくわかってる。なのにプライドだけ無駄に高くて見栄っ張り。四年間一緒に過ごしたルームメイトが王女様だって知らされて、怖気づいて逃げ出した小娘のままでいたい。これ以上、わたしを情けない人間にさせないで。
懇願するように王女様を見るけれど、当然彼女は許してくれなかった。
一度瞑目して、再び開いた瞳は強い。ディオンさんのそれなんて、比じゃないほど。多分そう思う理由には、わたしの罪悪感なんてものが多大に影響しているのだろうけれど。
「全て話せ。何も隠すな。これは命令だ、ライラ・アーヴィング」
半年前、王女様の命を狙った事件があった。
始まりは彼女の食事に混入されていた毒物。遅効性のものだったのか、厨房にいた毒見役のひとりが倒れた時には、すでに問題の料理は王女様のところに運ばれてしまっていた。
毒見役が倒れた時に居合わせたアレク君は即座に事態を悟り、極刑覚悟で王女様の私室に乱入。親衛隊の騎士達が押しとどめようとするのに怒鳴り返し、王女様の前までたどり着いた時には、もう毒見役の侍女は毒入りの料理を口にしてしまっていた。
最初の事件で命を落としたのは、三人。王女様の食事の毒見役全員だ。王室研究塔の調査の結果、毒物は食前酒のグラスから検出された。当然、厨房関係者はすぐに第一騎士団の厳重な監視下に置かれ、毒物を混入した犯人とその背後にいる黒幕の捜査が行われた。
その捜査の過程で活躍したのが、第一騎士団ではなく第二兵団に所属するアレク君。彼は騎士団とは別に独自に捜査を進めようとしていた王女様に無理矢理協力させられ、自身の伝手を使って誰よりも先に黒幕へと辿りついた。
ハイムダール・フォン・ゲルトハルト。国内貴族で二家しか持たない「公爵」の称号を持ち、現王妃とは従姉弟の関係にある傍系の王族。臣籍に下った現王の異母兄が事実上王位継承権を放棄している今、王女様に次ぐ継承権を持つ男であり、同時に――王女様の、許婚でもあった人。
ゲルトハルト公爵は温厚な人柄で人望を集めていたはずだった。王妃の従弟という立場を利用することもなく、次期王配としては理想的な男だと。そう誰もが、王女様でさえ思っていた。その公爵が、許婚でもあり次期女王でもある王女様の殺害を企んだ。それは重大過ぎるスキャンダルだった。
更迭までに三カ月。ゲルトハルト公爵家は爵位剥奪が命じられ、元公爵となったハイムダール卿は今もまだ牢獄にいる。いずれ極刑が申し渡されるだろうと言われているけれど、それがいつになるのかは、恐らく現王しか知らない。
ゲルトハルト元公爵の事件で取り沙汰されるのはもっぱらアレク君の活躍と元公爵の裏の顔、許婚の王女様を殺害してまで望んだ玉座への執着心ばかりだけれど、彼を追いつめたのが本当はアレク君の協力を得た王女様だということは、誰もがわかっていて見ないフリをしている。
わたしが知っている「カミラ」なら、とわたしは世間で流れている噂を耳にしながら考えたことがある。わたしの知る「カミラ」という少女なら、きっと誰よりも許婚の所業を知ろうとしただろうと。彼が今まで何を考え、どんなことをしてきたのか。自分の知らないところで何が行われてきたのかを。
だから、わたしは会いたくなかった。
「言葉を交わしたことは、一度もありませんでした」
思い出す。そう、あの日は雪がチラついていた。
季節外れの風花。翌日に卒業式を控えているというのにルームメイトの落とした爆弾に眠気は吹き飛び、だというのに投下した本人はすっかり寝息をたてているという状況。わたしはこっそりと部屋を出て女学院の寮にある中庭に下りた。
春が近づいていた。この国では駆け足で過ぎてしまう季節。舞う雪が桜の花びらに見えて、わたしはらしくもない感傷に浸っていた。
桜は日本人の心だって、その時まではそう意識したことはなかったのに、もう見ることができないと自覚するともうダメだ。とっくに割り切っていたはずの感情に襲われて、わたしはその時、ひどく無防備で自暴自棄な気分になっていた。
誰かが近くにいることはなんとなくわかっていた。隠すつもりのない気配。普段だったら見咎めるか、もしくは見つからないように隠れるかするのだけれど、その時のわたしはどうにでもなれと思って何もしなかった。放っておいたのだ。
だけど、その誰かが近づいて来て、あろうことか寮の方へと向かっているのに気づいた時は流石に慌てた。だって、その人はどう見ても男の人だったのだ。
夜の女学院、それも寮に忍んで来る見知らぬ異性。誰かの逢引相手だろうと見て見ぬふりをするのが正解だとわかってはいた。女学院の敷地内に入れたということは、門番は彼を通したのである。一生徒に過ぎないわたしには、彼を追い返す権利などない。
頭ではわかってはいたのだけれど、その時わたしの意識に引っかかったのは王女様だったルームメイトのことだった。
通しちゃいけない。それはほとんど直感だった。わたし達の部屋がある棟には他にも幾つか部屋がある。そのどれかにいる恋人に会いに来たのかもしれない人より先に寮の扉をくぐり、急いで鍵をかけた。それでも不安だったから、いつもはかかっていない鍵も二重、三重に。
今でもその時のことを思い出すと心臓が五月蠅くなる。扉を閉めるために振り向いた一瞬。その「誰か」の瞳はぞっとするほど冷静にわたしを観察していた。
けど、本当の恐怖はそれじゃない。明けて翌日。寝不足の頭を横殴りされたような衝撃は、来賓席に並ぶ顔を見た時。
ハイムダール・フォン・ゲルトハルト。彼は一段高いところからわたしを見つけ、つ、と僅かに瞳を細めた。
言ってしまえばそれだけのこと。でも、わたしはゲルトハルト卿に「見つけられてしまった」ことで、すっかり竦み上がってしまった。
視線だけで、ゲルトハルト卿はわたしを脅した。列席していたお父さん達に向けられた一瞥の意味を想像して、「カミラ」から離れた場所に座るわたしを視線で捉えたことを偶然だと思えなくて。臆病なわたしは、王女様に戻った「カミラ」から逃げるように連絡を絶った。
「ハイムダールはお前にしばらく監視をつけていたらしい。記録が奴の屋敷に残っていたよ」
「そうですか」
想像通り、ということだろう。今更ながら手が震えてきて、それを誤魔化すようにぎゅっと強く拳を握る。
もし彼の視線の意味をわたしが察していなかったらと考えると恐ろしい。ゲルトハルト卿が密かに闇に葬った人間は少なくないらしいから、今こうしてこの場にいられることはほとんど奇跡のようなものだろう。
「ルームメイトのわたしが殿下を王女だと知り殺害、というシナリオだったのでしょうか」
「大筋はそんなところだろう。お前の養父はハイムダールが王配になることに批判的な貴族のひとりだった。かと言って親王派というわけでもなく、どちらかといえば宗主国である帝国との繋がりが強い。どうとでも話は作れる。……そう考えると、お前は私の命の恩人ということになるな」
「まさか」
「事実だけを拾えばそうだ。ハイムダールもお前を警戒していたようだしな」
警戒? それこそまさかだろう。無言の脅しに屈して尻尾を巻いて逃げだした小娘の、いったい何を警戒していたというのか。
眉を寄せるわたしに、王女様は呆れた表情になった。そして、頭痛を堪えるようにこめかみに手を添える。
「ライラ。お前は相変わらず自己評価が低い。それはおおむね事実だが、たまには自分が過大評価されることもあるのだと理解した方がいい」
「わたしは今褒められたんでしょうか。貶されたんでしょうか」
「つい先日までお前を過大評価する筆頭に求婚されておいて何を抜け抜けと」
「どうしてそれをご存知なんですか」
自慢じゃないが、わたしは求婚されたことなんて今まで一度しかない。教師を辞めざるを得なくなった、理事長からのものだけ。
わたしが断ったことと、家を通してではなく個人的に伝えられた申し込みだったから、知ってるのは身内だけだと思っていたのに!
どうしてもなにも、と王女様は怪訝な顔をした。むしろどうしてわたしが「ご存知じゃない」のか理解できない、という表情だ。
「聖女殿が嬉々として触れまわっていたぞ。いけ好かないソルヴェールがアーヴィング補佐官に求婚して振られたと」
ええと、ソルヴェールというのは理事長の名前で、彼の本名はユリウス・フォン・ソルヴェール。お父さんと同じ伯爵位を持つ正真正銘の貴族で、確か神官と学者を多く輩出してるとか何とか……その繋がりで聖女様とも知り合いだったのかな。
だけど、これはひどい。わたしは最早無表情を取り繕うこともできず、頭を抱えた。なんてこと。
「よかったな、箔がついたぞ。あのソルヴェールを振った女として社交界でも注目の的だ」
「……わかってて言ってますね、殿下……」
「そうだな。これでまた婚期が遅れたな」
ソルヴェールを振った女に来る縁談はほとんどあるまい、と王女様が笑う。実に楽しそうな笑顔だった。
……言っておくけど、そう言う王女様だって婚期逃してるんですからね! この国の常識で言うと!
結婚適齢期は成人として認められる十六歳から二十三歳までの間。とは言うものの、大体皆十八歳までに結婚しているし、少なくとも特定の相手がいるのが普通。現在二十歳で婚約者どころか恋人すらもいないわたしは、そろそろ嫁き遅れへの道が見え始めている辺り。当然、同い年の王女様だって同じだ。
世知辛い世の中である。ついでに側室を二人も抱えている弟のことや八人もの異性から想いを寄せられているアレク君のことを考えちゃったりすると、これが格差社会かと暗澹たる気持ちになる。国全体で見れば、特に男女比率に偏りはないはずなのに。
「どうしても相手が見つからなければ、私が政略結婚させてやろう。そうだな、それこそソルヴェールにしておけばアイツに恩を売ることもできる。一石二鳥だ」
「何故」
「お前にはいずれ産む子の乳母になってもらうつもりだからな。流石に未婚の母はまずいだろう」
「謹んでご遠慮申し上げます」
そんな理由で結婚してたまるもんですか!