閑話・嘘をつくならこんな風に
梅雨入り前の書下ろし短編。時系列的には1章直前くらいになります。
ユリウス・フォン・ソルヴェールは迷っていた。彼女の心をつかむのはどちらの高級菓子だろうと。
生来、ユリウスは迷いや葛藤、苦悩といった感情とは無縁である。常人よりも恵まれた家柄、頭脳、身体能力に加え、努力を苦にせず人を妬まず、古の英雄とはきっとこのような人間であったに違いないと、厳格で知られる彼の祖母をして感嘆せしめるほどであったからだ。
一方、ユリウス本人は、自分がいわゆる特別な人間だと思ったことは一度もない。身内の評価というものは古今東西甘くなりがちなものである。長じて後は世間の評価というものも耳に入ってくるようにはなったが、これまた真偽不明な噂話を基に下された評価というものは笑い話になりこそすれ、真剣に耳を傾けるようなものではないのだから。
そんな彼にとって、世の中というものは至極単純にできている。なすべきことをなせば相応の結果が返ってくる、数式のようなものだ。もちろん、個々人の能力差だとか自然の摂理、天命のようなものがあるとはわかっている。わかっているのだが、それらも含めすべての事象が、彼にとっては予想可能なことであったし、多少なり困難な状況というものもあっても、手順が見えているのだからその通りにするだけだと、まあそういった具合なのである。
だが当然、彼のようにはできない人々から向けられる感情は好悪どちらもあって、それもまたユリウスにとっては意外なことでもない。人間というものはそういうものであると、好悪も愛憎もとりたてて気にかけることはなかった。
その在り方を見て、ある友人などはだからお前が嫌いなんだと苦虫を嚙み潰したような顔をしたこともある。そうは言いつつ言葉に棘はなく、嫌いと言いつつこんな年齢まで付き合いが続いているのだから、彼の友人は少しばかりひねくれもので素直でないだけなのだ。
とはいえ、人を愛したことがない、などと言うつもりもユリウスにはない。三十を超えた成人男子、それなりの男女交際というものは経験済みであり、結果として別れを選んでこそいても、ひとりひとりに誠実に向き合って来たつもりである。
ではなぜ、貴族男子の結婚適齢期を過ぎかけた今になってもまだ独身であるのかといえば、それはきっと、彼女たちに恋をしていなかったからなのだと、今のユリウスにはわかっていた。
恋は落ちるものとはよく言ったもので、ユリウスも今ではどっぷり、頭すら見えないほどにその甘美でありながら悩ましく、狂おしい底なし沼にはまり込んでいる。
「彼女は意外と子ども舌なところもあるからな……」
立派な淑女に贈るにはいささか可愛らしすぎるだろうかと、選択肢から除外しようとした包みにもう一度目を向ける。
ユリウスの恋する彼女は控えめと言えば聞こえのいい、貧乏性なところがあって、彼がよかれと思って選んだ贈り物の高価さに卒倒しかける、なんてことが何度かあったのだ。
想い人への贈り物を選ぶのに、金に糸目を付けないことは彼にとって当然のことではあるのだが、価値観の違いは夫婦にとって最重要問題になり得ると聞く。ここは歩み寄るにやぶさかではないユリウスである。
(子どもの誕生日にもプレゼントを山ほど抱えて帰って、買いすぎだと怒られるのだろうな)
腰に手を当て、精いっぱい威厳を示そうと見上げてくるライラの姿を想像すれば、自然と唇が緩む。
もっとも、彼女にはどこか抜けたところもあって、贈り物が食べ物であれば、さほど頓着せず喜んでくれるのだ。たとえそれが、同じ重さの金と取引されるような高級菓子であったとしても。
以前、何かの折にお茶請けとして出したチョコレートを、ライラはとても気に入ったようだった。あの時ばかりは普段の遠慮も鳴りを潜め、綺麗に全て完食していたのだから間違いない。
(おそらく、ライラは食を一番重視しているのだろうな)
まさかその価値を理解していないから、などという単純で残念な理由があるとは思わず、ユリウスは考える。衣服や美容、宝飾にこだわるのと同じことだ、と。
「このリボンは別の色に変えられるだろうか」
「ええ、もちろんです。どのような色がお好みですか?」
「青……いや、青と緑の二色を」
「かしこまりました」
言って、店員が奥からそれぞれの色をいくつか持ってくる。
下手な宝飾品よりも高価な菓子を扱う店だけに、贈答目的の客が多いのだろう。微妙に色の違う包装を取り揃えている心配り。やはりこの店にして正解だったとユリウスは頷く。
手元の明かりに照らして何度も色を吟味し、一番近い色を選ぶのも楽しいものだ。
青と緑、それぞれこれだと思う色を示せば、あっという間に金の印字が施された黒い箱が華やかに彩られた。
支払いを済ませ、店を出れば春雨が降っている。
これは辻馬車でも拾ったほうが良いかと思案したところで、通りの向こう、傘をさして歩く想い人の背中を見つけ、自然、笑顔になった。
杖で石畳を叩く。雨散らしの魔術をまとわせて、大股に通りを下ればすぐに彼女に追いついた。
「こんばんは、ライラ!」
「うひい!?」
驚かせないよう、きちんと正面に回り込んで声をかければ、思いがけず素っ頓狂な声が愛しい人からこぼれでた。
珍しい高さの声に、彼女自身、重ねて驚いたのだろう。サッと羞恥で赤くなった頬を見て、ユリウスはああ、とひそかに感嘆の息を吐く。
潤んだ瞳、常に困ったように下がっている眉尻、何か言いたげに薄く開いた唇。
そのどれもが、ユリウスの記憶を刺激する。初めて彼女と視線が交わった時の密やかな衝撃を、何度でも思い起こさせるのだ。
「あ、なん、り、理事長?」
「買い物帰りかな? もしまだ今日最後の食事を決めかねているなら、私と一緒にディナーでもどうだい?」
彼女が動揺している内に、するりと傘を奪い取る。
指を弾いて彼女にも雨散らしの魔術をかけはしたけれど、 魔力こそあれ、そのほとんどを護衛の自動人形に食わせているライラは気づかない。
自分の傘をごく自然に奪い取っていったユリウスを見上げ、慌てて返してほしいと言うライラだが、当然そこで大人しく従うようなユリウスではない。なぜなら魔術をかけた直後、相合傘というのも良いなと思い直したからだ。
「実は昨夜からじっくり煮込んだビーフシチューがあってね。ちょうど今夜辺りが食べごろだと思うんだが」
「ひと晩寝かせたビーフシチュー……!?」
「パンなら、ああほら。そこの店がお気に入りだったろう? 買って帰ろう、時間はあるかな」
「くっ……今さら聞いても無駄な気はするんですけど、どうしてお伝えした覚えのない私の好物を的確に当ててくるんですかね……っ」
「ははは」
もちろん、協力者がいるからである。これでもユリウスはそこそこ人好きのする青年貴族であるので。
やたらと吹聴して歩くつもりはないが、ユリウスはライラへの想いを隠したことはない。そうして堂々としていれば、親切な人々がアレコレとユリウスにライラのことを教えに来てくれるのだ。
もちろん、ユリウスは異性に関心を寄せられることが珍しくもない青年なので、誹謗中傷めいた忠言やトンデモな噂をさも真実めかして吹き込もうとする人間も多い。だが、彼女のことを知っていればすぐにデタラメだとわかる程度の粗雑な作り話ばかりで、ついつい吹き出してしまっては笑ってはねつけるのが常である。
(最近のは、何だったか。そう、義父と義弟どちらともねんごろな仲だという噂だったかな)
喜劇めいた彼女とその義父、義弟たちとのやり取りを思い出す。必死なのは彼女だけで、まあいずれ帰ってくることになるんだからと鷹揚に構えるふたり。彼女と過ごした歳月の長さがその自信を裏打ちしているのだろう。狐の追い込み猟に見えたのもあながち間違いではないのだろうが。
もちろん、ユリウスはライラがいずれひとり暮らしを止めるなら、ぜひ自分とふたり暮らしをしようと誘うつもりだ。そのために使用人を誰も置かない別邸を王都に購入したのだから。
「さあ行こう。ちょうどライラのためにチョコレートを買ったところなんだ」
「デザートまで用意してるとか作為を感じざるを得ないのですが」
「もちろん、偶然だとも」
ひょっとすると運命の女神が全力で応援してくれているのかもしれないけれど、と。
片目を瞑ってみせればうへえと嫌そうに顔を歪ませたライラが本当に可愛くて、ユリウスは弾けるような笑い声を上げたのだった。
「はああぁ~……ブランデーとチョコレートとか魅惑の組み合わせだよね……おいひぃ……」
「ふにゃ……むが……」
「……それでうっかり理事長が下戸だってこと忘れて酔いつぶしちゃったような気がするけど、たぶんこれは気のせいだから私は無罪、だいじょうぶだいじょうぶ」
「ふふ……ライラ……」
「…………いやいやこわっ。え、なに、夢の中に私出演させてるとかやめてクダサイなんかいや。すごくいやとてもいや」
「……すー……すー……」
「はあ……寝顔だけなら、好みなんだけ、……いやまて私、早まるな私正気に戻って酔っ払いの戯言はリターンしないのよプレイバック!」




