演習と紅茶
こういう形式の演習は、もう皆さん慣れたものらしい。親衛隊と中隊、それぞれの任務成功条件――親衛隊の人たちはわたしを訓練場の東側入り口から外に出すこと、中隊の人たちはその反対の西側入り口から外に出すこと、だそうだ――がアレク君から確認された後は、きびきびと持ち場についてしまった。
「まあ、適度に緊張して、適度にぼーっとしといてくれればいいから」
ディオンさんがそんな難しいことを言う。彼はどうやら親衛隊の隊長らしく、王女様役をやるわたしの一番近くにいてわたしを誘導したり全体を見て指示を飛ばす係なんだそうだ。
演習に当たって、わたしは親衛隊の騎士達にとっては護衛対象の王女様の代わりだけど、中隊の兵士達にとっては救出対象なんだとか。謎の集団に攫われた被害者役って……なんでそっち側だけ設定が若干ドラマチックなんだろうか。
とにかくそんなわけで、わたしは親衛隊の人達に協力的でもいけないし、もちろん中隊の人達寄りの行動もしてはいけないという、手っ取り早く言えば「何もするな」状態なわけで。もうこれいっそのこと等身大の人形か何か使えばそれで十分な気がする。わたしが引っ張り出された意味っていったい。
審判役には親衛隊と中隊からそれぞれひとりずつ。開始の合図は審判役が投げたコインが地面に落ちた瞬間。
コインが弾かれる。誰かが息を呑む音がはっきりと聞こえるくらいしんと静まり返った訓練場は、軽やかな金属音の後、一瞬で雑多で騒々しい剣戟と大声に塗り替えられる。
護衛対象であるわたしからは、親衛隊の騎士達の背中しか見えない。だから状況はよくわからないけれど、中隊の兵士達と思しき掛け声が、一方向ではなく多方向から聞こえてくるのには気がついた。
ひとり、視界を埋めていた背中が消える。かと思えばディオンさんに移動させられて、そこからはもう、立ち止まっている時がないくらいあっちこっちへ動かされた。
「隊長、左です!」
「わあってるよ!」
「ロッグ、回り込め! ヘイダール、ジョシュアに加勢しろ!」
「突出するな、アレク!」
王女様の声。反射的にそちらを向いたのと、ディオンさんが誰かの剣を受け止めたのはほとんど同時だった。
「やあっぱりお前が来たか。アレックス将軍閣下」
「俺の部下じゃあ、アンタの相手はまだ荷が重いから、な!」
「おっと」
アレク君が剣を振り抜く。
ディオンさんはうまく受け流したようで、体勢が崩れるようなこともなく、ふたりはそのまま互いを牽制しつつ何合か打ち合った。
「お嬢ちゃんは任せたぞ、ラント!」
「了解、隊長」
頭のすぐ上で、また別の人の声。それが誰なのか確認する間もなく、すぐにまたわたしは親衛隊と中隊の人達が入り乱れる波に飲み込まれていく。
開始からもうどれだけ経ったのか。今自分がどこにいるのか。確かめようにも周囲にいるのはわたしより背が高い人ばかりで、忙しなく変化し続ける視界に頭がだんだんぼーっとしてきた。うまく思考が回らない。
多分、今のわたしは川面を流れる落ち葉よりもふらふらして頼りないんだろう。あっちへこっちへ、わたしを誘導する人が親衛隊の人なのか中隊の人なのかすらわからなくなってきた。
充満するのは独特の熱気だ。たかが演習、されど演習。皆が真剣に取り組んでいるのはいいことなんだろうけど、ちょっとばかし、頭ひとつ分小さいわたしのことも考えてほしいと思うのは贅沢なことだろうか。
胸が苦しい。息が、うまくできない。目尻に浮かんだ涙を慌てて拭いた。酸素が、薄い。
ぐらりとひと際強く眩暈が襲ってきてたたらを踏んだ。誰かの腕がわたしのお腹に回って、ひょい、とその場から引っ張り出されたのはその時だった。
「お嬢ちゃん、大丈夫か!?」
「あ……」
ガーン!! 銅鑼が鳴った。終了の合図だ。
バラバラと皆が手にしていた模擬剣をしまっていくのが視界の端に写る。けど、でも、ちょっと待って。ちょっと今顔を上げたら、淑女としてあるまじき失態を犯す予感がひしひしと……!
喉の奥からもうすぐそこまでこみ上げているのが何かなんて考えるまでもない。強い眩暈に吐き気とくれば、貧血か熱中症か……いやいや、そんなこと考えてる場合でもなくて!
誰かがわたしの顔を覗きこむ気配がした。異変を感じたんだろう。近くにいた何人かが「どうした」「怪我を」と口々に心配そうに尋ねてくれるけれど、今口を開いたら大惨事になる。
俯いて口を押さえるわたしをどう思ったのか。「まずそうだな」とディオンさん――どうやらさっき覗きこんできたのもディオンさんみたいだ――が言い、「殿下!」と王女様を呼ぶ。
「大声を出すな。ライラ、喋れるか?」
無理です。答える代わりに首を横に振る。
王女様の軍靴が視界に入り込んできて、かと思えば今度は王女様の麗しの顔がドアップになった。ひそめられた眉さえも色っぽい、まさにド迫力の美貌に思わずのけぞると、その眉がピクリと動く。
「顔が悪い。少し休ませるか」
「殿下、殿下。そこは『顔』じゃなくて『顔色』でしょうよ」
「どちらも悪い」
「ひどっ」
軽口を叩くのは、ともすればどんよりしつつあるこの場の雰囲気を軽くするためか。
ディオンさんの手が、労わるように背中に添えられる。
これがアレク君のような若い、もしくはわたしと年齢の近い相手だったならば緊張して余計気分が悪くなったんだろうけど、ディオンさんほど年齢の離れた男性だとあまり警戒心も湧かない。多分、お父さんと同年代ってことも影響してるんだろう。ついさっきが初対面だったのに、我ながら単純なものである。
「殿下。それなら俺が運びます」
「アレクが?」
「ライラさんは俺の補佐官ですから」
はい、そこ! アレク君! しれっと言ってるけど、補佐官の次にかっこ仮かっこ閉じ、って付けるのを忘れてるからね!
ふむ、という王女様の短い相槌が怖い。あああ、忘れてたけど、王女様、アレク君のハーレムの一員だったよ……! いや別に実際に彼がハーレム作ってるとかじゃなくて、単純にアレク君に好意を寄せてる美女美少女軍団の一員っていう意味だけど。でも、ここでわたしがアレク君に運んでもらうのは、嫉妬の対象まっしぐらな予感しかしない。
もちろん、王女様がこんなことでわたしに嫉妬を覚えるような人じゃないのは知ってる。伊達に四年間ルームメイトをしていたわけじゃない。でもそういう理性とかが通用しないのが色恋沙汰でもあるし、何よりわたしが怖いのは、運んでもらってる移動中に他のハーレム要員に出くわす或いは目撃されることだ。
ここは無理にでも自分で歩くと主張せねばとすぐそこまで上がってきてるものと必死に格闘していると、予想外のところから「それには及びませんよ」と助け舟が来た。ディオンさんだ。
「お嬢ちゃん、じゃない、補佐官殿がこうなったのは、俺が考え無しに引っ張り回したせいですからね。俺が責任もって介抱します」
「隊長、下心が透けて見えています」
「どうしてそこでお前が茶々入れるかな、ラント」
淡々とした指摘に、ディオンさんの声が心なしか憮然としたものになる。いや、これは憮然というより、拗ねていると言った方が良いかもしれない。
対するラントという人はやはり淡々とした声で、「副隊長として、隊長の犯罪を未然に防ぐのも務めかと」だなどと答えるものだから、それに後押しされるようにアレク君も遠慮がちに口を出した。
「マーベル隊長のことは尊敬してますけど、女性関係ではちょっと信頼度が低いんで……」
「殊勝な態度で言っても内容的には相当ひどいからね、アレックス将軍。俺は自分の娘でもおかしくないような年齢のお嬢ちゃんに手を出すほど困ってません」
「そういうところが信頼感に欠けるのだと思いますが」
「お前は黙ってろ、ラント」
……うえっぷ。ちょっともう、そんなくだらない漫才会話とか正直どうでも良いんで、早くどこか座れるところまで移動させてくれないだろうか……。結構ギリギリなんだけど、今。
放っておけばいつまででも続きそうな彼らの会話をぶった切ったのは、やはりというか王女様だった。
しかもひと言。「まあ、ディオンでいいだろう」。これだけでぴたりと三人が言い合いをやめるのだから凄い。
「うええ!? 正気ですか、殿下」
「お前は心底失礼だな、アレックス将軍。俺を何だと思ってるんだ」
それはわたしも聞きたい。アレク君にここまで言われるほどディオンさんて女性関係荒れてるの?
「いや、俺ライラさんのことジーク……ヴァルド政務官に『くれぐれもよろしく』って脅さ、いや、頼まれてるんで」
「ふーん」
あ、と思った。ディオンさんの声。気のせいじゃなければ、すうっと温度がなくなった。
ラントさんの声とはまた違う温度のなさ。無感情な声。たったひと言、それこそ言葉にすらなっていない、音のようなものだったのに、アレク君は続く言葉をなくしてしまう。
すっとディオンさんが膝を曲げた。
背中にあった手はそのまま。もう片方の手がわたしの膝を掬い上げて、横抱きの状態でわたしを抱える。そして、そのまますたすたと歩き始めた。もう、それを止める人はいない。
するとその背中に、王女様の声が投げられた。
「私の執務室に連れて行け。私が戻る前に回復しても、絶対に外には出すなよ。ソレには言いたいことがたっぷりあるんだ」
「承知しました」
(え)
あれ、え、もしかして……詰んだ?
「もう大丈夫か?」
「はい。お騒がせして申し訳ありません」
連れて来られたのは宣言通り、王女様の執務室だった。
部屋は主を表すとは言うけれど、実に王女様らしい、質実剛健を絵に描いたような内装だった。一国の王女が使う部屋にしては飾り気のない厳格ささえ感じられる部屋。でも、国政を担う王族の執務室としては相応しい。
整えられた机上に置かれた使いこまれた万年筆を見て目を細めたわたしに、ディオンさんは紅茶の入ったカップを手渡してくれた。
「本当はこういうの、侍女がやるもんなんだけどな」
「ありがとうございます」
王女様に侍女はいない。噂程度に聞いていたことだけれど、こうして実際に目の当たりにすると複雑な気持ちになる。
現王唯一の子どもである王女様の暗殺未遂事件があったのは半年前のこと。これを最近と取るか以前のことと取るかは人によるけれど、王女様の侍女は、その事件の時に全員がいなくなってしまった。
ひとりは、毒見役だったために王女様を狙った毒で。もうひとりは暗殺者の凶刃に倒れて。残るふたりは犯人側の人間だったことが明らかになって極刑に。アレク君が将軍位に引き上げられたきっかけともなった事件だということは、この事件のこともゲームのシナリオに含まれていたんだろうか?
がらんとした室内は寒々しい。機密も扱うことのある執務室には、侍女よりも下の身分になるメイド達は立ち入れない。護衛の騎士と王女様だけの部屋は、いっそう侍女の不在を意識させるだろう。
「改まって名乗るのも気恥ずかしいが、ディオン・マーベルだ。王女殿下の親衛隊で隊長を務めてる」
「ライラ・アーヴィングです。このひと月、アレックス将軍閣下の補佐官を勤めさせていただきます」
「ああ、話は聞いてる。『お試し』なんだろう?」
……ううん、含むものを感じさせる問いである。
僅かに歪んだ瞳は面白がるもの。わたしの現状か、アレク君のそれかはわからないけれど、興味を持っていることは確かなんだろう。悪意は感じられない。
「お嬢ちゃん、殿下のルームメイトだったんだってな。で、お試し補佐官になる前は母校でもある女学院で教師をしてた」
「はい」
「よくわからないんだが、女学院ってのはどんなところなんだ? 卒業してまでも残りたいと思うような場所か?」
わたしは、意識してゆっくりと瞬いた。そうですね、と意識を思い出に向ける。
「良し悪しを考えたことはないのでわからないのですが、教師として女学院に残ったのは、それが一番良い選択だと考えたからです」
「良い選択」
「早く自立しなければと思っていたので」
一定の教育を受けた女性にとって、仕事の場というものは本当に少ない。
平民と呼ばれる人たちにとっては女性が働くことは当たり前でも、貴族はもちろん、裕福な商人たちの間でも、女性が働くのは一家が困窮した末の最後の手段だとみなされるのがほとんどだ。当然、手に職をもって自立しますなんて女性はほとんどいない。いたとすれば、それは天涯孤独の身の上で財産を持たない女性くらいだ。
ところが、何にでも例外というのはあるもので、高度な専門知識が必要となる研究職や文官、それに王族女性警護を担う女性騎士など、一部の上級職に就くことはむしろ名誉とみなされるのだ。子どもの養育に長けると認められたということで、淑女としての最高峰が王族の乳母だったりもする。
だけどまあ、生憎そういう上級職に就けるほどわたしの能力は高くなかった。乳母なんてそもそも結婚してない子どももいない状態で務まるわけもないし。そんなわたしにとって、女学院の教師という仕事は養い親であるお父さんの評判も傷つけずに済むぎりぎりの職業だったのだ。
自立ねえ、とディオンさんはなんとも言えない表情をしている。苦々しげというには棘が足りず、少しだけ気まずそうに頬をかいて。
「そういうところが、殿下と気が合ったのかねえ」
「気が……合ったのでしょうか」
「え。仲良かったんでしょ、殿下と」
「……仲、良かったんでしょうか……」
思い返してみても、王女様が無自覚で振りまくトラブルに巻き込まれていた記憶しかない。無駄に気位の高いちょっと傲慢に育ち過ぎちゃったお嬢様方に目の敵にされたり、その報復にそのお嬢様方の弱みを次々握る手伝いをさせられたり、学院内で起こる揉め事を時に正面から、時に搦め手で解決に導くお手伝いを(強制的に)させられたりした青春の日々。泣いてなんかない。
はっきり言って、前世の記憶があるとかそんな経験値まったく意味をなさなかった。お貴族怖い。王族もっと怖い。あの謎の情報源はこれから先何があっても追求なんてしないとあの日心に誓ったのだ。多分今も王女様はあの時作成した閻魔帳を更新し続けているんだろう。ありとあらゆる人間のデータがいろいろ詰まった、まさに閻魔帳としか呼びようのない呪いのノートは確か女学院卒業時点で第五冊目に入っていた。あれから四年間で一体何冊目に突入したんだろうかとかどんなに気になっても絶対聞いちゃいけない。聞いた瞬間に後悔する自信がある。
遠い目をするわたしに、ディオンさんが「紅茶もう一杯いる?」と声をかけてくれた。気を遣わせてすみません。