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王道斜め38度  作者: 北海
第一章:始まり

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24/43

【幕間・3】アルカディアの裏側で

 ユリウス・フォン・ソルヴェールが馴染みの酒場に顔を出すと、先に来ていた友人が手を上げて彼を呼んだ。

 久しぶりに飲もうかという話になったのはその日の昼過ぎのこと。幾らでも時間の融通が利くユリウスとは違い、上司と部下双方の都合に左右され易い友人にしてはずいぶんと早い到着である。意外さに瞬いて、感じたままに「早いな」とこぼして席につく。

 すぐにカウンター越しに渡されたのは、よく冷えた果実水と肴代わりのナッツ数粒。入口の木戸をくぐった時に既に用意を始めていたらしく、いつも必ず注文する幾つかの酒肴もすぐに出せるということだった。

 王都にある酒場は大きく分けて二種類ある。食事のついでに酒を楽しむところか、酒を飲みながら他の娯楽――カード、サイコロ、女、煙草など――を楽しめる場所。ユリウスはそもそも友人と語らうのを好んで酒場に行っているようなもので、ある程度きちんとした料理が出てくる酒場に足を向けることが多かった。もちろん、いい年齢をした男でもあるので、健全とは言い難い方の酒場に向かうこともある。だが往々にしてそういった酒場では友とゆっくり話もできないのが常で、余程のことがない限り彼はこの馴染みの酒場に来ていた。

 ユリウスは自覚していないことだが、もう一方の酒場に行った時に彼が満足にくつろぐことができないのは、彼の容姿が娼婦受けするからである。春をひさぐ女とて、相手のえり好みくらいはする。代金の払い渋りがなさそうなことは大前提として、妙な趣味がないこと、病気持ちじゃないこと、そして出来ることならばより好みの男を客としたいと思うものである。

 その点ユリウスは上客以外の何物でもない。爵位持ち貴族特有の洗練された仕草と清潔感のある仕立のよい衣服、当然金払いも良い。そしてなにより、社交界でも多くの婦女子を魅了する甘いマスクだ。

 今も、この酒場にはほとんど男しかいないにも関わらず、ユリウスの外見は多くの耳目を集めている。当人はそのことに慣れきってしまっているので今更気にすることはないが、彼の動きに合わせて

 盃をぶつけ合い軽く乾杯を交わして、ひと口仰げば、喉を冷たい液体が滑り落ちていった。

 揃って盃を半分ほど空けひと心地ついたところで、タイミングよく残りの酒肴が供される。

 仕入れによってメニューの変わる小皿料理。今日は川魚のマリネだった。

 最近ではどこも昔ながらの強い塩味と酢のつんとした刺激を嫌う傾向にあるが、仕事終わりの男ばかりが集まるこの酒場では敢えて塩味と酢の酸味を強くしている。酒の肴にはもってこいで、ふたりは黙々と盃を重ねていった。

「今回は」

 先に口を開いたのは友人――第二兵団団長、ヴェイグ・エーダーの方だった。

 口元の髭に発泡酒の泡がついている。だがそんな間抜けな顔を晒しているのはヴェイグに限った話ではなく、それこそ少し周りを見回せばいくらでもいる。ユリウスはこの口数の多くない友人の話を遮らぬよう、盃の中の氷を回した。

「色々と、世話になった」

「なんだ。珍しくお前から声をかけてきたと思ったら、そんなことか」

 ヴェイグの声は低く、訥々とした喋り方は重苦しい。本人の意図するよりも深刻に響いてしまうのだ。

 だが、そこは学生時代からの長い付き合いである。傍から見れば身内が不幸に遭ったのではと危惧しかねないほどの渋面を作るヴェイグを、実に軽い調子で「相変わらずの気遣い屋だな」と笑い飛ばした。

「俺は好きでいろいろやってるんだ。ヴェイグに感謝されるようなことは何もないぞ」

「だがそれは、俺たちがあの娘を巻き込んでしまったから、だろう」

「うん?」

「あの……なんだ。お前が求婚して、その」

 おや、とユリウスは片眉を上げた。言い辛そうに口ごもるとは、ヴェイグらしくもない。

 そこではっきりと「振られた」と言い切らないところがヴェイグの気遣いなのだが、生憎ユリウスはその程度で気分を害するような男ではなく、故に何をヴェイグが言い辛そうにしているのか皆目見当がつかなかった。

 不思議そうな顔をするユリウスに、ヴェイグはひとつため息を吐く。繊細さとは程遠い友人の性情を再認識しつつ、それでも直截的な言葉を遣うことは憚られ、結局無難に「レーヴィ伯爵の愛娘」という表現に留めておく。

 ああ、とユリウスは頷いた。

「そうだな。少しでも愛する女性の助けになれればと思ったことは否定しない。確かにそれも理由のひとつだ」

 だが、とユリウスは言葉を継ぐ。

「感謝するには早いだろう。()()()()()()()()()()()()()

 ヴェイグの背後のテーブルがどっと沸く。

 酒場に集まる男たちは誰もが皆顔を酒気で赤らめ、大口を開けて笑い、一日の仕事疲れなどなかったかのように盛況に振る舞っている。

 刹那、ヴェイグは瞑目した。

 喧噪がひどく遠く感じる。そういう感覚はなにも今が初めてではなかったが、目前の友人との間にすら断絶を感じるのもまた、これが初めてではない。

「俺は時々、お前が心底阿呆であってくれたらと思うよ、ユリウス」

「ははっ」

 冗談だと思ったのだろう。ユリウスはヴェイグの言葉を軽く受け流した。

 寄った眉根をほぐすように揉みながら、ヴェイグは重いため息を吐く。

「お前のその謎の情報源の在り処を問い質す気は今更ないが、せめて緘口令を敷いた本人の前でそれが無意味だったことを暴露するのはやめてくれ」

「ああ、すまないな。これはまだ表に出ていない情報だったか」

「これ()、か」

 最早ため息も出ない。

 頭痛を通り越して眩暈すら覚えるなと遠い目になりながら、ヴェイグは一息に杯を飲み干した。

 人差し指を立てて同じものをもう一杯注文する。待つ間に、懐を探って鍵束を取り出した。

 卓上に置けば、ごとりとなかなか重そうな音が微かに響く。なるほど、とユリウスが頷いた。

「本題はこちらということか」

 無言は肯定。触っても良いかという言葉に許可を出せば、なんの遠慮も躊躇もなくユリウスは鍵束を取り上げた。

「少しは躊躇え」

「大丈夫だ。魔術的な痕跡は、少なくともこの鍵自身にはないからな」

 その言葉に、わかっていたこととはいえと、ヴェイグは呻いた。

 ヴェイグに魔術の素養はない。王宮魔術師たちは現在、とある事情でまったくアテにならないからと、一応信頼のおける相手であるユリウスに検分してもらうつもりだったのは確かだ。

 あるいは、それは僅かな期待であったのかもしれない。せめて魔術の痕跡でもあればあるいは、という。

「すごい数だな。王宮(あそこ)にこんなに牢の数はなかったはずだが」

「ひとつの牢にひとつの鍵とは限らないだろう」

「だが、それにしても多すぎる」

 ユリウスは首をひねりながら、眼前で問題の鍵束をいじくりまわしている。

 がちゃがちゃと耳障りな金属音がする。乱暴な手つきにヴェイグが眉をひそめた時、「そうか!」とユリウスは声を上げた。

「ヴェイグ、フェイクだ!」

「……なんだと?」

「ただ鍵の形をしているだけで対応する鍵穴がない紛い物ってことだ。その中に本物を紛れ込ませてるんだな」

「そう、なのか?」

「そうなんじゃないのか? たとえばこれは」

 おもむろにユリウスが鍵束からひとつの鍵を引っ張り出す。

 真鍮でできた、なんの変哲もない鍵に見える。強いて特徴を述べるならば、大きさの割に重そうだということくらいしかヴェイグには思いつかない。

「素材は錫を混ぜた合金だろう。だが、比率が悪い。少し魔術をかじった相手なら、二時間ほどで溶かせてしまう。俺なら」

 ユリウスが指でつまんでいる箇所が、じわじわと赤く色を変えていく。

 錆びた鼻をつく臭気が一瞬強くたちのぼり、直後、なんの前触れもなくユリウスが手にした鍵はぼろりと崩れた。

「十秒かからない」

「……聞いていないぞ」

 テーブルに落ちた鍵の頭がジタバタと足掻くように身を震わせている。

 動きが止まるのを待てずに掴み取ると、それはまだ肌を焼く熱を持っていた。

「仮にも王宮の、おいそれと裁くことも始末されてしまうわけにもいかない囚人を捕らえておく牢獄だ。この脆さでは何の役にも立たないだろうな」

「だからフェイクだと? 万一本物だったらどうするつもりだ」

「鍵屋を呼ぶさ」

「領収書にはお前の名前を書くぞ」

「ヴェイグは心配性だな!」

 ははは、と笑うユリウスを、ヴェイグはじっとりと見やる。

 残された鍵には使われた痕跡はなく、大量にフェイクが混ぜられているとなればこの鍵束から鍵を抜き取ったとはますます考え難くなる。

 手がかりは消えたのではなく、むしろより可能性を狭めることができたのだが、その道筋はヴェイグが可能性として考慮はしていたものの、けして当たっていて欲しくなかった方向に伸びている。

 得てして兵団の仕事とは騎士団のそれと比べ憂鬱なことが多いのだが、慣れてしまっているはずのヴェイグでも、最悪の可能性の芽が潰れなかったことを嘆きたくなることもある。

 八つ当たりとは重々承知で、恨みがましげな目つきで鍵の残骸を見下ろすヴェイグに、ユリウスは「本当に心配性だな」と頬をかいた。

「先の騒動、お前もまったくの無関係ではなかっただろう」

「そうだな」

「それで何故、あの男を警戒せずにいられるんだ、ユリウス」

 あの男。二人は敢えてその名前を出すことはない。

 いずれ女王として立つ王女の傍らに王配としてあるのだと、誰もが信じて疑わなかった相手だ。なまじ接する機会があった分、ヴェイグは複雑な心境なのだろうと、ユリウスは察した。

 同じ宮仕えの身とはいえ、ヴェイグとユリウスでは少々その性質が異なる。ユリウスはあくまでも本業はソルヴェール伯爵であり、一応は王宮に財務官の立場で籍を置くが、実際に王宮に詰めているのは一年の半分もあれば良い方であった。

 彼の仕事は実際の財務運営ではなく、定期的或は不定期的に他各部署の財務状況を精査する監査官としての性格が強い。監査する側である以上、癒着や横領を防ぐためにも、平時はなるべく他財務官との接触を忌避すべし、などという申し渡しもあるくらいだ。

 もっとも、そのおかげでユリウスは伯爵としての執務のみならず、女学院は魔術院の理事長といった職務をこなすことができるわけなのだが。

「王配は王ではないよ、ヴェイグ」

「それでも、俺は殿下の味方であってほしかった」

「そうだな」

 そうであれば、本当にどれだけよかったか。

 束の間、二人は互いに無言になった。

 名前を口にするのを憚る相手とは親しくなくとも、王女ならばユリウスも見知っている。身分を隠して女学院に通いたいという王宮からの要請で便宜を図ったのは、家督を継ぐ以前のユリウスだ。

 それ以外にも、お気に入りであるライラに求婚して逃げられた男の顔を見に来たと、悪びれずに王宮にある執務室に突撃されたこともある。いずれ友人の夫として改めてご挨拶に伺いますとユリウスが言ったのに対し、にやりと笑って返されたのが印象的だった。

「だが、殿下は強い。あの男以上の味方を、すぐに見つけてしまうさ」

 ユリウスはふっと目を細めた。思い出すのは、将軍としての器を試されたまだ年若い少年だ。

 将軍位が誰かに与えられる時伝統的に行われているのがこの試しの儀で、騎士団や兵団でも古参の者は、たとえ事情を知らされていなくともなんとなく察してしまうことが多い。そのため、試される当人が儀式の最中に看破してしまうことも多く、ある程度年齢がいってから将軍位を与えられた者ほど儀式という名の面倒な任務を押し付けられることが増えてきていた。

 そんな中での、久しぶりに若過ぎる将軍の誕生。恐らく上層部は無駄に張り切ったのだろうなと、外部の人間であるライラまで巻き込んだ計画を知った時には苦笑いするしかなかった。

 裏を返せば、それだけあの少年は期待されていたということである。次期女王の、側近候補として。

「あの少年を見出したのは、殿下なのだろう?」

「ちょうどいいところにいた兵士を、適当に引っ張ったと仰ってはいたが」

「殿下らしい」

 もちろん、偶然でなどあるはずもない。

 人手を必要としている時にそこにいた。たとえ本当にきっかけがそれだけであったとしても、今もなお関わりを続けているということは、そういうことだ。

「殿下はいずれ女王になられる方だ。ならば、あまりお前が心配し過ぎるのも不敬なんじゃないか」

「……そうかもしれんな」

 ユリウスらしい楽天的な言葉に、ヴェイグはようやく幾らか肩の力を抜いた。

 自然、笑みらしきものが口元に浮かぶ。それを見てユリウスも「さあ、辛気臭い話は終わりだ」とヴェイグの背を勢いよく叩く。

 なかなか痛そうな音が響き、実際に痛かったのかヴェイグは小さくうめいたが、ユリウスは微塵も気づかずに手を上げて店員を呼んだ。

 飲み物の追加と、ついでにつまみも適当に頼む。

 そこからはとりとめのない話をぽつぽつとした。ユリウスはともかく、ヴェイグはもともとあまり口数が多い方ではない。加えてお互いに守秘義務の多い職業とくれば、自然、話題は当たり障りのないものか、ごく個人的な事情に関わるものになっていく。

 杯を重ねること数度。酒量の割には赤らんだ様子のない顔のまま、ヴェイグはポツリと「彼女のことだが」とこぼした。

「どの彼女だい?」

「アーヴィング嬢だ。……俺が口出しすることでもないが、本気なのか」

「冗談で求婚するほど、タチの悪い男になったつもりはないよ」

「…………」

 胡乱な瞳でヴェイグはユリウスを見る。

 無言の訴えに、ユリウスは肩をすくめた。

「信じられないか」

「いや。だが」

「不可解?」

「そう、だな。お前が、ではなく、レーヴィ伯爵が、だが」

 動きがなさ過ぎて不気味だ。そう呟くヴェイグに、ユリウスはそうかな、と首を傾げる。

「一応、暗殺者らしいお客さんは週一回は来るが」

「は?」

「伯爵も心配なんだろう。ライラの話を聞いていても、かなり彼女を可愛がっているようだったし。近づく男を警戒するのも無理はないさ」

 ヴェイグは急にアルコールが回ってきたような気がした。

 如何に溺愛する娘とはいえ、その求婚者に暗殺者を差し向けるのは親としてという話以前に人として如何なものかとか、誰が暗殺者を差し向けているのかわかっていて、けろりと何でもないことのように話す神経の図太さだとか。そういう諸々のものを、今更気にしても仕方がないと無理やり飲み込む。そうしないとそもそも話にならないからだ。

 なんだかいろいろと馬鹿馬鹿しくなってきて、ヴェイグは杯をぐいと呷った。

 残っていた酒を全て飲み干し、だんとテーブルに杯を叩き付ける。非難がましい視線を店員から向けられたが、気にならない程度には酔っていた。

「ユリウス。お前、確かに彼女に振られたんだよな?」

「正確には逃げられた、と言った方が正しいだろうなあ、あれは」

「つまり振られたんだろう」

「まあ、そうだな」

 それがどうかしたか? とユリウスは首を傾げている。

 ヴェイグは強いて声を抑えながら、「だったら、諦めるんだな?」と駄目元で尋ねた。

「何を?」

「だから、アーヴィング嬢のことだ」

「何故?」

「何故、だと?」

 ごくりとヴェイグは唾を呑みこんだ。

 ゆっくりと、心の中で数を数える。嫌な予感はひしひしと感じていたが、それでも一応、万が一の可能性にかけて、再度「振られたんだろう?」とユリウスに確認する。

 ああ、とそこでようやくユリウスはヴェイグの意図を察したらしい。眉を下げて目の前の友人のどこか据わった瞳を見返した。

「逆に聞くが、ヴェイグは俺が諦めると思うのか? たかだか一度、求婚を拒絶された程度のことで」

「……そうであったら良いと、思っていただけだ!」

 ヴェイグは文字通り頭を抱えた。案の定と言おうか予想通りと言おうか、諦めることなどそもそも選択肢のひとつにすら入れていなかったらしいことが、ユリウスの態度で丸わかりだったからである。

 悲しくも、ヴェイグとユリウスの付き合いは学生時代からのものである。一見爽やかで人当りの良い好青年のように見えるユリウスが、確かにそういう一面もあるにはあるが、実際はかなり面倒な類の人間であることは重々承知している。

 仲間内で、女性から見たら誰が一番いい男かを酒の席で話したことがある。ほとんど冗談のような会話で、からかい混じりに互いの客観的な評価を言い合っていたのだが、ユリウスに対してだけは例外だった。特にユリウスと親しい友人たちは、彼に「善人面した一番の落とし穴」という評価を満場一致で下したほどである。

「お前なら、もっと他にいるだろう。アーヴィング嬢ではなくとも」

「いないさ。彼女はひとりだけだ」

「そういう意味で言っているんじゃない」

 人当りと外見がこうでなければ許されないしつこさとめげなさは折り紙付き。魔術師としての才や人の上に立つ人間としての才などが注目されることが多いユリウスだが、その実一番厄介なのは、諦めることを知らない彼の根気強さだということを知る人間は多くない。

 その数少ないひとりであるヴェイグは、眉をしかめてユリウスを見た。

「そもそも、どうして彼女なんだ」

 確かに、ライラは信頼できる女性だとヴェイグも思っている。

 だがユリウスのように地位も家柄も財産も容姿も、一見全て揃っているような男なら――ただしそこには「落とし穴」と言わしめるだけの面倒くさい性格が付いてはくるが――幾らでも恋人や妻になりたいという女性は出てくるだろう。その中には、ライラより容姿が優れている者も、知能が高い者も、血筋が優れた者も少なくないに違いない。現に幾人か、目の前の男の実態を知らない貴婦人がこの男に想いを寄せていると噂になっている。

 もちろん、ヴェイグにライラを貶めたり軽んじたりする意図はない。それがわかっているからこそ、ユリウスもため息を吐きながら「同じことを他の人間から言われたなら、手袋を投げつけているところだぞ」とぼやくだけに留めている。

 貴族伝統の古式ゆかしい決闘の申し込みはさておき、ユリウスはヴェイグにどう説明したものかと考えた。

「彼女はね、本来とても臆病な女性なんだ。女学院にいた頃は、教師という職業柄、少し無理をしているところがあったから、すぐにはそうと気づけなかったけれど」

 なんと小さな背中だろうかと、そう感じたのをユリウスは今もまだはっきりと覚えている。

 自身より遙かに年嵩の、同じ職場で地位と権力を持つ男に一方的に怒鳴りつけられて。それが叱責の類などではなく、単なる八つ当たりよりもひどい悪意に塗れた行為だとわかってしまったから、ユリウスは初め、義憤に駆られて割り込んだのだった。きっと彼女は泣いている。そう思って。

 女性を虐げて泣かせるような男は最低だとユリウスは常々考えている。まして己が優位にあることで理不尽に傷つけようとする行為は男女問わず人間として醜悪なものだ。

 だからこそ、ライラを不当に貶めるような行為をした男を、内々に処理しようなどという穏当な処分は棄却した。管理職にある職員の不祥事という女学院の恥部を晒してでも、この男には公の裁きを受けさせなければならないと決めたのである。

 不正の証拠を突きつけて、拘束した後騎士団に引き渡して。一連の流れを見ながら茫然自失の態で立ち尽くしていた彼女は、ユリウスの視線に気づくと瞬時に表情を取り繕った。

 思えば、とユリウスは思う。出来損ないの笑みすら浮かべることができず、どうにか「……ご迷惑をおかけしました」とだけ声を絞り出し、頭を下げた彼女を見て、自分は恋に落ちたのだと。

「押しに弱くて、悲観的で、自分に自信なんてまるでなくて、だから大したことのないことを気に病んでいつまでもうじうじと悩んでいるような子で。それなら誰かに縋って頼れば良いのに、そうして弱みを見せるのはプライドが許さない。そういうところが、堪らなく愛しいんだ」

 だってそれらは、どれもユリウスが持っていないものだから。

 親指で杯の取っ手を撫でる。

 大多数の人間が好ましいと感じる性格ではないだろう。いつでも明るく陽気に笑って社交的、それがいわゆる「感じのよい」人間である。

 その意味では、ユリウスは自身が大衆受けする性格であることを知っていた。何も意図してそう振る舞っているわけではない。単純に生来の気質が楽天的であまり物事を引きずるようなものではなく、見知らぬ人に対する興味関心も強かっただけの話である。

 自分に自信がないということは、言い換えれば自分の弱さや醜さだと思っている部分を受け入れきれていないということ。もっと簡単に言うならば、自分のことががあまり好きではないということなのだ。

 ユリウスには、自分に自信がないという、その感覚がよくわからない。それは自信にあふれているからだと言われたこともあるが、殊更自分が自信に満ちているという自覚もない。

 それでも、想像することはできる。

 彼女が僕を苦手に思うのは、とユリウスは眉を下げる。

「そういう、彼女が必死に虚勢を張って気づかれまいとしていることに気づいてしまって、しかもそこが好きだと言っているからだろうな」

 かと言って、理由も語らず好意を告げても、彼女は拒絶したに違いない。

 養父であるレーヴィ伯爵や義弟であるジークヴァルドには、「家族だから」という、彼女にとって納得に足る理由がある。だが、ユリウスはそうではない。いっそ頑ななまでにユリウスの好意から逃げようとするのは、彼女にとって、彼の好意が理解し難いものだからだ。

 理由がなければ好かれるはずがないのだと、そう思い込んでいる彼女が、ユリウスは哀れで愛おしいのだ。

「まあだからこそ、まずは俺の想いを信じてもらうのに苦労しているわけだが」

「……相変わらず、お前の趣味は最悪だ」

 仮にもそれは、惚れた相手を評する言葉なのかと。ヴェイグは頭痛を堪えるようにこめかみを揉んだ。つくづくと、こんな男に気に入られてしまったライラ・アーヴィングを哀れまずにはいられない。

 ユリウスはヴェイグの言葉を否定しなかった。ただ肩をすくめるだけ。自覚していてそれかと眉を跳ね上げるヴェイグなど知らぬ振りで、そろそろ出ようかと店員に勘定を頼んでいる。

 日付が変わり、酒場の喧噪も幾らか落ち着き始めている。ちょうど良い頃合いと見て取って、ヴェイグは杯に残った酒を最後に飲み干した。

 結局のところ、どれだけ気を揉んでいてもユリウスとライラの関係は当事者同士でどうにかするものであり、ヴェイグは心臓に悪い思いをしながら見守るしかない。それはわかっているけれど、ヴェイグはどうしてもユリウスに聞いておきたかったのだ。

「……お前の好きになった相手が、他の誰でもなく彼女だったことも、どこまでも出来過ぎてるな。あの方はどこまで見通しているのか……」

「うん?」

「いや」

 ひとつ、ヴェイグは大きく息を吐いた。呟きをただの独り言にするために、当たり障りのない話題を探す。

 目に入ったのは、自分のものと同じように、脇に並べられた今まで飲み切った分の杯たちだ。

「俺ばかりが呑んでいたと、そう思ってな」

「気にするな。どうせこちらは、先祖代々由緒ある下戸の家系だからな」

 言って、ユリウスは果実水の入っていた杯をテーブルの脇に避けた。

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