目をとじて、耳をふさいで
「どうしてわたしの部屋にわたしの荷物があるの!?」
「なに当たり前のこと言ってるのさ、姉さん」
バタン、と作法も何もあったもんじゃない勢いでリビングに飛び込んだら、心底馬鹿にしてます、と言わんばかりの目をした弟がいた。
だけど、今は弟になど用はないのである。恐らくきっと、いや絶対に問題の首謀者だろうお父さんのところまで足早に寄る。
すると、ソファで優雅に寛いでいたお父さんがパッと立ち上がって両手を広げた。
もちろん、絶賛アンチ紫の上計画続行中のわたしは抱きついたりなんかしない。でも勢い込んで歩いていたから、キュッと靴を鳴らして立ち止まった時にはもうお父さんとの距離は腕一本分くらい。
「お帰り、私の天使!」
「へぶっ」
まあ、そのくらいの距離なら当然詰められるよねー……うん、わかってた。わかってたけど、なんだろう、この脱力感。
養い子とはいえ、これでも二十歳越えした成人女性をぎゅっぎゅと抱きしめるアラフォー男性って、それだけ聞くとちょっと怪しい香りがする。でも、実態は娘が可愛くて生きるのがとても楽しい父親とその娘。すっごくしょっぱいな、この事実。
「ああもう、このひと月、僕がどれだけ寂しかったかわかるかい? 君はすぐ傍にいるのに手も握れず、涙を呑んで他人行儀に接するしかなかった僕の辛さが! だというのにジークはそんな僕の前でこれ見よがしにべたべたして、必要もないのに君を送り迎えまでしていたじゃないか。いくらまだ姉離れできないからって、この僕を差し置いて」
「はいはい、そこまで」
放っておけばいつまででも続きそうなお父さんの言葉を、弟がわたしをお父さんからべりっと引きはがすことによって止める。
お父さんは明から様にむっとしていたけれど、ジークは鉄壁の笑顔でそれを黙殺した。空気がずしんと重くなったことは、言わなくてもわかってもらえると思う。
「そんなどうでも良いことは置いといて、何か父さんに言うことがあったんじゃないの、姉さん」
「あ! そう、そうだよ、お父さん!」
どうでも良い、というジークの言葉にまた何か言おうと口を開いたお父さんよりも先に、急いで声を張り上げる。お父さんにわたし関連のことを話させると長いのだ。
そうしたら有耶無耶に誤魔化されてしまうことは目に見えているので、――何故なら以前に何度かそういうことがあったのである。ちょろいとかわかっていても言わないでほしい、自覚してるから――ジークを盾に顔だけ出してお父さんを見る。
「どうしてわたしの部屋にわたしの荷物があるの?」
アレク君の補佐官はきっちりひと月で辞める気満々だったから、下宿を引き払った後は貸し倉庫を借りてそこに保管しておいたのだ。
このひと月、わたしがどんな役割を割り振られるのかは全くの未知数だった。「アレクの行動によって変わるよ」とは、弟ジークがわたしに説明した時の言葉。結果的には囮の撒き餌みたいな役割になったわけだけど、もっと職場での立場が悪くなってたかもしれないし、ひと月経たずに撤収する可能性もあった。
他にも保安上の理由だとか諸々あって、ひと月の間だけ、王都にあるレーヴィ邸で寝起きすると決めて、実家を出る前に使っていた部屋で寝泊まりしていた。だから、ある程度わたしの物が部屋にあるのは仕方ない。
でも、貸し倉庫に置いておいた物まで全部まるごと部屋にあるのは、流石におかしいんじゃないかな!
「もちろん、運んだんだよ。君が昼間王宮に行ってる間に」
「倉庫の鍵は? わたし、ずっと肌身離さず持ってたのに」
「ああ、随分レトロな錠前だったね。トゥグイ産の機巧まで付けてあって、防犯対策としては上々かな。流石の僕も骨が折れたよ」
「……ピッキングしたの? アレを?」
「十分くらいかかったかな」
ええと、お父さん。もうちょっと悪びれてくれないかな。
にこやかに答えてるけど、それ、間違いなく犯罪行為だから。いくら身内でも、借主兼持ち主のわたしの了解も取ってないし。
「会話全体に突っ込みどころ満載なんだけど、これは似たもの父娘ってことで良いのかな」
「面倒くさくなったからってそのまとめは強引だし適当過ぎるよ、弟よ!」
もうちょっと頑張って! 主にわたしの心の平穏のために。
「とりあえず一週間くらい王都周辺を観光して、それから領地に帰ろうね」
「帰らないよ!?」
領地、というのは言うまでもなくレーヴィ伯爵領のことだ。
当たり前のような顔をして、お父さんはわたしの反論にえー、と不満そうな声を上げるけれど、冗談ではない。
「向こうに帰ったら、お仕事ないじゃない。わたしはこっちで就職活動しないと」
「どうして? また家族仲良く水入らずで過ごそうよ」
きょとん、と本気で疑問に思ってますという表情で尋ねるお父さんに、グッと詰まる。家族仲良く水入らず。なんと魅力的な誘惑だろうか。女学院卒業時に固めたはずの決意がぐらりと揺らぐ。
途端ぽんと浮かんだのは「禁断愛! 義理の父娘と血の繋がらない弟との泥沼愛憎三角関係キタコレ!」と大フィーバーするレイチェルの顔。ざっと血の気が引いたのは気のせいじゃないと思う。
「ニート、駄目、絶対!」
「ニート?」
聞き慣れない言葉にお父さんとジークが揃って首を傾げたけれど、そんなことを気にしている余裕はないのである。
「どうせ後で取りに行くつもりだったんだから、手間が省けて良かったじゃないか、姉さん」
「ねえ、いくら面倒くさいからって、せめてわたしの目を見てもうちょっと心を込めて言って」
棒読み且つ視線を窓の外にやりながらとか、適当さが溢れ過ぎて涙がちょちょ切れそうだ。
部屋の隅に控えている古馴染みのメイドさん達は、まあお嬢様ったらお元気ねうふふと見当違いに感心しているだけだし、唯一の味方だろうお母さんは王都に来ちゃったお父さんの代わりに領地で領主代理中。
わたしに遅れてとたとたと部屋に入ってきたルルとロロは、ぴとりとわたしの両脇にくっついて「一緒に暮らさないの、姉さま」「一緒に暮らそう、姉さま」と完全お父さん側に回ってしまった。
駄目だここに味方はいない。途方に暮れて立ちつくすわたしに、面倒くさいなあ、と態度だけじゃなく言葉にもぼそりと出して、弟は小さく息を吐いた。
「一週間」
ジークがわたしを見て、お父さんに視線を戻す。
「とりあえず、それだけで我慢したら? で、その間にまた話しあえばいいんじゃないの」
「ジーク、お前は姉さんがひとり暮らしすることに賛成なのか?」
「さあね」
お父さんの非難がましい目に、弟はひょいと肩をすくめた。
「そもそも、賛成も反対もないんじゃない? 姉さんの就職活動が上手くいく保証なんてこれっぽっちもないんだし」
「まあ、それもそうか」
「もう嫌だこの似たもの親子……っ」
弟に至っては上げて落とすという高等技術を駆使してきた。……確かに上手くいく保証なんてありませんけども!
えーえー、どうせコネなんてひとっつも持っちゃいませんとも! そもそも今回の件を引き受けた理由のひとつに、女学院教師を辞めた後の就活が上手くいってなくて貯金が心もとなくなってきた、っていうのもありますしね!
やっぱりここには味方なんていないのだ。わたしは部屋を出るべくぷいと踵を返した。
「どこ行くの、姉さん。もう夕方だけど」
「お出かけして来る。ひとりで!」
「それなら僕と一緒にお出かけしよう、ライラ」
言いながら、また抱きついて来ようとするお父さん。の、首根っこをジークがむんずと掴んで止めた。
ぴたりと静止したお父さんと無表情の弟が見つめ合ったのは数瞬。無言で互いの足を踏もうと格闘し始めたところで、わたしはさっさとレーヴィ邸を後にした。
大人げない喧嘩に付き合ってなんかいられない。一週間なんて期限を勝手に切られてしまったら、それこそ今日にでも就職活動を始めないと間に合うはずもないんだから。
(……とはいえ、当ては無いに等しいんだよねえ)
まさにジークの言う通り。ネックなのはやっぱり、わたしがレーヴィ伯爵の養い子ってところだろうか。普通、貴族の娘は労働なんてしないんだっていう世間の目もある。
お店の売り子さんならあるんだけどなあ。通り過ぎたパン屋さんのショーウィンドウにある「売り子募集」の張り紙を見て、ため息。
一度女学生時代の恩師に会うべきかもしれない。推薦状を書いてもらえれば、貴族の子女の家庭教師に応募することもできる。とにかく心当たりを片っ端から当たらなければ。
よし、と気合を入れる。そうと決まれば、早速手紙でお願いしてみよう。
女学生時代からお世話になっている文具屋さんに寄ってレターセットを買い、適当なカフェのテラス席に腰を下ろす。もう夕方だから、前の通りを行くのは家路を急ぐ人たちばかりだ。
ウェイターがそっと紅茶を置いてくれた。軽く目礼するとにこりと笑い返される。美形の弟を見慣れたわたしでもちょっとドキッとするくらい人好きのする感じの良い笑みだった。
これはモテるだろうな、と視線をさり気なく周囲にやれば、仕事終わりらしきお姉さんが遠くからこちらの様子を窺っている。しかも、ひとりふたりじゃない。わたしを見ているわけじゃないのは、テーブルから離れて店内に戻って行くウェイターさんの後姿を彼女たちの視線が追っていったからすぐにわかった。
なんと、ここにもハーレムが。アレク君を思い出して思わず生ぬるい笑みを浮かべていると、向かいの椅子の後ろに人影が現れた。
「ここ、いーい?」
「ディオンさん」
どうしてこんなところに。
意外な人物にぱちくりと瞬くと、「アレ、俺の知り合いなんだよね」と先程のウェイターさんを指差した。
「で、俺はここの常連でもあるわけだ」
「このカフェの、ですか?」
「夜はカウンターだけ開けてバーになんのよ、ここ」
確かに、このカフェのインテリアはどれもシックで落ち着いた雰囲気のものばかり。オーク材で出来た立派なカウンターは、バーとして営業するためのものだったのか。
店内は相席しなきゃいけないほど混んでるわけじゃない。なのにわざわざここに来たっていうことは、何かわたしに話したいことでもあるんだろうと、わたしは快くディオンさんの申し出を受け入れた。
注文を取ってもいないのに、さっきの人とは別のウェイターさんがディオンさんの前に発砲酒の入ったジョッキを置いていく。常連客ならではの特権だろう。
縁に添えられたライムは何に使うのかと思っていたら、ディオンさんは慣れた手つきでそれを搾って蒸留酒に混ぜてしまった。
初めて見る飲み方をまじまじと観察していると、もの欲しそうに見えたんだろう。飲んでみるかと聞かれて、慌てて首を横に振る。お酒は好きだけど、酔っ払って帰ったらお父さんがあらぬ想像(妄想)をして暴走してしまう。
「ああ。そういや、今はディーノ……ディノイアの奴がいるんだっけ」
飲ませたってバレたら、おっかねえだろうなあ。
ぐびりと喉を鳴らしてジョッキを煽るディオンさん。喉が渇いていたのか、一度でジョッキの中身は半分以上減ってしまった。いい飲みっぷりである。
「今日はもう非番なんですか?」
「そそ。この半年頑張ってた甲斐あったわあ。後残った面倒なの全部ラントの奴に押し付けてきてやったのよ」
イヒヒと少し意地悪そうに笑って、ディオンさんは片目を瞑ってみせる。
そのおどけた仕草に、今頃まだお仕事中だろうラントさんには悪いけれど、わたしはつられてくすりと笑ってしまった。
「不良中年ですね、ディオンさん」
「中年!? いやいやいや、ライラちゃん。おじさんまだ若いから。同年代の奴らより遥かに若さ保っちゃってるから」
「でも、わたしの養父がディオンさんは自分と同い年だって言ってましたよ」
「……それ、遠まわしにディーノのことも中年って言ってるよね?」
「え?」
……いやいやでも、いわゆるアラフォーは十分中年世代だよね? 改めて言われると自信がなくなってきたけども。
なんとなくわたしの中では四十代からおじさんで、六十過ぎたらおじいさんのイメージだったからぽろりと「中年」なんて言っちゃったけど、言われてみたらディオンさんといい、お父さんといい、中年と呼ぶにはまだまだ若々しい外見をしている……ような……。
「怖い! あのディーノを平然と『中年』呼ばわりしちゃうライラちゃんがおじさんは怖い!」
わざとらしく怯えてみせるディオンさん。わたしはつつつと視線をそらした。
「ああ、夕陽が沈んじゃいましたね。いやあ、最近は日が落ちるのもずいぶんと早くなって」
「流石にその誤魔化し方には乗れないわあ、おじさん」
あ、やっぱり強引過ぎ?
でも、とディオンさんは何か眩しいものでも見るように目を細める。視線の向く先は夕陽の名残がまだ僅かに残る紫雲色の空。
「昔に比べてずいぶん丸くなってた」
「伯爵が、ですか?」
「『お父さん』って呼んであげな。遠慮なんかしないでさ」
そう言われても。わたしは自分の眉が情けなく下がったのを自覚した。
心の中ではいつでも「お父さん」呼びしているけど、人前では基本的に「伯爵」呼び。レーヴィ家の家族とか友達とか、親しい人と話す時だけ「お父さん」。誰かにそうするように言われたとかじゃなくて、わたしが勝手にそう呼び分けている。
ディオンさんの前で、お父さん、わたしを育ててくれた人のことを「お父さん」なんて呼べない。それは何と言うか、自分で勝手に決めたルールに反してしまうのだ。
「なんだか懐かしいレターセットだなあ、それ」
困った顔をして口ごもってしまったわたしを、ディオンさんは指摘しないでくれた。気づいていないはずもないのに、話題をわたしの手元にあるレターセットに移してくれる。
これ幸いと「この通りの三軒先にある文具店のものですよ」とそれに乗っかると、意外なことにディオンさんにも馴染みのある店だったらしい。言われてみればと、その文具店のある方向に顔を向けた。
「大通りにある女学院の女学生御用達のお店じゃなくて、敢えてあそこってとこにライラちゃんのこだわりを感じるわ、おじさん」
「人の多いところは苦手で」
ディオンさんの言っているお店も悪くはないんだけど、そこを利用する女学院の生徒達はほとんどが買い物自体を目的としているため、店内を友達とお喋りしながら楽しく見て回るのが目的の子ばっかり。結果としていつ行っても混んでる上に、実用性よりも装飾性やデザイン性を重視した品が多いので、品ぞろえがわたしの趣味と合わいことがほとんどなのだ。
何より無駄に混んでるせいで余計に買い物に時間がかかっちゃうからね。門限に一秒でも遅れたら落ちる寮監の雷も怖いけど、それ以上に夕食抜きの刑が怖かったわたしとしては、大通りから二本外れたところにあるあの文具店の方が何かと都合が良かったのだ。
恩師に推薦状を書いてもらうのだと手紙の目的を言うと、ディオンさんは「仕事探してるの?」と首を傾げた。
「それこそ、ディーノの奴のコネを使えば職のひとつやふたつ、すぐに」
「反対されてなければ、その手も仕えたんですけど」
「……聞いてた通りの過保護か、ディーノ」
ディオンさんが頭を抱える。「過保護なディーノとか想像したくねえキモチワルイ」と小さく聞こえた呟きは、とりあえず聞こえなかったことにしておこうと思う。
「殿下に言えば、すぐに側付き侍女の職を斡旋されちゃいそうね」
「言わないでください」
「善処させていただきましょう」
なんという玉虫色の答え。小さく肩を落とすわたしに、ディオンさんは「協力してあげたいのは山々なんだけど」とジョッキを弄ぶ。
「俺個人の伝手は正直どれもライラちゃんにはおススメできないのばっかだし、多分そもそも俺の紹介なんて言ったらディーノに完膚無きまでに叩き潰される自信しかないのよね」
「……ディオンさん、私の養父と仲があまり良くないんですか?」
「んー、腐れ縁ってやつ? 付き合いは長いしある程度お互い信頼し合ってるところも無きにしもあらずだけど、だからこそ『コイツのここが駄目』とか、そういうのあるでしょ。そんな感じなんだよ」
腐れ縁という言葉に思い出すのはレイチェルと、畏れ多くも王女様。そこでなるほどと納得してしまうのも失礼だけど、例えばいくら具合が悪くても王女様に看病なんか頼めないなと考えると――余計具合を悪くするのが落ちである、あらゆる意味で――なるほど確かにそういう関係もあるよねと思ってしまう。
ちなみにレイチェルに任せられないのは服選びだ。狙い過ぎてあざとい、いわゆる萌えファッションを隙あらばわたしに着せようとしてくるので気が抜けない。猫耳カチューシャ猫尻尾のお色気メイドなんて二次元の女の子か超美女または美少女以外がやったらただの惨事だという主張が受け入れられる日が来れば、話は別だけども。わたしの胸はコスプレするために大きくなったんじゃないんだからね、レイチェル。
もしかして私の就職先を心配して、わざわざ声をかけてくれたのだろうか。問うように見つめると、ディオンさんは声をひそめた。
「そのまま聞いて。さっきの話の続きのフリで」
ここからが本題なのだと、言葉で言うよりも明確に物語眼差しの強さに、自然、背筋が伸びる。
身構えるわたしに、視線を戻すことなく、カウンターの向こうで鍋を振る知り合いのウェイターに手を振るディオンさん。そのまま、ほとんど唇を動かさず小声で告げた。
「ハイムダール・フォン・ゲルトハルトが脱獄した」
「――え?」
ハイムダール・フォン・ゲルトハルト。
あの世界にあった、アレク君が主人公としたゲームでのラスボス。最後のエピローグで、貴族に課せられる量刑としては最も重い、服毒による死刑に処されたと記されて退場した、王従弟の元公爵。
その彼が、脱獄した? ……処刑された、ではなく?
「巡回の騎士が様子を見に行った時には、牢自体が破壊されて奴はどこにもいなかった。一応、騎士団の遊撃隊が行方を追っちゃいるが、痕跡は皆無だ。見事なまでに」
ディオンさんの声が遠い。
体どころか思考までも停止してしまい、出来そこないのぜんまい仕掛けよりもぎこちない動きで首だけなんとか動かすと、ディオンさんは真っ直ぐにわたしを見つめていた。
「あの坊主か、でなけりゃディーノが言ってるかと思ってたから黙ってたが、初耳だったみたいだな」
それは。
その言い方ではまるで。まるで、ソレが起こったのが最近ではないかのような。
瞬きしかできないわたしの手を、ディオンさんが握る。そこで初めて、自分が小さく震えていたことに気がついた。
大きな手。剣だこがあって皮が厚くて、でも暖かい。それでいて怯え竦んでしまいそうなほど強く真剣な眼差しと同じくらい厳しく、気を抜けば崩れ落ちてしまいそうなわたしをなんとか引き止めてくれる手だった。
「事が起きたのは、お嬢ちゃんが奴らに攫われたのと同時刻。お嬢ちゃんを攫った奴らの背後にいたのか、単純に好機と見られたのかはまだわからんが……俺は、十中八九奴が裏で糸を引いてたと睨んでる」
「どうして」
「誘拐犯たちが自殺したからだよ。俺たちが尋問する前に、一番小さいのが他のを殺して、そいつ自身は奥歯に仕込んでた毒を飲んでな」
そのやり口は、まさにハイムダール・フォン・ゲルトハルト子飼いの者たちのものだと。ディオンさんは苛立ちを吐き出すように息を吐いた。
「年齢も性別も身分も立場も、奴にとっては関係ない。一度奴に心酔していた奴らは誰もが皆、どんな汚れ仕事も厭わない忠実な下僕に成り下がる」
それが例え自らの破滅に繋がるとわかっていても、ハイムダール・フォン・ゲルトハルトの指示があれば躊躇すらしない。そのことは、画面を通してわたしもよく知っている。
捕らえられ自白を強要される前に油を被り自身に火を付けた旅芸人。大恋愛の末結ばれたはずの夫を自らの手でくびり殺した子爵夫人。ハイムダール・フォン・ゲルトハルトの野心を見抜き糾弾した父親に醜聞を作らせた上でそれを暴き、獄に繋いだ伯爵子息。
ゲームの形で知り得た事実がぐるぐると回る。そのどれもが、この世界では現実だったのだと、灰と煤で汚れて帰ってきた弟を見たわたしは知っている。
わたしの知っている物語では、でも、だって、彼は――ハイムダール・フォン・ゲルトハルトは、処刑されるはずじゃなかったの?
「気を付けてくれ、ライラ。奴は何を考えているかわからない。君が被害に遭わない保証なんて、奴が君をどういう理由であれ狙わない保証なんて、どこにもないんだ」




