無謀と愚行
ああもう、恨みますよ、スチュワードさん。
こういう時のセオリーとして、両手両足が縛られていてもおかしくないところだけれど、幸か不幸か五体満足の状態である。そんな必要もないと思われているんだろう。実際、まだ幼いアーノルドはともかく、力仕事の多いベテラン従僕のスコットといい、彼らの後ろに黙って控える兵士っぽい男性三人といい、どこをどう頑張ってもわたしが単身、自力でここを抜けだすことは不可能だ。正直彼らが腰に下げている剣を正視することさえできない。
「つまんないな。もっと驚いてくれなきゃ、わざわざアンタを連れて来た意味がないじゃないか」
「驚く理由がありませんので」
「へえ?」
その後ろでにやにやと嫌な笑みを浮かべるのがスコットだ。襟足にかかる赤毛。スチュワードさんが呼んでると嘘をついて私を連れだしたのも彼だったと思い出す。
ひょろひょろのもやし体型にしか見えないが、力仕事の多い従僕として働いていたくらいだ。彼だったら体当たりでどうにかなるかもという考えは消しておいた。勇気と無謀を取り違えてはいけない。
ふうん、とアーノルドは値踏みするように目を細めた。じろじろと視線がわたしの全身を眺める。
「アンタたちも馬鹿ばっかりじゃなかったってわけか」
「単にこいつらが下手打ったってだけじゃなさそうだなあ」
こいつら、とスコットが視線で示すのは後ろにいる三人の男達だ。
いきなり話題を振られたことに、男達は揃って渋面を浮かべた。いや、そんな単純な表情じゃない。伝わってくるのは苛立ちと、不快感だ。
「今まではアレで何とかなってただろうが」
「アイツが口出ししてくるまでは、って言いたいんだろう?」
「そこをどうにかするのがお前達の仕事だろうが」
「そんな頭があったらこんなガキの下なんざ付いてねえよ」
「……うるさいなあ。おっさんたちの責任の押し付け合いなんて、どうでもいいよ」
アーノルドは落ちて来た前髪を鬱陶しそうにかき上げる。
従僕見習いとしてかっちりとした制服に身を包み、髪を整髪料で整えていた時の姿は見る影もない。今の彼を見て、どこかの屋敷の使用人だと思う人はほとんどいないだろう。
擦り切れたズボン、皺の目立つ荒い仕立てのシャツ。靴だけが不自然に丈夫でサイズが合っていた。素材は革、いや、厚手の布かもしれない。
年齢不相応。その言葉が、警告するように脳内を回る。
「補佐官殿が呆けていらっしゃるぞ」
わけがわからないって顔だ。三人の男のひとりが言う。
全員の視線がわたしに集まって、僅かに顎を引く。怯えているように映ってしまっただろうか。出来れば、驚いただけだと思ってほしいんだけども。
アーノルドが嫌な風に口の端を吊り上げた。
「どうして自分がここにいるのか知りたい?」
「大方予想はついていますが」
「じゃあ、その予想ってやつを聞かせてよ。答え合わせしてあげるからさ」
……こ、これはどう答えるのが正解なんだろうか。
なんだか久しぶりにフラグの錯覚が見える。何のフラグかって? 「し」で始まって「う」で終わるひらがなだと三文字の巨大フラグに決まっている。
つまり、受け答えによっては即死亡。生殺与奪の全てをアーノルドに握られているのだと、否が応にも意識せざるをえない。
気づかれないように、わたしはひとつ息を吐いた。
「第二兵団の武器庫から不定期に所蔵品を持ちだし、それを誤魔化すために帳簿を改竄。アレックス将軍がそれに気づいて現在調査中。捜査の手が及ぶ前に姿を消そうとした――と、考えていたのですが」
「六十点」
一歩、アーノルドが私に近づく。
膝を折ってしゃがみこみ、石の床に座り込んだままのわたしと視線を合わせる。
そこに宿る色は、背筋が寒くなるほど冷たい。
「蚊帳の外だったわりに詳しいじゃない、おばさん」
ひょっとして、本当は重要人物だったりするわけ?
そんなはずがないとわかりきっているくせにわざわざそんなことを聞いてくる、その意地の悪さ。閉口してしまいたいが、そうもいかない。
アレク君の屋敷で気絶させられてから、ここで水をぶっかけられるまで。どれくらいの時間があったのかはわからないけど、まだわたしがここにいるってことは、アレク君は彼らの居場所を突き止められていないんだろう。
(流石に、わたしがいなくなったのには気づいてくれてると信じたい)
「助けが来るって信じてる顔だ」
変声期前の少年特有の高い声。僅かな表情の動きさえ見透かそうとでもいうかのように、アーノルドは視線を外さない。
せっかくだから教えてあげるよ。囁くようにそう言ったアーノルドに、スコットがおい、と制止の声を上げる。
「勝手なことはするなって、あれだけ念押しされててだろ」
「手を出すなって言われたんだよ」
「口出しも一緒だろ」
「うるさいなあ。黙って見てなよ」
「……俺は止めたからな」
眉根を寄せて、スコットはドアのすぐ前まで下がる。男達の内二人も彼に習い、ひとりだけがそのままその場に佇んでいた。多分、わたしを威圧するために。
残ったひとりのこともしばらく邪魔そうに見ていたアーノルドだったけれど、相手に動く気がさらさらないことを察したのだろう。無視することにしたようで、再びわたしに向き合った。
「帝国の武器庫ってあだ名は伊達じゃないね。騎士でもない兵士レベルに支給される武器だけでも、相当稼がせてもらったよ」
「依頼主は国外の人間ですか」
「そう。でもわかってたんでしょ?」
それはどうだろうか。アレク君は、そこまで辿りつけていた? 或いは、ジークは。
国外とひと口に言っても果たしてどこの国なのかという疑問は残る。宗主国である帝国でさえ可能性としては捨てきれないのだ。いっそ国内の人間だった方が、容疑者は絞れるというこの皮肉。
でも、本当にそうなんだろうか。わたしはアーノルドの後ろ、沈黙したままでいる男達を窺い見る。
ここでいわゆる主人公格の人間だったなら、彼らの表情を読み取ったりできるのかもしれない。残念ながら、この世界に生きて二十年。前世でいえば西洋人、コーカソイド系の人達の微妙な表情は未だによくわからない。
(よく考えたら、学生時代以降のトラブルって全部それが原因のひとつの気がする)
相手の感情に対して鈍感でいるつもりは、これでもないのだけれど。
「わたしをここに連れて来るのは、悪手だと思いますが」
「おばさんは適度に部外者で関係者だったからね。取引材料のひとつになるかなあと思って」
「取引?」
なるほど。それなら人質ってことなのか。
なんとも言えない気持ちになる。果たして、わたしを人質にして有利になることが何かあるんだろうか。
問答無用で動くのはきっと養父である当代レーヴィ伯爵くらいだろう。最もあの人の場合、自他共に認める親馬鹿なので、相手の一族郎党皆殺しにする勢いで殲滅しにかかる未来しか見えない。……この件もお父さんには知られていないといいなあ。主にわたしの精神安定のために。嫌だよ、寒気がするにこにこ笑顔で敵を足蹴にするお父さんなんて。小さい頃、わたしを産んだお母さんやわたしのことをああでもないこうでもないと口うるさかった人達相手に、いったい何度お父さんがその状態になったことか。あれはトラウマでしかないよ、本当に。
弟ジークヴァルドの場合は、はっきり言って未知数だ。脅迫状を読んだ後、「で?」と笑顔で更なる説明を要求する姿しか思い浮かばない。その後要求を飲むのか、黙殺するのか、はたまたお父さんのように犯人の徹底排除に走るのか。ルルとロロがいればまた話は別なんだろうけど。
「取引相手を将軍や……第二兵団にしたのなら、わたしを連れて来たのは人選ミスですね」
「だろうね。アンタはただの雇われ人だ。貴族でもない」
国の非常時に兵を率いて従軍するのが貴族の義務であるように、平時において貴族を守護するのは国家の義務だ。
そういう意味で、もしわたしが貴族だったなら、もっと人質としての価値は上がったのだろう。ところがこれが平民となると、優先順位はガクンと下がる。民を守るのが国の役目だなんて、そんな理屈はこの世界では通じない。その代わり兵役がないのだと言われれば、そこまで強く主張もできないし。
だったら何故、わざわざわたしなんて狙ったのか。沈黙するわたしに、アーノルドはわざとらしく片眉を上げてみせた。
「でも、アンタはアーヴィングだ」
動くんだよ。アーノルドはいっそ無邪気なまでに明るく続ける。
「最後に残ったアーヴィングの末裔、しかもお誂え向きに生殖可能な年齢で、容姿も悲惨じゃない女。ちょっとオークションにかけてみたら、幾らだって値を吊り上げられる」
「取引はどうしたんです」
「材料は最大限有効活用するべきだと思わない?」
なんてことだ。思わず眉間に皺が寄った。
つまり、私を取引材料として利用しつつ、取引終了後は人身売買のオークションか何かにかけるつもりだったと?
ぞっとしない話である。そもそも、当たり前のように人を売買することを口にする、その精神が不愉快だ。幾ら前世とは違うとはいえ、この世界でも奴隷制度なんてとっくに廃止になっているというのに。
(もしこのまま助けが来なかったら、エロ同人展開ってこと?)
嫌過ぎる未来である。勿論断固拒否だ。けど、どうやって? 後どれくらい時間を稼げばいい?
濡れて束になった髪をアーノルドがおもむろに掴む。
振り払いたくて堪らなかったけれど、彼の後ろに立つ男が剣の柄から手を離していないのが視界の端に見え、懸命に動きを止めた。おかしなことをしたら斬る。そう瞳が言っている。
怖い。かろうじて意識を仕事モードに切り替え、冷静なフリをしているけれど、見知らぬ場所でどう見ても友好的じゃない異性に囲まれて平然としていられるほど肝が太くないのだ、私は。この際理事長でもいいから誰か助けに来てくれやしないかと、大概失礼な感想すら湧いてきた。
さっきの話を信じるならば、殺されることこそないのかもしれない。でも、ちょっと怪我させて抵抗の意思を挫いておこうかなんて思われても困る。痛いのは嫌いだ。
掴んだ髪をぐっと下に引っ張って、何か言おうとアーノルドが口を開いた。
ところが。彼が何か言うより先に、コンコン、と軽い叩音が響く。途端、室内に緊張が走った。
音の発信源は、この部屋に唯一ある出入り口。粗末な木製のドアを全員が注視して、でも、誰も口を開かない。
この警戒のしようは何だろう。わたしは慎重に彼らを窺う。
ここがどこかはわからないが、湿っぽいこもった空気と窓のない石造りの壁、地面を均しただけの床を見たところ、どこかの地下にあるのではないかと思う。そうでもない限り、窓がない部屋は不自然過ぎる。もしくは地上にあるのならば、誰かを監禁するための専用の部屋とか。いずれにせよ、まさかこの部屋にいる人間しかアーノルドの仲間がいないわけもないだろう。
なのに、彼らは今、ドアの向こうにいる誰かに対して警戒を強めている。わたしは何が起こってもいいように、慎重に投げ出していた足を引き寄せた。
「誰?」
アーノルドが誰何する。答えはない。
コンコン。もう一度叩音が響く。でも、その音はやはり軽い。
スコットの目配せを受けて、彼の傍にいた二人の男がドアの両脇に潜んだ。そして、用心しながらスコットがドアの錠を上げ、一気にドアを開け放つ。
すぐに鞘から剣を抜きドアの向こうにいるであろう相手にそれを突きつけた男たちは、そこにいた思いがけない相手に数瞬、ぽかんと口を開けた。
人影はふたつ。どちらも小さく、男達の胸元辺りまでしか身長がない。
おいおい、とスコットが声を上げた。場違いな闖入者に、説明を求めるように。
「どうしてこんなところに、こんなお嬢ちゃん達が」
困惑しながらも剣の切っ先が下がらないところは、流石と褒めるべきなんだろうか。
菫色と藍色。二色のドレスと、それと揃いのヘッドドレス。整って人形めいた顔立ちが僅かにさまよい、やがてぴたりとわたしに合わさった。
みつけた。ユニゾンが響く。真っ先に我に返ったのはアーノルドだった。
「ぼさっとするな! やれ!」
「は? なに言って」
スコットの言葉は、最後まで紡がれなかった。
一歩の踏み込みで、彼女達はスコットともうひとりを地面に引き倒した。当て身を喰らわせたのか、仰向けに倒れる彼らに起き上がる気配はない。
ちっと彼女らから距離を取りながら、二人目の男が舌打ちする。苛立たしげに顔が歪んだ。
「アーヴィングの殺戮人形か……!」
「その呼び方、嫌い」
吐き捨てるような男の言葉に、藍色のドレスがぐるりと首を回す。
灰紫の瞳が、まっすぐにわたしと絡んだ。
「お茶会をする約束ですよ、マスター」
「約束の時間から、十七時間三十二分五十六秒の遅刻です、マスター」
「……この状況で聞くのはそれなの、二人とも」
頭痛が痛い。いやいや、頭が痛い。比喩じゃなく、現実に。
こめかみを揉むわたしに、二人――ルルとロロは同時にこてりと首を傾げた。
精巧過ぎるビスクドール。ある年の誕生日にもらった、お母さんの形見。
或いは、もっとわかりやすく言うのなら――天才クラウス・アーヴィングが未来の子孫に残した、護衛代わりの自動人形。
プレゼントされた時、彼女達の外見年齢は五歳だった。あれから十数年。ゆっくりゆっくり時間をかけて成長した彼女達は、どういう経緯を経たのか、気づいた時には弟の側室に収まっていて。以来ずっと、わたしを「マスター」ではなく「姉さま」と呼んでいたのに、その呼び掛けが戻っている。どうしよう。嫌な予感が半端ないんだけど。
すうっと二人が音もなく立ち上がった。両腕をだらりと下げ、身構えた様子などまるでない。だけど、その自然体が余計にアーノルドたちの警戒心を煽ったらしい。
残る男二人がルルとロロを迎え撃つために腰を落としたのと、彼女たちが二人に向かって行ったのはほとんど同時だった。
今度は流石に一撃でとはいかない。生身の肉体ではないという強みで徒手空拳で襲いかかる、文字通り超人的且つアクロバティックな動きの彼女たちに苦戦しながらも、男二人は一歩も退かずに応戦している。げ、両腕クロスさせて剣を受けるとか、生身だったら大怪我間違いなしだよ、ルル。ロロも、力任せに弾き飛ばされたのに壁に着地してすぐまた向かって行くとか、それどんなハリ○ッド映画?
一々目で追うには動きが速過ぎる。これは邪魔にならないように隅っこに移動しておくべきかと腰を上げかけた時、アーノルドに思いっきり髪を鷲掴みにされて引き寄せられた。
思わず声にならない悲鳴が洩れる。無理矢理仰向けられた視界には、眉間に皺をくっきり刻んだアーノルドが映った。
「甘く見るなっていうのは、こういうこと」
誰に向けてということもない、恐らくは完全なひとり言。
忌々しそうなその表情に呆けたのは一瞬。すぐに我に返って、アーノルドの腕を掴み返した。
ぎょっと目を丸くしたのが見えたが早いか、護身術の要領でアーノルドの腕を本来曲がるべきではない方向にねじる。
たまらず手が開き髪が解放されたところで、今度は腕ごと体を引き寄せて思いきり――そう、思いっきり、渾身の力を込めて、がつんと頭突きをしてやった。
ぐわん、と脳が揺れる。っく、これは予想以上の石頭……! 何やってんの自分と思わなくもないけれど、こういうのは勢いなのだ。相手もまだ視界が揺れている内に床にうつぶせに倒して、余計な抵抗なんてできないように上に乗っかる。うまく押さえ込む方法なんて知らないから、ほとんど揉み合いになりながらとにかく自分の腕力プラス体重で押さえつけるしかない。
だから、ついカッとなってしまったのだ。いつまでもじたばたと悪あがきするアーノルドに。「いい加減、大人しくしなさい!」と叱りつけながらもう一度頭突きをかましてしまうなんて、ちょっと冷静に考えれば馬鹿なこと以外の何ものでもないって、わかったはずなのに。
ただでさえさっきの頭突きで脳が揺れていたところへのもう一発。アーノルドは完全に気を失ってぱたりと抵抗をやめたけれど、その代償とばかりにわたしの視界もぐらっぐらに揺れた。
吐き気がする。うぷ、と喉の奥までせり上がってきたものを堪えるために口元を押さえ、ぎゅっと目を瞑る。すると、ずるりと意識まで沈んでいった。
体が揺れて、アーノルドの上に倒れ込む。しっかりしなきゃと思うのに、どんどん意識が遠ざかって、指先ひとつ動かせない。
人間は死ぬ時にまず視覚から弱まっていくらしい。それと同じというわけじゃあないけれど、もう瞼を開いてるのか閉じてるのかさえわからない。
その時、かろうじて残っていた聴覚が遠くの喧騒を捉えた。
階段を下りるか、上がるかしている音。近づいて来る足音は、複数入り乱れてよくわからない。がしゃがしゃという金属の擦れる音。でもそれも、どんどんぼんやりしてくる。
ああ、もうダメ。これ、気絶する。
「――ライラ!」
覚えのある声がわたしを呼ぶ声を最後に、わたしはとうとう意識を失った。




