暗転
自慢じゃないけど、私は絶望的に体力がない。
いや、正確には体力じゃなくて持久力と言うべきなんだろうか? どちらにせよ、そう長々と走ってなぞいられないのだ。
息が切れる。最初は私が先導するように走っていたのに、今じゃとっくにミリアちゃんに追い越されてしまった。それどころか、時間が経つごとに遅くなる私を半ば引きずるように腕を引っ張ってくれている。
王都は中央広場から東西南北に伸びる大通りを中心に、放射状に小路が広がっている。格子状じゃないところが味噌だ。しかもそのそれぞれの小路を繋ぐ脇道がまた厄介で、行き止まりだったりぐねぐねと折れ曲がっているのは当たり前、生まれも育ちも王都だという生粋の王都っ子でも全貌を理解できていないという複雑さなのだ。
だから、本当ならその小路や脇道を最大限に利用してあの使い魔を撒くべきなんだろうけど、少しでも知らない道に入ればすぐに迷子になる自信がある私にその選択肢は存在しない。下手をすれば使い魔を使役している魔術師の方が王都に詳しくてまんまと追い込まれる、なんてハメになってしまう。そんな間抜けはゴメンだ。
幾度かの曲がり道で行き先を指示すると、ミリアちゃんは私がどこに行きたいのか理解したらしい。途中からは道を聞くどころか私を振り返ることさえなく、どんどん見慣れた街並みに近づいて行く。
見慣れた、と考えて、自分で自分がおかしくなってしまった。たかだか三日、されど三日。事前準備の期間も合わせればそれ以上とはいえ、あまりにも自然にそう思ってしまった。
案外、私は順能力が高いのかもしれない。そんな馬鹿げた考えに気を取られていたからか、何もないところでつまずいて転びかける。腕を引いてくれていたミリアちゃんもつられてよろけて、意図せず背後の使い魔をもう一度視界に入れてしまった。
「ひっ……!」
「っ目を、合わせない、で!」
一瞬で走った怯え。原因が私だから心は痛むけど、だからこそ、注意しなければならないのだ。
魔術師は通常、使い魔の精神を侵して支配し使役する。その方が楽だからだ。わざわざ使い魔にしたい対象と意思の疎通を取り、信頼関係を築くような手間をかける魔術師はごく稀。
だけど、簡単な方法にはもちろん落とし穴がある。複雑な命令を理解できない、使役主である魔術師が把握していない能力は行使できないなど、そのデメリットは様々だが、最たるものが、侵された精神が瞳に現れる、というものだ。瞳に深淵が宿る、とやたら厨二病的な表現をした詩人もいる。
狂人の瞳というものを見たことがあるだろうか。もしくは廃人でもいい。彼らの狂気は伝染する。同じように、精神を汚染された使い魔の瞳はそれを見た者の精神まで侵す。そう信じられている。少なくとも、この世界では。
だから、ただでさえこんな得体の知れないものに追われているという異常事態に動揺しているミリアちゃんに、うっかりにでも使い魔の瞳を見せてはいけない。
叱りつけるような私の口調に、びくりとミリアちゃんの肩が跳ねる。だけど、それで我に返ったらしい。すぐにぎゅっと唇を真横に結んで、片膝を地面につきかけた私を引っ張り起こし、もう一度走りだす。
でも、一度立ち止まってしまったからだろうか。少しでも気を抜いたらかくりと膝が曲がって、今度こそお尻が地面についてしまいそうだ。
確かに両足を交互に動かしているのに、うまく力が入っていないような、そんな頼りない感覚。いっそ諦めてしまえばどんなに楽だろうかと、ちらりと浮かぶ。
「見えた!」
ミリアちゃんの声。はっとして下向いていた顔を上げる。
(ああ)
どうしてこんなところに屋敷を構えるのかと、聞いた時を思い出す。
王都は身分で住む場所が決められていて、王族の住む王宮に近い地区から順に貴族街、市民街、農民街――これは「下町」と呼ばれることが多いけれど――とあり、大通りに面した通りが商業区に当たる。
もちろん、治安は外壁に近づけば近づくほど悪くなる。市民街と下町の間が境目だろうか。王都全体の治安維持を担う第二兵団の巡回も然程されることのない下町の奥深くは、ほとんど無法地帯だとも聞く。
その屋敷は、よりによってその市民街と下町の境目を跨ぐように在った。
元の持ち主は、下町から魔術の才だけを頼りにのし上がった魔術師だったという。だからか、この屋敷には魔術的な守護が無駄に強くかけられている。だからちょうど良いだろうと、あまり良い立地とはいえないにも関わらず、弟がわざわざ見つけ出してきた物件なのだ。自身の親友、アレク君のために。
息を吸う。途端、咳き込みそうになったのをぐっと堪えて、お腹の底から大声を出した。
「扉を開けて! スチュワードさんを呼んでください、早く!」
玄関先に、花壇の世話をしていた従僕さんがいたのが幸いだった。
普段とはまるで違い格好の私とミリアちゃんの姿に驚いたのは一瞬で、すぐに私たちの後ろにいる使い魔に気づいた従僕さん達の動きは流石に素早い。
開けてもらった扉からミリアちゃんとふたり、ほとんど倒れ込むようにエントランスに飛び込ぶとすぐ、その背後で従僕さん達が慌てて玄関扉を閉めた。
両扉を渡す錠を下ろしたのとほとんど同時、どん、と屋敷全体を揺るがす衝撃が玄関扉を襲う。
扉の木板がたわむ。錠がぎちぎちと悲鳴を上げて、僅かに開いた扉の隙間から、どろりとした虚ろな眼窩が覗いた。
果たして、息を飲んだのは誰だったろう。
襲撃者を感知し、屋敷に貼られた防御陣が展開し始める。それは多分瞬きの間のことだったんだろうけれど、私にとってはひどくゆっくりと間延びして感じられた。
床から天井に向けて、柱や壁を青い光が走る。魔術言語が刻まれているという不動産業者の説明は放し半分にしか聞いていなかったけれど、一瞬見えた光は確かに文字のようなものを形作っていた。
一度天井で収束した光は、次の瞬間、扉をこじ開けようとした影に向かって進む稲光になった。
使い魔に纏わりついた光がバチバチと弾ける。ギャッ、と使い魔が悲鳴を上げ、力が緩んだことでたわんでいた扉が元に戻り、その勢いが使い魔を弾き飛ばした。
ぶおん、と今度は屋敷自体が震える。屋敷全体を囲む防御壁が展開されたことをその場にいる全員が理解したところで、誰ともなく深く息を吐いた。
「し……死ぬかと思った……」
ぺたりとへたりこんで呟くのはミリアちゃんだ。同感ですと言いたいところだけど、ほっとしたせいで一気に今まで気にしないようにしていた疲労が一気に押し寄せてきて、呼吸を整えるので精一杯だった。
大きく肩で息をする私に、従僕さん達が大丈夫ですかと口々に声をかけてくれる。でも、申し訳ないけれどまだ話せそうにない。無理に話そうとしたら、いやしなくても、咳き込んでしまう自信しかない。
実際にげほごほと幾度か咳き込んでしまったところで、驚いて目を丸くしているミリアちゃんとばっちり目が合った。
なんとなく、何を言うべきかわからなくて困ったように眉を下げて笑い合う。「災難でしたね」と。
「申し訳、ありません。私のミスです。まさか……あそこまで堂々と仕掛けてくる、なんて」
文章の区切りがおかしいのはまだ私が呼吸を整えきれていないからである。生粋のインドア派を舐めてもらっちゃ困る。
ミリアちゃんはどうやら私よりもずっと体力があったらしい。乱れた髪を手櫛で直してこそいるけれど、息切れの気配など微塵も残っていない。
「えっと。よくわからないんですけど、つまり、アレもまたアレク関係のごたごたってことですよね」
「……『また』と言われてしまうほど将軍関係の諸々に巻き込まれたご経験がおありに」
「あはは……まあ、それなりに」
そっとミリアちゃんが顔を反らした。うん、そうだよね。今も仲が良い幼馴染なんて、誰から見てもわかりやすい弱点だもんね。
前世で得たゲーム知識をおさらいするまでもない。邪魔な相手本人に手出しし難いならその周辺からなんて、悪役側にとっては基本中の基本であることだし。
深く息を吸って、吐く。うん、なんとか呼吸も整った。
いつまでもエントランスに座り込んでいるわけにもいかない。立ち上がろうとして、プルプル震える足に自嘲する。隣でなんなく立ち上がっているミリアちゃんが見えるだけに、返す返すも情けないというか、何というか。
見かねた従僕さんのひとりが手を貸してくれる。ごめんなさいとありがとうを合わせて会釈すると、気にしないでくださいとゆるく首が振られた。
「結界もしばらくは持つはずです。先程連絡鳥を飛ばしました。少し休む時間はありますよ」
「すみません、甘えても良いでしょうか」
「もちろん」
ミリアちゃんには客間のひとつを使ってもらおう。あまりバラバラになるのは良くないから、使用人用の区画に近いところに案内するよう頼めば、二人の従僕さん達が彼女を連れて行ってくれる。
その際、戸惑いに揺れる視線がこちらを向いたけれど、安心させるように頷いておいた。大丈夫、その人達は信じて良いよ、と。
ミリアちゃんと入れ替わりに、屋敷の奥から別の従僕さんがやって来る。
「ライラさんはこちらへ。スチュワードさんがお呼びです」
「わかりました」
支えてくれていた従僕さんが何か言いかけたのを視線で制して答える。心配してくれる視線が申し訳ないような嬉しいような。胸の奥がこそばゆくなる。
この人の名前は何だったっけ。夢に見るくらい熟読した資料と目の前の人とを頭の中で照らし合わせてみる。確か、そう。この人の名前は。
「後は相手の出方を見るしかないでしょうから、貴方は持ち場に戻ってくださって構いませんよ、ラントさん」
言いながら、ちらりと玄関扉に視線をやることも忘れない。
ラントさんは僅かに目を細めた。探るような間が数拍。すぐにやれやれと肩をすくめて引き下がった。
ライラさん、とそんなやり取りを黙って見ていた従僕さんが声をかける。急かすようだ、と思って、まあ急かしてるんだろうなあと思い直す。そんなつもりはなかったけれど、結果的に待たせてしまっているんだから。
ラントさんの手を離すと、かくりと右膝が曲がってしまった。慌てて左足を前に出すと、今度はこちらもかくりと曲がりかける。結局、よたよたともよろよろともつかないおぼつかない足取りで従僕さんに近づくと、相手はさっと身を翻して私を先導した。
さて、と私は思考を切り替える。スチュワードさんが呼んでいるんだったっけ。
前を歩く従僕さんは赤毛だ。襟足が僅かに襟にかかっていて、従僕用のお仕着せの上着を小脇に抱えている。土いじりでもしていたんだろうか。泥のような黒ずんだ汚れを袖に見つけて、そういえばと記憶をさらう。
目の前の彼には、いったい何の仕事を振り分けていたんだったっけ?
「スチュワードさんは厨房にいるんですか?」
さっき飛び込んだところが正面玄関だとしたら、厨房は裏口に当たる。厨房に裏口があると言った方が正しいだろうか。この三日、朝の打ち合わせのために使っていた場所だから、よく覚えている。
このまま進めばそこしかないよなあと思ってそう聞けば、赤毛の従僕さんはぴたりと足を止めた。
顔だけで振り返る。痛んだ毛先の奥で、瞳は愉悦に歪んでいた。
「――アンタを連れて行くのは、その先だよ」
そして、暗転。
ばしゃりと頭から水をかけられた。
その冷たさと、突然呼吸を阻害されたことで一気に意識が引き上げられる。
反射的に大きく息を吸い込もうとしたところで、間違って鼻から水を吸い込んでしまったらしい。体をくの字に曲げて咳き込んでいると、また水をかけられた。
ぱたぱたと髪の先から水が落ちる。両手で口を押さえてぐっと咳き込むのを堪えた。目を覚まさせたいなら最初の一度だけでいい。二回目は、咳が五月蠅いとか、さっさとこっちに意識を向けろとか、そういう無言の要求だ。……ただの嫌がらせって可能性もまあ、否めないけれど。
半身を起こし、水が襲ってきた元を見る。瞬きを繰り返して回復した視界に捉えたのは五人。内二人に、私は肩を落とした。やっぱり。そう思っても、落胆とも諦観ともつかないため息だけは堪えられなかった。
「あれ? なんだ、思ったより驚いてないんだね」
つまんないの。
いっそ無邪気にすら聞こえる声音。中央にいる声の主がねえ、と脇に立つもうひとりに同意を求める。
なるほど私はもっと驚くべきだったのかと、今さら期待されていた役どころに気づく。でも、それも今さらだろう。そもそも私にとっては、彼らが今ここにいることはけして驚くようなこと、つまり意外なことではないのだから。
「何か御用ですか、と尋ねた方がよろしいですか。アーノルド、スコット」
問いに、アーノルド――行方がわからなくなっていた、見習い従僕だったはずの少年は、猫のように瞳を細めた。




