時計塔広場にて
くあ、とあくびをする。目尻に滲んだ涙のせいで少しの間視界が歪んだ。
「早起きが習慣付いちゃったなあ」
おかげで、久しぶりの休日に惰眠を貪ることができない。休み明けからのことを考えるとそれは悪いことじゃないんだろうけど、なんとなく、ゆっくり寝ていられるのに早起きするのは勿体ないような気がしてしまう。
それでもいつもよりのろのろと身支度して朝食をとれば、太陽はすっかり空の上の高いところまで昇ってしまっていた。朝焼けを横目に家を出る日が続いていたことを思えば、やっぱり今日は休日なんだと実感する。
この世界の何が辛いって、週休が一日しかないことだ。五日と半日働いて一日半休む、というサイクルが一般的で、日本の週休二日制にどっぷりと甘やかされてきた身としては半日の違いがかなり厳しい。元々勤勉なタチでもない。在宅ワークに憧れるお年頃なのだ。だからといって専業主婦はご遠慮したい。あれは下手な仕事よりも重労働でブラックなお仕事だと思う。
休みの日だから、服は年齢相応にお洒落なものを選んだ。仕事着との違いは装飾の種類と数だろうか。細かいことは流石にわからないのだけれど、日傘片手に商業区のお店を冷やかして歩いても違和感のない格好だと思ってくれればそれでいい。
中央広場の噴水が飛沫を上げる。正午が近づくにつれてじりじりと上がっていく気温に、子どもたちは涼を求めて噴水に特攻して行く。付き添いらしき母親たちはベンチに座って日傘片手に和やかな世間話。露天商が呼び込みの声を張り上げ、手軽に食べられるサンドウィッチやその他ファストフードを売る屋台からは食欲を誘う香りが漂ってきていた。
わたしは広場に面したカフェの二階、パラソルが広げられたテラス席に陣取って、冷たいしぼりたてのジュースを前に頬杖をつく。ここからは噴水を挟んでちょうど真向かいにある時計塔が、正午一時間前を告げる鐘を鳴らす。歯車が噛み合う金属質で特徴的な音が響いて、時計の真下の扉が開いた。カラクリが動き出したのだ。
人形たちが鐘の音に合わせてくるくると回る。彼らが演じるのはこの国の宗主国でもある帝国に百年前実在したとある皇女様の逸話だ。舞台はもちろんこの国、この王都。当時は国と呼ぶのもおこがましい、ただの一地方領主に過ぎなかったこの国の主が、偶然お忍びの皇女様と出会うお話。皇族がそんなほいほい市井に下りているものなのかとか、帝都から遠く離れたこの街にどうして皇女様が身分を隠して紛れ込んでいたのかとか、まあ色々と突っ込みどころは多々あれど、昔からこの国の人たちに愛されている物語でもある。しかもどうやら、公文書の記録を遡って見る限り、真実あったと断言するのは躊躇われるけど、まったくあり得ない話じゃないとも言い切れない、という絶妙な信憑性を持っていたりする。
皇女様を模した人形に、この国の初代国王を模した人形が手を伸ばす。けれどそれは背を向ける皇女様に気づかれることはなく。やがて諦めたように手を下ろし、初代はじっと、自分の両手を見下ろした。
最後の鐘が鳴った。余韻がこだます中カラクリを隠すように扉が閉じていく。
(相変わらず凝ってるなあ)
実は、このカラクリは連載仕立てなのだ。
午前は八時と十一時、午後は一時と四時の計四回に分けて初代国王と皇女様のやり取りが人形たちによって上演される。観光資源としての有用性は、カラクリが動く時間が近づいてきたらどこからともなくそれ目当ての人たちがこの広場に集まってくることからも明らかだ。
カラクリが完全に見えなくなって、落胆とも感嘆ともとれないため息があちこちで上がる。やがてぱらぱらと散らばっていく人たちを見るともなしに眺めていると、早めの昼食を求めた客が店内を満たし始めていることに気がついた。
ちらりとカップを見下ろす。うっすら底が見えるくらいにまで減った中身と空を見て、ついでに自分のお腹の空き具合とも相談して、手を上げてウェイターを呼んだ。勘定をしなければ。
待ち合わせの時間まではもう少し時間があった。わたしのお腹はすでに切ない声を上げているけれど、今何かつまんだらその後が辛い。そもそも心躍るような用事でもないせいで食欲は減退気味なのだ。今こうして空腹を感じていても、いざ食べ物を目の前にしたら気が重くなって碌にフォークが進まないことは目に見えている。
日傘を差す。地面から立ち上る熱気は、コンクリートじゃない土のままな分、遠い記憶にあるそれよりもいくらか鈍い。湿度の低い空気は、そよぐ風を心地よいものに変えていた。
ふと、ある店のショーウィンドウの前で立ち止まった。飾られているのは精巧なビスクドール。可愛らしさよりもリアルさを追求した意匠は生々しくグロテスクだ。おばあちゃんちにある怖い人形シリーズ、と言えばわかりやすいだろう。色づいてふっくらと柔らかそうな頬が、本当は陶器で出来て冷たいだとか、生きている人間ならばあり得ないくらい見開かれた目だとか、小さい頃は夜に目が合うだけで怖くて眠れなくなるほどだった。
(これがこの世界で『女の子のおもちゃ』なんだもんなあ)
もちろん、自他共に認める親ばかなお父さんがわたしに買って与えないはずがない。貰いましたとも、一分の一スケールのコンセプト「初めてのお友達」な等身大人形を。初見で死体かと思うくらい精巧な造りで、冗談でもお値段なんて聞けない文字通り眩暈がする贈り物だった。
あれはひどい悪夢だった。腕組みをして思い出す。一般的な五歳児とほぼ同じサイズのビスクドールなんて最早ホラー世界の住人だと思う。しかも無駄に精巧。嬉しい? 嬉しい? と瞳をきらきらさせて期待に満ち満ちたお父さんに「ありがとう」以外のいったい何が言えようか。お友達なんだからとベッドの中にまで一緒に川の字で寝かせられた時には流石にちょっと泣いた。そんな諸々全部ひっくるめて、今生での黒歴史ど真ん中の思い出だ。
生温い気分になっていたわたしに、誰かが後ろから近づいて来るのがガラス越しに見えた。誰か、と言うまでもない。体の向きを百八十度変えて、真正面からその人を迎える。
「こんにちは」
――果たして、彼女は思いつめた瞳をしていた。
これは嫌な予感が当たったかもしれない。わたしはこっそりため息を吐く。空は快晴、汗ばむ陽気。きらきらと弾ける噴水の水までもが鮮やかなのに、わたしと目の前の彼女の間に落ちる空気だけが薄暗くずしりと重い。わたしはなんでもないことのように口角を引き上げた。
「貴女が、ライラさん?」
丸一日休みの私と違って、彼女は午前中、いつものようにパン屋で働いてきたようだ。隅に小さく通り二つ向こうのパン屋のロゴが刺繍されている。明るい委員長気質な主人公の幼馴染。これでもかというくらいお約束盛り沢山な美少女は、不安そうにエプロンをいじっている。
あまりにも緊張した様子の彼女に、傍から見たらなんだかがわたしいじめているような構図になってしまった。気まずいなんてものじゃない。
視線を集めてはまずい。とりあえず彼女を促して歩きながら話すことにした。
「昼食はもう?」
「はい、仕事場の方で」
自分で聞いておきながら何だけど、そうだろうなあと思う。あそこのパン屋は兼業でカフェもどきもやっている。ランチはお手頃価格で美味しいパンがついてくるのだと女学院でも市民階級の子達に人気だった。彼女もきっと、賄いを食べてから来たんだろう。
「そういえば、自己紹介をしていませんでしたね。ご存知かもしれませんが、わたしはライラ・アーヴィング。アレックス将軍の臨時補佐官を務めています」
「あ、あたしはミリア・トラッドフォードです。アレク、じゃない、アレックスの幼馴染で、それで、ええと」
「どうぞ、落ち着いてください。深呼吸して。大丈夫、わたしは何も貴女を糾弾しようというわけではないのですから」
そう言うと、ミリアちゃんはわたわたと動かしていた手をぴたりと止めた。真ん丸の瞳が数瞬私を見つめて、ようやく今自分が外、もっと言えば大通りの真ん中にいることに気づいたんだろう。一瞬で耳まで顔を真っ赤にして、しおしおと両手を下ろした。
ごめんなさい。羞恥で消え入りそうな声が届く。うん、恥ずかしいよね。誰も見ていなかったかもしれないけど、そういうのに関係ないよね、こういうのって。
行儀よく何事もなかったフリをして、不自然にならないように視線を彼女から前方に移す。
「スチュワードから、謝罪をしたいと申し入れがあったと聞きました」
「……本当は昨日すぐ謝りたかったんです。でも、どうしても時間が取れなくて――言い訳に聞こえるかもしれませんけど」
「いいえ」
いいえ。わたしはもう一度くり返した。
「ミリアさんは将軍の幼馴染だと聞いています。ならば、心配になるのも当然のことでしょう」
それで暴走しちゃって使用人用のダイニングがひとつ爆発されちゃったとしても、まあ、しょうがないとは言いたくないけど、でもやっぱりしょうがないんだろう。予想できたことだ。その対策が甘かったのはこちらの方。彼女が気に病むようなことじゃないのだ。
今回の件、わたしも大概部外者だけど、ミリアちゃんはそれに輪をかけて部外者だ。一般人と言い換えてもいい。
それを言うならわたしだって一般人だろうと言われそうだけど、そう主張するのは少し難しい。養父母が貴族で、義弟が政務官。それで政治にも王宮にも一切関わりありませんよなんて、説得力に欠けてしまう。
(それでもこうやって巻き込まれたのは、それだけじゃないんだろうけど)
例えば弟とか王女様とか弟とか弟とか。つまりはほぼ八割か九割くらい弟ことジークヴァルトのせいだと思ってるんだけどね!
こういう時、わたしの弟に対する勘は外れない。ことこういう件に関しては弟への信用度も低いしね。チェシャ猫の如くにやにや笑っている弟がぽんと頭に浮かんで、八つ当たり気味に急いでかき消した。
「あの!」
意を決したようにミリアちゃんは声を張り上げた。
「あたし、弁償します! 壊しちゃったもの……お皿とか、テーブルとか、椅子とか、何のためにあるのかわからなかった大きな壺とか。いつになるかはわからないけど……でも、必ず返しますから」
「その必要はありませんよ」
「でも」
「将軍はその必要はないと仰せです」
だから本当に必要ないのだと。大事なことだから繰り返すわたしに、ミリアちゃんは「それじゃ納得できない」と言った。
「あたしは確かにアレクが鼻水垂らしてた頃からの知り合いだけど、でもこういうことはきっちりけじめをつけるべきです。知り合いだから、幼馴染だからってなあなあで済ませていいことじゃないです」
当然の反応である。わたしはちょっとあの困り眉の少年を思い出してみた。
お人好し過ぎるほどお人好しなのがギャルゲー主人公の定番、だったろうか。アレク君もその例に洩れずこちらが呆れてしまうほどのお人好しだ。弟の友人なんてものを数年以上続けられていることからもそれはわかる。
ミリアちゃんもそれがわかっているから、今回のアレク君の対応が納得できないのだろう。社会人としての年季は彼女の方がアレク君より上だ。責任感という意味でも、面倒見が良いと聞く彼女の性格から考えても、はいそうですかと簡単に引き下がってくれるはずがない。
どうしようかなあと、わたしはちょっとだけスチュワードさんを恨めしく思った。こうなるってわかっていたから、今日休日の私にミリアちゃんの対応を任せてきたに違いない。人当たりの良く物腰穏やかなデキル男を甘く見てはいけないのだ。
言うべきか、言わざるべきか。ハムレットを気取ってみたところで埒が明かない。わたしは少しだけ「うっかり」することにした。
「本当に、謝罪すら不要なのです。ミリアさんはただのきっかけ。弁償の必要がある相手には、既にこちらから働きかけて責任の所在は明らかにしてあります。……ミリアさんが将軍と懇意であったことは、関係ないのです」
「え? それって、どういう」
ミリアちゃんが戸惑いに眉を寄せた、その時だ。
今しも通り過ぎようとした脇道から、にゅっと腕が伸びてくる。ミリアちゃんの背後から。わたしは咄嗟に彼女の腕を掴んで乱暴に引き寄せた。
どん、と少なくない衝撃に体がよろめく。やっぱり、ほとんど体格差のない彼女を受け止めるのは少し無理があったらしい。一緒になってたたらを踏んで、ミリアちゃんがまだ事態を呑み込めていない内に手を引いて駆け出す。
「っちょ、なん」
「走ってください、早く!」
目を白黒。気持ちはわかる、痛いほどわかる。でも、答えてる余裕はない。
(嘘でしょ、ここ、大通りなのに!)
例えば町外れ。複雑に入り組んだ小路の先。人気のない街角。
そういった如何にもな場所で仕掛けて来るのだと思っていた。なんてことだ。所詮は素人の浅知恵だって、嘲笑われている気分になる。
人混みが割れる。わたしと、ミリアちゃんと、小路からゆらりと姿を現した影と。異様な組み合わせに道を開けるのに、不思議とこちらに注目している人はいない。それがさらに危機感をあおる。
「あれ、まさか、使い魔!?」
「そのまさか、ですよ!」
引いていた腕が軽くなる。わけがわからないまでも、彼女も彼女なりに状況を把握したのだ。
ひとのような形をしながら、ぐじゅり、ぐじゅりと絶えず輪郭が崩れるソレ。真っ黒な影の塊にしか見ず、胃の底が重くなるような気配がするとくれば、魔術師の使い魔だとわからない人はいないだろう。
使い魔だなんて。ああまったく、なんてファンタジーだろう! 魔術師なんて百人にひとりどころか千人、いや一万人にひとりいればいい程度の絶滅危惧種に、どうしてちょっかいを出されるようなハメに――いや、よそう。ボボン、と音を立てて弟の顔が浮かんできた。うん、とりあえず理由に言及してる場合じゃないよね。
とにかく足を動かしながら、この異常事態をどう切り抜けるか考える。迎え撃つなんて真似、どこに出しても恥ずかしくない一般人並みかそれ以下スペックのわたしにできるわけない。なら、後できるのはひたすら必死に頭を働かせることだけである。
どうすればいい。とりあえず今はまだ追いつかれていないけど、わたしもミリアちゃんも限界はすぐに来る。穿った見方をすれば、後ろのアレはそれがわかっているから無理に距離を詰めようとしてこないんだろういっそ腹立たしいほど舐められている。
だけど、それならそれでいい。舐められてる内に、安全地帯まで逃げ込んでしまうのだ。
どこへ行けばいい。アレク君のところ、は却下だ。第二兵団に魔術師は所属していない。それにここから王宮までは遠すぎる。途中でわたしかミリアちゃんの体力が切れるか、運良く逃げ込めたところでこの人避けの魔術を見抜いてもらえないのが落ちだろう。それに、こんな不穏分子を引き連れて王宮に乗り込んだら、下手したら反逆罪の疑いをかけられてしまう。王宮は却下だ。
それ以外で、使い魔を操るような魔術師に対抗できて、わたし達を助けてくれそうなところ、とか。こんなの、選択肢なんてあってないようなものだ。どう考えても悪手。
でも。
「そこの角を曲がります。ついて来てください!」
ええい、もう。こうなったら、なるようになれ、だ!




