【幕間・2】王宮侍女は暗躍がお好き
レイチェル・クランは知っている。王宮の地下牢にいる男が、本当は何を望んでいたのかを。
レイチェル・クランは知っている。旧友の弟が、何を考えて彼らに協力しているのかを。
レイチェル・クランは知っている。彼女が、他の誰かが思うよりずっと脆くて、残酷なこと。
レイチェル・クランは知っている。けれど黙して語らない。何故なら今、レイチェル・クランはただの王宮侍女に過ぎないから。
いや、とレイチェルは頭を振る。それも結局言い訳だろう。音を立てぬよう滑るように王宮を抜ける彼女の口もとには薄らと笑みが刻まれている。
陽はとうに沈んでいた。就業時間の終わりを告げる鐘が鳴って、もうどれくらい経っただろう。各部署の執務室は愚か廊下すらも閑散として、すれ違う人もほとんどない。ただ風に、レイチェルが過ぎる時に揺らぐ蝋燭の灯火がゆらゆらと影を動かしていた。
不審番の兵がうろつき始めるにはもうしばらく時間がある。目的の場所を目指して足を速めていると、ふと、視界の端に騎士の一団が引っ掛かった。
あれは。レイチェルは目を細める。外壁に近い位置にいるおかげで、蝋燭よりも大きく明るい松明の下、鮮やかな赤髪が見えた。カミラ王女だ。
こんな時間にあんな場所にいるということは、どこかへ出ていたのだろうか。副官のディオンに何事か指示を出し、大勢の男達を引き連れる姿は王女と呼ぶよりは女将軍と呼ぶ方が相応しい。頭の堅い貴族連中には眉をひそめられている、この王宮の名物だ。
女学院時代の王女の姿を知るレイチェルは、彼女の姿を見るたびに何とも言えない気持ちになる。何と言えば良いのか。小学校時代の知り合いがガラリと雰囲気を変えてテレビの向こうで芸能人になっているのを見る感覚に近い。好悪に関わらず、現在の姿とまったく違う状態を知っているのに、記憶とは大違いの評価を受けている昔馴染みというのは他人事ながら面映ゆいものだ。
それを言うならばあの子もそうかとレイチェルはつい先ほど帰宅するのを遠目に見届けたばかりの幼馴染。友人と言うには躊躇いがある。五歳になる前からの腐れ縁と言うのが正しいだろう。ライラ・アーヴィング。今は第二兵団のある小隊長に補佐官として務めている、王女様の元ルームメイト。
ライラについて考えれば、まず真っ先に出てくるのは「紫の上計画」という単語。何を隠そう、レイチェルとライラが親しく言葉を交わすようになったきっかけのセリフでもある。
彼女の家庭環境は複雑だ。血の繋がらない父親の溺愛ぶりは親子愛と主張するには些か過剰に見えた。父親の方がまだ若く容姿も整っていたからこそ、「こいつロリコンじゃないだろうな」と胡乱な目になってしまったのも無理からぬことだろう。その結果、思わずぽろりと「……紫の上計画?」とこぼしてしまったことだって悪くない。ないったらないのである。
そのおかげでレイチェルとライラがお互い同じ異世界で生きていた前世を覚えていることもわかり、いわば同胞意識から何かと「脱・紫の上計画」のために助言を重ねる程度には親しくなったのだから、何が幸いするかわからないものである。
幸い。さてライラとの付き合いはそう判断して良いものかとレイチェルは悩む。
学生時代、本人の自己評価はどうあれ、ライラ・アーヴィングという人物は常に一定の注目を集める少女だった。もちろん容姿ではない。金茶の髪と緑の瞳は珍しいといえば珍しい配色ではあるが、とりたてて話題にするほどでもなく、では学力かと言えばそちらも違う。体術の成績もパッとしなかった。生活態度だけは優秀な、地味で目立たない生徒のひとり。
それが何故注目を集めていたのかといえば、それはひとえに彼女の周囲の人間のせいである。
幼稚舎の頃は血の繋がらない父娘という、その家庭環境のせいで。進学した先では身分を隠した王女のルームメイトになってしまったのが運の尽き。無自覚に傍若無人だった王女が周囲の学生とすんなり馴染めるはずもなく、板挟みになった揚句腹部を擦って浮かない顔をしていたことは両手の指の数では足りないほど。極めつけは、女学院教師になった後のあの事件だ。
(おかげで、私までちょっとした有名人だったし)
あれはいただけない。レイチェルはあくまでも黒幕系女子を目指しているのだ。端役とはいえ、表舞台に立つのは本意ではないのだ。
同じ理由で、王女たちの一団に気づかれる前にレイチェルはその場を後にした。そもそも、目的の人物は彼女達ではないのだから。
入り組んだ王宮の廊下。けれどレイチェルは迷わない。人の気配がするたびに身を隠すように右に左に曲がり時に遠回りもしながら、ようやくたどり着いた先で彼女はひとつ息を吐いた。
眼前には他と変わりない木製のドア。事前に決めておいた通りのリズムでノックをすると、パッと開いてレイチェルを招き入れた。
一歩室内に入れば、背後でドアが音もなく閉まる。その魔法の無駄使いに、彼女は呆れてこめかみを揉んだ。
「ドアくらい自分で開け閉めできますわ」
「そうかい?」
ふわりと今度はティーセットが浮く。香り良い湯気を立てる紅茶が注がれ、もう何を言っても無駄とレイチェルは諦めてソファに身を落ちつけた。
勧められる前に座るなど、侍女としてではなく淑女としてもマナー違反なのだが、相対する相手に気にした様子はない。眼差しだけでティーセットを自分の方にも寄せ、紅茶を飲んで満足そうに寛いでいる。
ランプシェード越しの光は茫洋としている。もうカーテンを下ろしているのか、室内はけして明るいとは言えなかった。
だが、それもいつものこと。仕事終わりの一杯――それが酒類ではなく紅茶であることにレイチェルは不満を覚える――を相手が堪能し終えた頃を見計らい、レイチェルは「それで」と口を開いた。
「感想を聞かせていただけると嬉しいですわ」
「感想?」
「お会いになりましたでしょう? 例の新将軍と」
ああ、と相手はそれでようやく得心したようだった。
レイチェルが尋ねるまで、すっかり忘れてしまっていたらしい。聖人面してさらりと人でなしだこと、と嫌味のひとつでも言ってやろうかと思ったところで、相手はふっと口角を上げた。
「そうは言っても、挨拶くらいしか言葉を交わしていないからな。感想もなにもないんじゃないか?」
「まあ、白々しいですこと」
きっとこの男をよく知らない人間なら騙されるのだろうとレイチェルは思った。人の好さそうな顔。それがこんな風に眉を下げて困り顔をすれば、大抵の人間は仕方がないなと許容してしまうに違いない。
だがしかし。仕事柄関わる機会が増えたことでこの男の一筋縄ではいかないところを知っているレイチェルにとって、そんな男の表情など犬に食わせてしまいたいほどにどうでも良いものだった。
「貴方がわざわざ顔を出したこと、何の思惑もなかったなんて主様は信じませんわよ、ユリウス・フォン・ソルヴェール」
レイチェルの言葉に、ソルヴェールは参ったなと首裏に手を当てた。
ソルヴェールの持つ肩書きは少なくない。王立女学院理事長、王立騎士養成学院並びに王立魔術学院理事、ソルヴェール伯爵、王宮財務官。いったいいつ休んでいるのかとレイチェルですら疑問に思うが、いつ見てもソルヴェールには疲労の気配が微塵もない。
結局、コレはこういう男なのだ。整然と整頓された机上に並ぶ書類たちがすべて処理済みであることを見て取ったレイチェルは思う。チートはこれだから嫌だ、と。
「私は本当に、ライラに会いたかっただけなんだが」
それは嘘ではないだろう。レイチェルも彼女の「主様」も、彼のライラに対する恋情だけは疑っていない。有能過ぎて何を考えているのかわからない男であることに変わりなくとも、タチの悪い遊びはしない男だ。誰に憚ることなく自分の好意を示すことができる神経は理解できないが、悪いものではないとレイチェルは思っている。
だが、それをそうかと鵜呑みにすることはできない。レイチェルは意識して笑みを作った。
「それだけですの?」
そうではないだろうと無言で問いただす。ソルヴェールは背もたれに体を預けた。
「君は相変わらず友達想いだな、クラン君」
「お黙りくださいませ色ボケ伯爵サマ」
「何だい、それは」
「ご存知ありませんの? 貴方の新しいあだ名ですわよ」
名づけ親はどこぞのひねくれた弟か親馬鹿伯爵辺りだろう。色ボケ、実に的確にソルヴェールのことを言い表した言葉ではないだろうか。
(まったく、面倒な相手にばっかり好かれるわね、あの娘)
これもある種の才能だろうか。まったく羨ましくないので是非死ぬまで自分ひとりで保持してほしい。間違っても誰かに押し付け……もとい、譲ろうだなんて思わないといいのだが。
色ボケか、と苦笑するソルヴェールが嫌がるどころか恥ずかしそうにしながらもやや嬉しがっているのを見て、レイチェルはなんだか憐れなものを見る気分になった。顔良し家柄良し人柄(多分)良し、おまけに稼ぎ良しと三拍子どころか四拍子も五拍子も揃った優良物件が、どうしてあのライラにここまで惚れこんでいるのだろうか。
「度し難い方ですわね」
「それは君も同じだろう、クラン君」
「一緒にしないでくださいませ。私は誰にも色ボケておりませんわよ」
なんという侮辱なのか。眉をひそめるレイチェルに、そういう意味じゃないよとソルヴェールは首を振る。
「女学院を出た子達の進路は様々だけど、君の就職先は流石に史上初だったからね」
「心外ですわね。女学院出の王宮侍女なんて、それこそ掃いて捨てるほどいらっしゃるのに」
「だが、君は違うだろう?」
何て事ないように、ソルヴェールは言う。ライラはゆっくりと瞬いた。
(だからチートは嫌いなのよっ)
知られていることは知っていた。だが、暗黙の了解でそれを指摘し合うことはなかったから。いや、それも言い訳だろう。ただ油断していたのだ。今さら、ソレをソルヴェールが言ってくるとは。
「……そういうところがライラに敬遠されるんですのよ?」
「わかってるさ」
意趣返しにも堪えた様子はない。卒がなくて腹立たしい奴だ、と以前「主様」が言っていたことに心の底から同意しながら、ソルヴェールの勧める新しい紅茶を断る。
彼は自分の分だけ紅茶を淹れ直したらしい。香辛料の匂いが僅かに香ってきた。視線を向ければ、ティースプーンがくるくると回ってミルクと砂糖をカップに混ぜ入れているのが見えた。
「ひと月経たずに終わりそうだな、と思ったよ」
ソルヴェールはひと口だけ紅茶を飲んだ。
視線を向けたレイチェルを彼が見返すことはない。甘味が足りなかったのだろう。再びシュガーポットを引き寄せて、さらにひと匙砂糖を加える。
「最終的な判断がどちらに触れるにしろ、上手くいけば半月もせずにひとまず結論が出るのではないかな」
「それは、『ソルヴェール伯爵』としての判断ですの?」
「あくまでも個人的な見解だよ」
公の発言にするつもりはないのだろう。その言葉に苦笑めいた響きを感じて、レイチェルは瞳を細める。
「貴方が余計なことをしてくれたせいで、その通りになりそうですわ」
「余計なこと?」
「だから、白々しいですわよ」
それとも、自分がしたことは「余計なこと」などではないと言うつもりか。
レイチェル・クランは知っている。ユリウス・フォン・ソルヴェールという男が、ただ有能な好青年というだけではないということを。
レイチェル・クランは知っている。先日将軍位に上がったばかりの少年を取り巻く、様々な思惑を。
レイチェル・クランは、知っているのだ。




