王宮侍女レイチェル・クラン
「クラン嬢」
呻くようにという表現ぴったりの声音で、エーダー大将軍がレイチェルを呼ぶ。
流石に名前を呼ばれれば我に返ったのか、レイチェルは不気味な含み笑いを一瞬で王宮侍女に相応しい優雅な微笑に変えた。「何でしょう?」と小首を傾げるオプション付きで。
うむ、プロである。ただ、さっきまでの奇行のせいでわたしとエーダー大将軍にとってはそれも不気味にしか見えないけども。
エーダー大将軍は何かを言おうとして、でも諦めたように口を閉じた。ため息がひとつ。落ちた肩には哀愁が漂っている。
「とにかく、ゲインズを頼む、アーヴィング補佐官。クラン嬢も」
「はい」
「お約束はしかねますが」
エーダー大将軍は、アレク君を応援しているらしい。
わたしはともかく、レイチェルにアレク君のことを頼むのはセーフなんだろうか。わたしはレイチェルが今回の件でいったいどんな役割を担っているのかすら知らないから、わからない。
そもそもどうして彼女がここにいるんだろうか。去っていくエーダー大将軍の背中が見えなくなってからレイチェルに向き直ると、彼女もまた同じようにわたしに向き直り、くふ、と含み笑いをこぼした。
「五日ぶりだねえ、ライラちゃん。ど? 苦労してる?」
「わかってるなら聞かないでよね」
まったく、相変わらずイイ性格をしているようで。
「いやあ、やあっと本編が終わったと思ったら、まさかこんな落とし穴があるなんてー」
「その感想、棒読み過ぎるんだけど」
「他人事だからねえ」
にしし、と歯をむき出しにして笑う笑顔は、はっきり言って王宮侍女失格である。もしここが女学院で、わたしが教師だったのなら注意しているところだ。
人をからかって遊ぼうという気合いが透けて見える表情に、わたしはむっと唇をへの字に曲げた。
「まあ、そうじゃなきゃハーレムエンドなんて問題山積みのなし崩しエンドでしかないからね。リアルにこの世界を体験している身としましては、その後があるなら解決はそっちに後回しされるのは当然の結果なんでしょ」
「ゲームにそんなリアルさいらないよ」
「何言ってるのさライラちゃん。だから現実なんでしょ」
その通りだ。わたしは沈黙するしかない。
レイチェルはわたしを面白そうに見下ろして――悔しいことに、彼女はわたしより五センチ以上背が高いのだ――くるりと瞳を回してみせた。道化のように。
「常々液晶画面の向こうに行きたいと願ってやまなかった流石のレイチェルさんでもびっくり仰天、驚き桃の木山椒の木。二次元の虚構だと思ってた場所に、こうして立ってるだなんてさ」
これならまだ、死ぬほどリアルなヴァーチャルゲームのプレイ中って方が、よほど納得できるよ。
そう言うレイチェルの瞳は読めない。わたしは小さく息を吐いた。
「テンプレ通りに悩んでみせればいいのかな、わたしは」
「それはおよしよ、よし子さん。不健全で非生産的だ。それならいっそ、不謹慎に楽しんで、いっそ踊ってしまえばいい」
「わたしは踊らされる役だよ、レイチェル」
「今は、でしょ?」
大したことのないことを大げさに言うのはレイチェルの癖だ。彼女曰く、厨二病が治っていないからだとか。「一生現役(厨二病的な意味で)!」という宣言通り、多分こういうところは変わらないんだろう。
学生時代、将来の夢について作文を書く課題があった。わたしは無難に「花嫁さん」と書いてお父さんに全力頬ずりの刑をされたけれど、目の前にいるレイチェルは「黒幕系女子」と書いた強者である。だから余計に、色んな耳がいるこの場でこういう言動を取るのが楽しいんだろう。
ちなみに、その彼女の夢は教師の説得でも両親の叱責でも頑として譲られることはなかったのだが、わたしがぽろりと「本当の黒幕は自分からそれを言っちゃいけないんじゃない?」と指摘したら、以来パタリと言わなくなった。まあ、言わなくなっただけだということをわたしは知っていたりするのだが。
ちらりとレイチェルが視線を動かす。わたしの右斜め後ろ、左側、食堂扉、中庭の植え込み。腕を組み、そのまま左手の人差し指が右腕の二の腕を叩いたのは六度だった。
「お昼食べに来たんでしょ? いつまでもここで立ち話っていうのもアレだし、とりあえず食堂入ろっか」
今度は二度。
レイチェルはわたしが返事をする前にさっさと歩きだしてしまう。こういうマイペースなところも、学生時代から変わっていないらしい。
今更文句を言う間柄でもなし、わたしはおとなしく彼女の後について行った。
……わたしが言うのも何だけど、兵団の制服を着た男の人達の中に侍女服ひとりってかなり異様な光景だ。
兵団は市街地の治安維持も担っているため、揉め事があった時にすぐ兵団員だとわかるように、隊服は鮮やかな浅葱色だ。以前はもっと奇を衒った目に痛いド派手な色だったらしいが、戦闘職の制服は消耗が早い。制服は国からの支給品でもあるので、染料で染めるだけでも予算が馬鹿にならないと過剰に濃い色の隊服は廃止され、現在のような色に落ち着いたのだという。でも浅葱色。わかりやすく言うなら有名な新撰組の隊服の水色。わたしにはそれでもまだ派手だと思うのだが、以前の隊服とやらはどれだけ毒々しい色をしていたんだろうか。
対して、侍女服なんて地味なものである。前世で一部の人達に受けたメイド服のような装飾はもちろんない。スカート丈も長い。流石に王宮侍女の制服は素人目にも仕立てが良いとわかるものだけれど、それ以外は至ってシンプルな濃紺のドレスだ。附属品は白いエプロン。ヘッドドレスの代わりに、掃除の時には白い布で頭部を覆っているのを見たことがある。
兵団の隊服が明るい色だから、レイチェルの侍女服の暗色が異常に目立つという相対的な効果に、わたしはしぱしぱと瞬きを繰り返した。
(それでも、補色関係にある二色を並べるよりはずいぶんマシか……)
噂では、騎士団内のとある部隊では、隊服と腰帯兼剣帯の色を補色同士にしているのだとか。確か、赤と緑だったっけ? どっちが赤でどっちが緑か、デザインの如何によっては賛否のわかれる隊服だろう。
「あそこが空いてますわ」
レイチェルが食堂の隅を指さす。あ、ここからはまたその口調で話すのね。
厨房と繋がるカウンター越しに注文すると、ほとんど待たずに受け取ることができた。わたしが頼んだのは二種類ある定食の内あまり胃に負担がかからなさそうな方。野菜スープがいい匂いだ。
昼食の入ったトレーを持って移動する。昨日は少し早目に昼食を取ったからそうでもなかったけれど、今はまさにお昼時。食堂はなかなか混み合っていた。
レイチェルは慣れた様子ですいすいと人の間を縫って先に進んで行ってしまう。わたしは遅れないように彼女を追って、時々人とぶつかって謝ったり謝られたりしながらなんとか目当てのテーブルまでたどりついた。
「兵団員用だから量が多いのですけれど、こちらの方が私好みのメニューが多いんですの」
「昔から肉好きですからね、貴女は」
「羊肉は故郷の特産品ですもの」
ああそうそう。ついでに蛙肉のフライとかも名物だったよね、確か。
食用蛙の捌き方を鬼気迫る様子で勉強していたレイチェルの学生時代を思い出すと、そこはかとなく切ない気持ちになるようなならないような。
一匹ごとが小さいからどんな僅かな肉も無駄にできないんだと熱く語って、クラスメート達にどん引きされていたのも今ではいい思い出だ。わたし? どん引きじゃなくて遠い目をしてただけだよ。無駄に詳細なレイチェルの描写でわたしの想像力が働かないよう必死に堪えてた。何人かの想像力豊かな子は青ざめて今にも卒倒しそうな顔色だったなあなんてことまで覚えてる。
「ひょっとするとひと月も要らないのではないかと主様は仰ってましたわ」
「――…そう、ですか」
呼び動作無しでの話題転換に、一瞬反応が遅れる。
レイチェルは平然と食事を続けながら、つい、と猫のように瞳を細めた。
「あまり嬉しくなさそうですわね?」
「早く終わるからといって、その結果が最善であるとは限らないでしょう」
「相変わらずの悲観主義ですこと」
ええい、なんとでも言え。
生来ポジティブな人間じゃない上に、石橋を叩いて叩いて叩きまくって迂回路を探すチキンハートの持ち主なのだ。レイチェルの「主様」が誰かは知らないけれど、どうしてお試し期間が短縮されるのかを考えると、楽観視なんかできないだろう。
まだ二日。されど二日とでも言うのだろうか、わたしやレイチェルの後ろで糸を引いている誰かは。
「私が今日、あの場所で貴女と会ったことは、少なくとも悪いことではありませんのよ」
「今こうして一緒に昼食を取っていることもですか?」
「友と食事を共にすることに、良し悪しがありまして?」
「あるでしょう、今は」
「うふふ」
周囲にいる兵団員達が聞き耳を立てているのがわかる。素人のわたしにもわかるくらいって、大丈夫なのかな、諜報任務とかの時。
例えば今カウンターのところで固まっている同年代くらいの兵団員の集団なんかはわかりやすくわたし達に警戒心むき出しの視線を投げてきていて、さらにそこから少し離れたところではそれよりは年嵩の人達が苦笑を浮かべてそれを眺めている。不自然にわたし達の周囲にある席だけ人がまばらで、兵は拙速を尊ぶはずなのに不自然にスプーンの運びが遅い人がちらほらいたり。ううん、わかりやすい。
その中でも一番厄介なのは正面にいるわたしにしか見えない位置で小さな手帳に何事か忙しく書きつけているレイチェルだけど。何を書いてるのかは聞かない。これ以上妙なことに関わるのは御免だ。
「よくそれで食事ができますね」
「三刀流の剣士に憧れた時期がありましたの」
「なるほど」
つまり、テニス漫画にはまってテニススクールに通うようなものだね?
「両手を同じくらい使えるように訓練すると、諸々便利ですわよ」
もっともらしいことも言ってるけど、レイチェルのことだ。動機の八割は先に言った方だろう。
半目で見やると、華麗に無視された。どうやら図星らしい。あまり突っ込むと怒涛のような萌え語りが始まるので、話題を早急に変える必要がある。
さてどうするかと視線を転じたところで、食堂に見覚えのある小柄な影が紛れ込んでるのを見つけた。
「アーノルド?」
アレク君家の最年少下男が、どうしてこんなところに。
わたしがアレク君の補佐官になった初日こそ、荷物持ちとしてここまで同行していたけれど、あれはあくまでも初日だったからである。細々とした事務用品その他は、今はアレク君の執務室の然るべき場所に整理してある。
今朝スチュワードさんと確認した使用人への仕事の割り振り表を思い出してみる。アーノルドは、まだ下男といっても見習い扱い。できるだけ早く仕事を覚えられるようにと、ベテランのスコットとペアを組ませていたはずだ。
でも、見た限りそのスコットはいないようだ。兵団の詰所とはいえここは王宮の一角。いないことの方が自然なのだけれど、そうするとでは何故アーノルドはここにいるのかという疑問に戻ってきてしまう。
「知り合いですの?」
「顔と名前は知っています」
ああ、悪い顔。
わたしの視線を追いもしないレイチェル。でも、その瞳は好奇心にきらめいている。
迷ったのは十秒くらいのことだった。
残りの昼食を片付けて席を立つ。レイチェルの視線が追いかけて来るのに小さく肩をすくめて、彼女にだけ聞こえるよう先に小声で文句を言っておく。
「子どもを使うのは卑怯なんじゃない」
「適材適所よ、ライラ」
なら、これからわたしがすることも適材適所だからわたしが選ばれたんだろうか。「選ばれた」というよりは「狙われた」の方が、わたしの心情としては正しい表現だが。
自分より遥かに背の高い大柄な男達に囲まれて委縮する子ども。見なかったフリができるほど、わたしの心臓は頑丈じゃないのだ。
「ここにいたんですか、アーノルド」




