大変な御留守番・3
国母アルティンの弱点は三つある。軍事を掌握できなかった事と皇族たちを味方に出来なかった事、それに行き当たりばったりの課税で多くの民衆の反感を買った事だ。
そのどれもが命取りになりかねない条件だが、先帝さえ長生きすれば軍事の掌握と皇族の過半数を味方につける事は可能だったろう。
「先帝陛下の御病気が快方に向かっていると信じていたようです」
ハキムの分析は恐らく正しい。
とはいえ、国母側だって手をこまねいていたわけではない。保守派の牙城で完全な男社会の軍隊にも、国母は自分に味方する軍人たちの派閥を作りつつあった。自分の派閥に取り込める可能性があると見た人物の周辺に、金品をばらまいたのだった。
だが、そういった賄賂攻勢でなびくような者は、ろくに使えない連中ばかりだったようだ。
「軍人として有能な者は、国母の関与を苦々しく思うだけでしたからな」
そこで次は、自分の生まれ故郷であるブルス出身の軍人グループに様々な便宜を図り、接近を図った。ブルスの有能な若者が軍人を目指すように、様々な工作もした。その結果、少なくとも一時期は軍内部にも相当な数の国母派が出来た。
だが、現在、その状況は大きく変わっている。
アルティンと同じくブルス出身の将校の数は現在は過半数を超えたが、それらの将校が全員親アルティン派とは言い難い。今や軍のブルス閥は若手を中心に、反国母に傾きつつある。
そうなったのは、アルティン自身の行いの所為なのだ。
国母の称号を賜って以降、特にここ数年の事だが、アルティンは自由民の女に自分の身の回りの世話をさせるようになっていたようだ。
「奴隷女は手癖が悪い者が多い」とか「奴隷女は物欲しげで目つきもいやしげだ」とかアルティンが言ったとか言わなかったとか噂されているが、自分の過去の事は棚に上げて笑止千万ない言いぐさだと受け止める者は少なくない。
ハキムなどは「自由民の若い女をつき従わせる事で、昔の憂さを晴らしているのかもしれませんな」などと言うが、当たりかもしれない。
女官や女奴隷を細い鞭で衣服の上から十回程度打たせて罰するのは良くある話なのだが、当然ながら鞭打たせた理由というのが妥当か否かで、周囲の受け止め方はまるで違う。真っ当なしつけの範囲を逸脱すれば、やはり非難される。
アルティンは新入りの女官の給仕の際の態度が気に入らなかったとかで、衣服を剥いだ上に厳つい宦官に家畜用の太い鞭で思い切り打たせたとかで「あまりにひどい」とうわさになった。 打たれた後、翌日にその女官が亡くなったために、悪評は一気に外部にまで広がった。
その鞭打たれて死んだ女官の腹違いの兄や弟は軍の若手将校となっていた。その事実をアルティンが知らなかったはずはない。だが、その重要性を正しく認識できていなかったのだろう。
殺害された女官の兄弟の怒りは激しく、若手将校を中心に軍内部に国母に断固抗議すべきだという声が巻き起こった。そのため結束の固い軍のブルス閥は一気に国母アルティンへの反発を高めた。
以前から大宰相ハキムによる軍部の切り崩し工作は行われていたが、過半数を占めるブルス出身者は義理堅い者が多く、郷土意識も強く上手くいっていなかったらしい。だが、アルティンが自分自身の愚かな行いで自分の首を絞める格好になり、同郷の軍人たちの指示を一気に失ってしまった。それ以降、ハキムの切り崩し工作は面白いように進んだらしい。
そんな事態を恐らくアルティンは予想していなかった。利口なようで馬鹿な婆さんだ。
現在、国母アルティンがあてにできる武力は、自分の住まいを警護させている親衛隊の連中だけだろう。金品でなびいた人間は、旗色が悪くなって来ると真っ先に逃げ出す。
一方で親父様のほうは、ガッチリ足元を固めつつあるように見える。だが、その力はまだ限定的なのだ。国母を正面切って追放できるほど十分には強くない。だが、現在の皇太子である俺を殺害しようとした事で、追放する条件は整うのかもしれない。
「ただ今の皇帝陛下がご英邁であられるのが、何よりも国母にしてみれば不都合なのでしょう」
えいまい?
まあ、賢くて出来がいいって事だよな。
親父様は慈悲深いとか穏やかとか言うタイプじゃない。自分にも他人にも厳しい。少なくとも軍人たちの支持率が高いのは確かだ。だが、その親父様でもハーレムから国母勢力を完全には排除出来ないでいるのだ。
「親父様のハーレムって、子供を産んだ女は六人だっけ?」
「六人とも殿下をお生みになったアイシェ殿が亡くなられてから、おいでになった方ばかりです。ですが殿下、私やナフィア以外の者の前でその話はなさらないほうがよろしいですぞ」
「うん。そうだね」
「わかっておいでならよろしいのです。で、何がお聞きになりたいのですか?」
「国母と通じてそうな女が、どの程度いるのかと思ってさ」
「どの方も自分の子供を世に出すためなら、色々な算段をいたすようですが……」
「例えば俺が即位したら、自分の生んだ子供は幽閉されるんじゃないかって疑ってるんだろうかな」
「それはあるでしょうな」
「なら、俺の腹違いの弟たち妹たちの将来の安全を約束したら、国母につけこまれる危険がかなり減るんじゃないの?」
「確かに、良いかもしれませんな」
「今まで親父様は、その話、女たちにしてないのかなあ」
「多分なさってないですな」
「なぜ、そう思う?」
「戦では負けた事が無い方ですが、女同士のもめ事に割って入るのは嫌だと仰せでした」
「一番のお気に入り以外は、外に出せばいいんじゃないのか?」
「それが、特にお気に入りと言うほどの方は後宮にはおられないようでして」
「そういやあ、出陣した先に色街の女たちがついて行ったって噂で聞いたけど、親父様もそういう女たちと親しいわけ?」
「はあ、まあ、馴染んでおられる店があるようですが……市中にお忍びに出られた折のお休み処と申しますか、どちらかと申しますとその店の女たちよりも女将の気性がお気に召したようです」
なんでもその女将は西の大国バビア王国の出で、父親は騎士だったそうだが、家に出入りしていた男に騙されてソリエラで売られてしまったらしい。そこからさらに売り飛ばされて、このシムルグ帝国の都であるウルスの色街に落ち着いたようだ。
「元は帝国の言葉もおぼつかぬ最下層の遊び女であったのですが、先代の女将に気に入られて親子の縁を結び、先代の死後はその後をついだと聞き及んでおります」
もとから色街でも一番の大店だったが、今の女将がさらに店を大きくしたらしい。
従来はいわば奴隷と言うか本人の意思に反して娼婦になったものが大半だったのだが、女将は納得ずくで稼ぎたい自由身分の女達も働けるような店を作ったのだという。もともとそうした自由身分の女が自発的に娼婦として働く店は、西の国々にはあったらしいが、女同士の揉め事や女の家族とのトラブルが絶えない物らしい。
やり手の女将は働く女の秘密を守り、キッチリ期限を切った年季奉公の形を取ることで、西の国々の色街で頻発するタイプの揉め事をシャットアウトしたのだ。
その評判が暮らしに困った自由身分の女達の間に広まった結果、いつでも水準以上の女達が確保できるようになったのだそうだ。
「父や夫を亡くした女が働ける場所と言うのは、わが国の場合ほとんど無いに等しいのでして……私も色々手を尽くしましたが、女が男のように働くのは、国の習俗になじまないとか言われてしまいますからな」
女でも働ける堅気の職場なんて、どこかの邸の使用人になるぐらいの物だろう。その数少ない勤め口だって、女奴隷同然の扱いを受けたり、雇い主やその家族による暴行を受ける事も珍しくないというし、農林水産業や工房での仕事も女が中心になって働くのは、法で禁じた訳でもないのに「この国では有り得ない」ものらしい。あくまで家族や親類縁者の手伝いレベルの仕事しか、女にはさせないのだ。
「手に職をつけるにしたって、女の場合は簡単にはいかないんだろうしな」
「はあ。この国では女の職人も商人も認められてはおりませんし、百姓をやるのも漁師をやるのもあくまで男の手助けと言う形でしか許されませんから……困ったものです。別に女が働くのを禁止する法が有るわけでもないので、女が手に職をつける授産所を設立しようと頑張った事も有ったのですが、伝統に反するだの先例が無いだの言われて断念致しましたから」
「もっと粘ればよかったのに」
「私は属州の奴隷身分からの成り上がりなので……」
「古い家柄以外、何のとりえも無い爺さんたちが足を引っ張るんだな?」
「はあ。まあ」
ハキムは苦笑している。子供にしちゃあ俺の口調がませているからだろうか。
「ハキムも苦労するなあ。西の国々のように、女の働ける場所があった方がいいと思うんだけど」
「この国の大半の男たちは、嫌がりますなあ」
この国において女が表だって働くのを嫌がるのは、古い家柄のお歴々だけでは無い。下々の男までがそうなんだから、言わば外国人のハキムが女の職場の必要性を訴えても、なかなか協力が得られないという事らしい。
それだけ男尊女卑の気風が染みついた国柄なのだ。
「となると、生き残った女たちが働く場所って、色街とかそういう場所しか無いんだな」
「再婚も、子供や病人でも抱えていますと難しいですからな」
「再婚したって、夫が酷い奴かもしれないし」
「そうなのですよ。気立ても良く裕福などと言う男が不幸せな女の数だけいるはずもないのでして、酷い男に嫁ぐぐらいなら、泥水稼業でも自分で稼ぐ方がマシだと思う女も多いようです。ですが、そうした稼業は命の危険と隣り合わせでして……」
ハキムは子供相手なので一応言葉を選んではいたが、早い話が「やられ損」になるどころか、身ぐるみはがされた上に外国の奴隷商人に売り飛ばされてしまったりするケースが相当に多いらしい。
「だから安全な場所を提供する商売が成り立つんだよな」
「まあ、あの女将は自分の稼業を『一種の人助け』と申しているようですが、確かに一理あるようです。他の店ですと、女の秘密が十分守られなかったり、賃金の支払いがきちんとされなかったりでして、自由身分の女が自分から娼婦を志願出来るような状態にはなっていないようです」
「つまり、その女将は娼婦たちに信用されているって事だね」
「さよう。なかなかに目端の利く、世故にたけた女の様です。そうした部分も陛下はお気に召しておいでなのでしょう」
「じゃあ、年中揉めている今のハーレムの女たちは、誰もあまり信用してないとか、そういう感じなの?」
「そのようですな」
「でも、それって一種の逃げだよな」
「陛下は頑張っておられるとお思いますぞ。どの方も、いわば押し付けられた方ばかりですからなあ……。見目麗しい方ばかりだとは聞き及びますが、御気性の方が色々問題が有るようですし」
つまりこうだ。
親父様のハーレムにいる女達は、もともとは隣接する国のよこした人質か、さもなくば国内の有力者が献上した奴隷だったりで、親父様自身が選んだわけではない。それぞれの女達は各自自分をハーレムに送りこんだ勢力のいわばスパイ的な側面も持ち合わせているので、親父様としては気が抜けない相手でも有るという事のようだ。
「でも、やる事はやっちゃってるんで、六人全員が子供を産んでいるんだよな」
「これっ、さような事は口になさるべきではありませぬ」
親父様の女関係をくさすような言い方はNGなんだよな。基本。
でも、大して好きでもない女相手に子供作っちゃう親父様も親父様だと思う。
よーやるわ、全く
ハキムが山ほどたまっているらしい仕事をしに戻った後は、俺は新しく俺付きになったラナに茶を淹れてもらったり、風呂の介添えをしてもらったり、夕食の給仕をしてもらったりして、寝るまでほぼ二人っきりだった。
「なんでも私以外の御世話役の者の身元調査が十分ではないとの事でして……」
ラナはそれ以上の事を言い出しにくそうだ。
「つまり、これまでの世話役の婆さん連中の内、誰が国母と内通しているのかいないのか、その辺もはっきりしない、そういう事だよな?」
「そのようです」
「衛兵やら護衛やら、どうなってたんだろうなあ」
「そのあたりも旦那様、えっと、宰相様がただ今念入りにお調べになっているようです」
「そっか……ね。旦那様ってのを言い直したのって、今日から俺がラナの旦那様だから?」
「殿下にお仕えするようになりましたから、宰相様と申し上げるべきかと思いまして……」
「じゃあ、今は俺が旦那様って事だよね?」
「殿下は尊い御身分で、特別なお方ですから、旦那様とはお呼びできませんが」
「二人きりの時ぐらい、殿下という呼び方を止めてもいいじゃないか」
「どうお呼びすべきでしょうか?」
「名前が良いな。呼び捨てでもいいよ」
「まさか、そんな。では、カリム様」
あー、そうなんだ。
俺ってカリムって名前だったな。
呼ばれるまで忘れていた。いや、忘れてたことすら忘れてた。
平成日本のサラリーマンだった頃の名前って、あれ? 思い出せない。
どうなっちゃってるんだろうか?
「カリム様? いかがなさいました?」
「いや、何か大事な事を忘れてるみたいで、ちょっと気になったもんだから」
綺麗なおねえさんに、心配そうにじっと見つめられるのってなんか悪くないかも。
そういやあ、俺ってどの程度の顔なのかな?
さっき船の上では婆さん達が取り巻いて身支度したから、鏡なんて自分でチェック出来なかったからなあ。あんまり残念な顔じゃありませんように!