大変なお留守番・2
船着き場は巨大な岩山の自然なくぼみを利用して作られている。海面の高さから、これから向かう邸までは岩山に作られたうねうねと長い階段を登る事になる。リフトやエレベーターなんて気の利いたものはこの世界には、まだ存在しない。
「輿をお使いになりますか?」
帝国では椅子に二本の長い棒を取り付けたような形の輿が、都市の内部や上流家庭の邸内部での移動に使われる。主に体の弱った老人か女子供の乗るものだ。元来が軍事国家であるこのシムルグ帝国では、健康な成人男子は輿になど乗るべきではないとされている。特に現役の軍人は絶対に乗らない。軍人にふさわしいのは馬で、馬に乗れない場所は徒歩で移動すべきだと考えられている。ハキムのような白髪が目立つ年齢なら、輿を常用してもおかしくはないのだが「性に合いません」と言って、乗ろうとしない。
「いや、いらない。歩くよ。ハキムが歩くのに、自分だけ輿っていうのも、軟弱な感じで嫌だな」
「それは良いお心がけです。ですが、この階段は長いですから、お足元に十分お気を着け下さい」
「わかった」
親父様が戻るまで、一か月かそこらはかかると見た方が良いだろう。
俺の身を守るためにハキムが用意した邸は、元来は首都防衛のための砦だった場所で、狭く細長い入り江をはさんで宮殿を見下ろせる高台というかでかい岩山の上に建てられた石造りの頑丈な建物だ。
ハキムは予め色々なケースを想定していたようだが、アルティン自身が俺の殺害を企てた事を示す証拠集めにはこだわっていないようだった。
「ともかくも、殿下が御無事なのですから、国母側は半ば負けたも同然です。先帝陛下が御存命の頃は、軍にも国母の力が及んでおりましたが、今はそうは参りません。ただ今の宮殿で武器を持つ事を許されたすべての人間は、私が任命した者たちです」
「でも、国母が身辺警護のために雇い入れた者たちなんかもいるだろう? 実際、俺、ええっと私は殺されかけたわけなんだよ」
日頃、俺と言うぞんざいな自称は「皇太子と言う重い御身分にはふさわしくないので、なるべくおやめください」とハキムは言っている。だからあわてて言い直したんだが、それがおかしかったらしくて、爺さんはクスリと笑った。あまり無理するなと言いたかったようだ。
その爺さんの顔を見ているうちに、二十一世紀の日本で二十五年近く生きてきた時の感覚とこの世界で七歳の皇太子をやっている感覚のずれをすり合わせるための違和感が軽くなったみたいだ。白髪の爺さんのくせに、妙に癒し系キャラなのが敵も多い世界で無事に生きながらえてこれた理由の一つなのかもしれない。
「国母宮内部の護衛は、宮中の他の場所へ出入りは禁じてあります。と言っても、その規則を国母宮の連中が守っているとは私も思いませんが、それでも真昼間から大手をふって歩き回ったり徒党を組んでのし歩いたりは流石に出来ません。確かに後宮や皇太子宮の内部にまで、手の者を送りこむ力をあの女は今も持っておりますが、殿下がお休みの際も守り小刀を肌身離さずお持ちだという事を国母側は知らなかったようですからな、少なくとも昔ほどの影響力は無いと見て良いでしょう」
皇太子宮に移る際、俺の周囲に仕える者は掃除や庭仕事の担当者から女官まで、全て直接ハキムが慎重に選んだ。それでも従来なら宮中全体に勢力を張った国母側のスパイに入りこまれていたのだが、今回は排除できたらしい。完全に排除できたのか、様子見の二重スパイぐらいは入り込んでいるのか不明だが、国母アルティンへの絶対の忠誠を誓った者はいないのだろう。
「さあ、着きましたぞ」
「ずいぶん手を入れたね」
休み休み話をしながらではあったが、海面の高さから岩山のてっぺんまで、かなり長い階段を登ってきたので、爺さんも俺も少し息がはずんでいる。元の建物は直方体の石造りで、愛想も何もない非常に単純な構造だったのだが、今見ると新たに搭や回廊も増設され、城壁も門も分厚く頑丈になっている。
「さ、邸の中へ参りましょう。殿下とお話をしていると、ついまだ御年七歳でいらっしゃる事を忘れてしまいますが、まだ冷たい海風に長くあたられては、お風邪を召されるとナフィアが気をもみますからな」
あー
そうか。
俺って、神童って設定なんだった。といったって七歳で日本の中学二年生の学習内容程度をきちんと理解できている程度なんじゃないかと思うが、それでも並みの七歳児よりは確かにかなり賢いんだ。
この世界における上流階級の子弟の一般的な教育の内容は、ほとんどクリアできているからね。操ることのできる言語の数がまだ少ないが、これから頑張ろうと思う。
外から見ると城塞というイメージだったが、内部はバラ色の大理石の床に真っ白い天井の入り口の大ホールをはじめ、なかなかに趣向を凝らした典雅な趣だ。
ナフィアは分厚い絨毯を敷き詰めた暖かい部屋で、暖かい飲み物と菓子などを用意して待っていた。
まずはバラの香りの水というか、冬だからぬるま湯で手を洗う。でかい水さしをいい感じに傾けて俺の手に湯をかけてくれる介添え役の女の子が、これまた実にいいタイミングで清潔なタオルを広げてくれる。ベテランのばあさんたちより、動きにキレがある。キビキビとした動きだが、けっして雑な感じはしない。すらりとした立ち姿が印象的で将来、なかなかの美人さんになりそうだ。
だが、腹が減っていたし、のどが渇いてもいたので、俺の注意は銀の大盆にのせられた物に向いた。
「あー、これこれ、これが食べたかったんだ」
まずは大好物のアーモンドの粉と砂糖と卵で作るしっとり甘い菓子。食事の一番最初にちょっぴり甘いものを摘まむのが帝国式だ。次は汁物と一緒に何か一品食べる。そのあとは特に決まりはないが、出されたものを、なるべくまんべんなく食べ、最後はコーヒーか茶で締めだ。大晩餐会でも、こういう軽い食事でも手順は大差ない。今日は軽い食事だが、見事に俺の好物ばかり揃えてくれている。ナフィアの手料理は宮殿の料理より美味いから、これはうれしい。
「こちらもお好きでしょう?」
ゴマのたっぷり入った小さなパンケーキ。これは軽い塩味だ。
「うん、うまい。このスープもうまいなあ」
「体が温まりますから、たっぷり召し上がれ」
鶏肉と十種類の野菜を煮込んだあったかいスープ、これもナフィアの得意料理だ。
「あっちじゃ、これだけアツアツのスープは食べられなかったから、うれしいなあ」
宮殿でも茶やコーヒーは熱いものが飲めるが、食事のほうは調理場から運ぶうちに冷めてしまう。それはそうと、さっきから給仕役を務めている女の子だが、なんか誰かに顔が似ているような気がする。だが、だれなのか思い出せない。親父様のハーレムの女たちや国母宮の女たちは、うんと幼いころなら俺が顔を見てもよかったのだが、俺が正式に皇太子になってからは成人扱いで、女たちの顔を見る機会は無くなった。それでも、やっぱり以前見た誰かの顔に似ている。誰だろう?
この国では正式の食事は男女別なのだが、普段は家族そろって食べる。今日はそんなに格式ばる様な食事でもないと思うが、食べるのは俺とハキムだけ。そのハキムは老女に何事か耳打ちされて、うなずくと席を立ってしまったから、実質俺一人が食っている感じだ。
「何やら今日は色々ありすぎましたから、ハキムも私も食事がのどを通らない感じでした」
「心配かけたね」
「あの普段穏やかなハキムが、珍しく怒っておりましたのですよ。ご無事を確かめたので、またこれから色々ございますようです」
「俺だけ食べて、何か悪いみたいだな」
「殿下はこれからグングン伸びて行かれる方なのすから、しっかりお召し上がりください。人生の盛りを過ぎてしまった私ども夫婦は、あまり食べ過ぎないほうがよろしいのです。ハキムはさまざまにお役に立てましょうが、私ができますのは、この程度のことなのですから。殿下のお体に良い物を心がけましたが、お口にあったようでうれしゅうございます」
「ナフィアの作ってくれたものは、どれも本当においしいよ」
「まあ、殿下、おやさしい」
ナフィアは良いタイミングで、料理を取り分けてくれたり、口元を拭いてくれたりする。あまりに自然なタイミングなので、ついつい食べ過ぎてしまいそうだ。まあ、七歳の子供で、これから成長するから、食べ過ぎを気にする必要もないか。
俺がパクパク食いながらも、女の子の顔をジロジロ見ているもんだから、ナフィアが気を利かせたのかして、こんな風に言った。
「このラナは私が昨年引き取った子です。浮ついたところが無くて、よく気が利き、万事飲み込みも早く、手先も器用です。それにこの器量ですから将来が楽しみです」
「年はいくつなの?」
「十二歳です。裏表のないまっすぐな気象ですし、無駄なおしゃべりはしません。注意深いたちのようですし、宮中のお勤めにも似つかわしいかと思います」
「親父様に差し上げるの?」
「いえ、それよりも殿下のお部屋付きにと思ったのですが、いかがですか?」
「俺としては、すごくありがたいなあ。今の部屋は孫がいるような年頃の女ばかりだから、あと数年もすると、みんなまとめてやめてしまったりするだろうからなあ」
「このラナは、これからお仕えするようになる若い子たちのまとめ役もできるのではないか、などと思うのです」
「それは助かる」
「では、さっそく今日からお部屋の御用をさせる事にいたしましょう」
「今日から?」
「お嫌ですか?」
「とんでもない。こんな美人さんが来てくれれば、毎日が楽しそうだ」
「では。ラナ、御挨拶なさい」
ラナと呼ばれたその子は定められた宮中作法にのっとって九拝した。不馴れな者だと立って座って床に平伏する一連の動きが、やたらバタバタして気ぜわしく見苦しかったりするのだが、ラナの動きは滑らかで美しい。
「ラナと申します。本日より真心こめて皇太子殿下にお仕えいたします。不束者ではございますが、何卒幾久しくよろしくお願い申し上げます」
ナフィアもラナも柔らかい布地のサルエルパンツに長い上着、さらに袖なしの綿入れという格好だが、年齢や社会的地位や身分で色々なバリエーションがある。ナフィアは中年過ぎの既婚女性らしく、色味は抑え目だ。それでも濃い紫色という庶民には着用を許されない色で染めた厚手の絹地に、金糸銀糸の縫い取りが入っていて、大宰相夫人の貫録を感じさせる。装身具はピアスと指輪が一つだけだが、共に見事なサファイアがはまっている。ちなみにこの三個の大粒サファイアはハキムとナフィアの古里で産出したものらしい。
ラナは最近帝国内で流行りだしたとかいう淡い赤紫というか紫がかったピンクというか、そんな色のウールの上下で袖なしの綿入れには赤い糸でステッチが入っているだけで、刺繍らしいものは無い。小さな金のピアスと髪を束ねた服と同じ色のリボン以外、装飾らしきものは何もない。
「ラナ、よろしくな。そうだなあ、首飾りぐらい、好きにつけてもいいかなって思うよ」
これは暗に非常に気に入った、という事を示している。まあまあ気に入った、という時は「リボンの色ぐらい、好きにしろ」というし、可もなく不可もなくなら特に何も装身具や衣類には本人の前で言及しない。断る場合は「いかがですか」と勧められた最初の段階に断るべきなのだ。
ラナの礼を受けて、少しナフィアととりとめのない話をしていたところに、一旦席を外していたハキムが、戻って来た。
「皇太子宮でお仕えしていた老女たちは殿下をお探ししておりましたが、先ほど狼煙でご無事を知らせました。さらに警護の者も遣わして、お留守を守らせる事といたします」
そういいながら、ハキムは心配顔だ。締めのお茶が終わった所で、ナフィアはラナを従えて部屋を出た。
「実は殿下」
ハキムは声を潜める。
「あの大女狐に逃げられたかもしれません」
ハキムは国母宮と外部を繋ぐ全ての通路に、信頼できる者たちを貼りつかせて、ずっと見張っているらしいが、動きが全く無いのだという。
「中に引きこもっている可能性は?」
「それもないとは言えませんな。ですが……国母宮から先月の一日に十人ほどの一団が北別宮に向かったそうです。更にその三日後には別の一団が南別宮へ向かったそうでして」
「どちらかに国母が居た可能性もあるけど、どちらも違う可能性だって捨てきれないと思うなあ」
北別宮も南別宮も、共に国母が先帝にねだって手に入れた豪華な別荘だ。羽根をのばした国母が勝手な事をやっているらしいというので、良くない噂も色々有る。もとはどちらも功績のあった皇族の隠居所だったから、それぞれの街の住民たちは風紀が乱れたと眉をひそめているとかいないとか……まあ、俺はそんな話しか知らない。