神殿の人々・4
キアーが出て行ってから、爺さんは『聖印詳論』なる本を俺に手渡した。
「この本の内容をすべて完璧に暗記なさいますように」
言葉は丁寧だが、命令だ。
「写しなどお持ちになると、かえって危険ですからな」
爺さんは若いころに丸暗記したらしい。
「どうやら今でも正確に記憶出来ているようです。殿下が覚えてしまわれましたら、また元通り、隠し戸棚にしまう事に致します。いや、別の場所に隠した方が良いかもしれませぬな……剣呑剣呑……では、庭に参りますぞ」
それからは庭につくまで、爺さんは口を利かなかった。察するに書庫の司書役は副神官派らしい。
「あの鍵で、また棚を開けるぐらいの事は例えば、入り口にいた神官でも出来るんじゃないの?」
「多少、鍵の開け方に秘密がございましてな、素人では無理でしょうが……錠前屋なら開けてしまうでしょうな」
だが、爺さんがおととしに絵図類を確認するために読み返して以降、誰も触っていないのはほぼ確かなんだそうだ。
「なんでそう言い切れるわけ?」
「本の上と周りに湿気除けの砂をまいておきましたが、それが少しも乱れておりませんでしたから」
機密文書を保管する際に、鍵のかかる棚やら引出やらにしまうのは当然だが、しまう文書の周りに砂をまいておき、持ち主の手形をつけておくというのは、この国でしばしば行われている方法だ。誰かがこっそり鍵を開けるのに成功しても、砂を乱さずに文書を読むのはほぼ不可能だ。盗み取るとか、文書自体を消滅させるのが目的のやからには効き目は無いが、召使などの盗み読みに対する防止効果は大きい。
「試練の間と庭以外では、皇帝陛下に関する噂も、聖なる印の話もなさいませんように。この国の皇位継承にまつわるあれこれは、殿下も御承知でしょう?」
アーモンドの花が散って、バラやヒナゲシが咲きそろってきた。ローズマリーやラベンダーなんかも有る。シロツメクサの花を摘んで、遠目と遠耳の二人は声を上げてはしゃいでいる。
のどかな眺めなんだけどな……爺さんの話は物騒だ。
皇位継承かあ。
「皇太子を辞めたいって言っても、無理なのかねえ」
「聖なる印を持つ者は、神の加護と神の試練を共にその身に背負うのです」
流血の歴史ってやつを嫌でも思い返す事になる。
「それに……皇太子を廃するのも、新たに定めるのも、皇帝陛下御自らの御裁可で決まるのです。御下問の無い限り、如何なる者も意見を述べる事は許されません。殿下御自身も例外ではないのです」
「公式の場で廃位を希望すると俺が表明したら……」
「恐れながら、謀反人として処分をお受けになる事となりましょう。ですが、殿下は聖玉をお持ちなのです。いかなる者もお命を奪う事は叶いますまい。それ故に聖玉持ちは外国でも恐れられるのだと聞きます」
「聖玉なんて、知らない奴の方が多いだろ?」
「さよう。庶民は知らぬでしょうな。ですが、各国の最高権力者に近い人間ならば、恐らくはその存在を十分認識しておると思いますぞ」
「信仰する神が違うバビアなんかでも、聖玉なんて関係有るのか?」
「それが、有るようなのです。色合いはその『聖印詳論』の既述のように殿下のお手にあるような白玉のような物の他に、黒、赤、青、緑、黄などが有るようですな。色それぞれで性質は違うらしいのですが、詳しい事は不明です。調べようがなかったのでしょうな。ちなみにバビアの王族には、黄色い聖玉を持つ者が時折あらわれるようですぞ。あとは噂ですが、東方に青い聖玉もちが度々あらわれたとも聞き及びます。他の色は……さよう、行方をくらましておいでの国母様が黒い聖玉をお持ちではないか……などとも聞き及びますが、その情報を私にもたらした者は謎の死を遂げました」
大神官の爺さんが言うには、黒い聖玉は初代様に滅ぼされた大国・ウルス王国の王家の血筋に度々出現したという口伝が有るそうだ。
「元来この都ウルスは、そのウルス王国の都だったのですからな」
「国母殿は、ウルス王国ゆかりの者がまとめて移住させられたブルス地方の出身だ。やはり並の血筋ではなかったという事かな」
ウルス王家の嫡流の男子は赤子も含めて全員抹殺されたはずだが、美女ぞろいだった王女たちは言わば褒美として皇族や諸侯に下賜されたというし、男子であっても庶子に関してはノーマークだったらしいから、意外な所に意外な形でウルス王家の血が濃く現れる者がいてもおかしくは無い。
当時は荒れ野だったというブルスには、多くのウルス出身者が強制的に移住させられたのだ。苦難は一層亡国の民の結束を強くしたであろうから、移住者の中にウルス王家ゆかりの者がいても、帝国に知られぬように皆でかばった可能性は高いだろう。
誇り高く我慢強いブルスの気風は、後に多くの優れた軍人を生み出す事につながっている。
「俺は、どうすべきだと思う?」
話を聞けば聞くほど、手のひらに出現した聖玉なるものの存在が実に面倒に感じられてくる。皇帝である親父様は、自分には無い聖玉が皇太子である俺にだけ出現してしまった事を、どう受け止めるだろう? 神官の爺さんは腕に鳥の羽のような形の痣が有る。『聖印詳論』によれば、これも聖なる痣で聖印の一種だが、聖玉よりパワーが弱いらしい。爺さんのは銀色だが、他の色の痣も有るようだ。
親父様には、そのパワーが弱い痣すらないわけで……なまじっか田舎の神殿で育ったために、都育ちの貴族連中より神気だの聖なる印だのを気にする可能性が高い……と俺には思われる。
「皇帝陛下が、なるようにしかならぬとドッシリ構えて下さればよいのですが……いずれにせよ、聖なる印の事は隠しおおせないでしょうなあ……殿下の強い神気を感じ取る者は、陛下のお傍近くにもおりましょうから……大宰相は……神気が強すぎると言われようがなんだろうが、知らぬふりを通せばよいと考えておられるようだが、いささか甘いと思いますぞ……陛下は神殿でお育ちになったのですし」
やっぱり親父様は聖玉の出現について大いに問題視するだろうと、爺さんも考えているんだな。
「八代様だっけ、国外に逃げたんだよな」
「さよう。八代様は皇太子にお決まりになって以降に聖なる痣がお体に現れたようですな。八代様は当時既に御成人あそばしておりましたからなあ。父君であられた七代様から謀反を疑われたわけでして……まだ七歳でいらっしゃる殿下と事情は異なりますが」
聖なる印が有れば、神から特別な力と祝福を授かっていると見なされる。印が無い皇帝より印の有る皇太子の方が国を治めるのにふさわしい。そんな風に皆に思われはしないかと、印の無い七代皇帝は疑心暗鬼に陥ったのだ。皇帝と皇太子、それぞれの身近に使える者たちが色々勝手な噂をして、事態を悪化させたのだろう。恐らく親父様と俺の場合も、事情は大して変わらないかもしれない。
「だけど、神気の強さでいえば、俺の方が酷いだろ?」
「酷いなどとおっしゃってはいけません」
「だけどさ、災難でしかないじゃないか」
「神意は人の考えでは測りきれませぬ」
そんなもんかなあ。
俺は爺さんみたいにこの世界の神を敬ったりしていないからだろうか。
はた迷惑な自然現象か自分勝手な生き物程度にしか感じていないと知ったら、爺さんは「不敬ですぞ」って顔を赤くして怒りそうだ。
「八代様の例に倣って、国外に逃げるって言う考えは、どんなもんだろう?」
「キアーの帰りを待ちましょう。大宰相の返書を読んでから考える時間ぐらいは有りましょう。さ、早く、この『聖印詳論』を覚えておしまいなさいませ」
それから、爺さんはしばらく何も話さなかった。
薄っぺらい本だが、丸暗記はすぐにはできない。昼食は簡単なものを庭に運ばせ、本を見ながら食べた。午後は時々爺さんに内容を整理する質問をしてもらいながら、暗記に努める。その間も本の内容以外の話は、お互い何もしなかった。
「ただ今戻りました!」
キアーが息せき切って戻ってきたのは、かなり日が傾いた頃だ。
「大変です!大宰相がっ」
「キアー、落ち着け。声を潜めよ」
キアーのあわてぶりは尋常ではない。爺さんも注意しながら、眉をひそめた。
「は。ですが、一大事です。大宰相が捕えられました」
「うーむ。思ったより動きが慌ただしいな」
「これは捕えられる直前に頂いた御返書です」
「まさか神玉出現までは悟られていまいな ?」
「ですが書庫の秘蔵本を持ち出されました事は、すでに反大宰相派に知られておりましたぞ」
「なんと……さようか」
「……はい。やはり、私が以前申し上げたように、副神官に近しい者たちが動いておるのです」
それから、言葉は控えめながら、大神官の行動のせいで俺の立場が窮地に陥ったかもしれない……と言った事をキアーが仄めかすと、大神官はしきりと俺とキアーに詫びた。俺はこれからどうすべきか、相談したいと思って口を開きかけたところで、キアーは俺を制した。
「何者かが此方をうかがっております。庭はかなり神気が濃い場所ですが、離れた物陰から様子をうかがう程度なら濃い神気になじめない者でも可能です。試練の間に移った方が良さそうです」
大神官は自らの行動が今回の危機の引き金になったと反省した所為か、キアーの言葉に従った。
キアーにとって、試練の間の神気は「相当にきつい」らしいが、どうにか持ちこたえている。大神官は「キアーの判断に任せよう」と言ったきり、黙っているので、もっぱらキアーと俺で話を進める。
キアーによると、皇帝特使がハキムをとらえた際に申し渡した表向きの理由は「皇太子の傅役として不届きな点が有った疑いが強いので、皇帝陛下の御前で申し開きをせよ」と言うものだったそうだ。
親父様は、明日には都に到着予定らしい。
「大宰相様は帝国きっての知恵者でいらっしゃいます。それに贈賄収賄と言った事とは無縁なお暮らしぶりなのは、広く知られておりますし、第一、属州も含めた広大な帝国領のまつりごとを行う上で、大宰相様以上の方はおられないのは、陛下も良くお判りでしょう」
「だが、清廉潔白なハキムだからこそ、うす汚い連中にとっては邪魔でしょうがないのかもしれん」
「確かに殿下のおっしゃるとおりでしょうな。ですが、陛下がそのあたりの事情がお分かりにならぬような方だとも思えないのです。だとすれば……」
「だとすれば、何?」
「目的は殿下の御身を御自分の管理下に置く……その事自体が目的やもしれませんな」
「キアーが持って行った手紙は、すぐに目の前でハキム自身が焼き捨てたそうだけど、キアーが神殿騎士だっていう事は恐らくバレているよね」
「少なくとも殿下のお体に何がしかの聖なる印が現れたと言う程度の事は、既に悟られている……という前提で行動すべきでしょう」
「だとすれば、副神官派が俺と俺に味方する者を捕まえるとか監禁するとか有ってもよさそうなもんだけど、キアーはどう考える?」
「皇帝陛下のおぼしめしが恐ろしいが、さりとて神も恐ろしい、そういうところでしょうか。武器を扱い神気の立ち込める場所でも十分動けるのは神殿騎士だけでしょうが、神殿騎士の中でも一番神気による圧迫に強いのは私ですから、余人はこの部屋に侵入するのも恐らくは不可能かと」
「だとしてもだよ、ここにこもっている限りは安全なんだろうが、食糧やら水の確保はどうなる?」
「さよう……問題ですなあ……直接皇帝陛下にお目通りした方がよろしいかどうかは、迷うところですが、大宰相が捕らえられた今の状況では、それも難しいかもしれませんな」
しばらく自分の失策に落ち込んでいたらしい爺さんが、ようやく口を開いた。
「遠目と遠耳の祖母と叔父が住む家は、この試練の間の秘密の通路から進んだ先にございます。もしもの際に備えて、外洋に出る事の可能な船を用意させておりますので、最悪の場合、そのまま大宰相の故郷ムシュキの沿岸部に進み、更にそこからならば隣国ソリエラの港も目と鼻の先です」
「となると、遠目と遠耳はどうなる?」
「私が残りましょう。足腰が弱いですから、ご迷惑になりかねませんしな。さすがに爺と幼子をまとめてつるし首という事もございますまい。殿下はキアーと共にソリエラを目指されませ」
「だが、それではハキムに危険が及ばないか?」
「神託が降りたと申し上げましょう。他の聖なる玉の持ち主と近しい関係をお築きになるために、帝国をお出になる必要が有ると」
「そんな見え透いた言い訳、通るとも思えないが」
「皇帝陛下は、迷っておられるはずです」
そこで俺が黒い聖玉の持ち主かもしれないという国母アルティンが、ソリエラに潜伏しているという夢を見た話をすると、キアーは驚いたようだったが爺さんは全く動じていなかった。
「かの方がクレメンティ家の庇護を受けておられるのは、間違いないでしょう。と申しますのも、クレメンティ家の中にしばしば赤い聖玉を持った者が現れるそうですから。ソリエラの現在の宗教は唯一絶対の神以外を認め無いというものですから、古き神の特別な力の現れである聖玉の事なども、公にはできないという事情が有るようですが……聖玉をお持ちの殿下を粗略に扱うとは思えません。かの女性同様、高貴なる秘密の賓客として遇されましょう。ソリエラ人は計算高い商人ですからな」
キアーは顔をしかめたが、どちらにも良い顔をする、恩を売れる機会には大いに売っておく、というのは建国以来のソリエラの伝統のようだから……まあ、爺さんの言うようにソリエラのクレメンティ家は、それなりにあてになるんだろう。
「さあ、この紹介状と金子をお持ちになり、キアーをお連れになり急ぎ船にお乗り下さい」
爺さんは自分の寝床の下から取り出した物をキアーに持たせた。俺の寝ていた場所の床板を一枚はがすと、ガタンという音がして、壁際に細い隙間が出現した。キアーが先に入って押し広げると、大の大人がやっとひとり通れるぐらいの狭いトンネルが現れた。
「では、お元気で。キアー、頼むぞ」
爺さんがまた床板をはめたのだろう。扉が後ろで重い音を立てて閉まり、俺とキアーは細い通路をただひたすら前進した。