いきなり舞い戻りました
俺の親父は少々お人良しで、女運は悪いが、陽気で楽しい人だった。
懸命に働いて、無理して俺を大学にまで行かせてくれた。俺も奨学金を取って負担はかけないように頑張ったが、親父は俺を進学させるために生活保護も受けず、頑張ってくれた。愚痴もこぼさなかったし、恩着せがましい事も言ったことが無い。
「惨めな暮らしから抜け出すためには、学問して大学出るのが一番の早道だ。俺は馬鹿だから無理だったが、お前は賢いから大丈夫だ」
よくそんな風に言って、くじけそうになる俺を励ましてくれたもんだ。受験用の塾代を出せなくて申し訳ないと言って、度々夜食を作ってくれたが、その時の雑炊やおにぎりは本当にうまかった。
親父の欠点と言えば、いくら言ってもタバコの本数を減らせなかった事ぐらいだ。そのせいで肺がんで死ぬ羽目になったが、それでも最後の最後まで俺を気遣ってくれた。
気持ちの暖かい、本当に良い親父だった。
実を言うと、俺は親父と血のつながりは無い。
おふくろは美人じゃあるが酷い女だったようで、親父と結婚後も男出入りが激しかったようだ。それだけでも十分ひどいが、別の男との間にできた俺を親父の実子として出生届を出させ、その三年後には俺を親父に押し付けて、自分はまた新しい別な男の所に行ってしまったというから、あきれてものが言えない。実に何というか……恥ずかしくて情けない。その新しい別の男というのが暴力団の幹部で、おふくろはそのヤクザもろとも対立する組織に消されてしまったらしい。らしいというのは、警察がろくに調べもせず、交通事故として処理してしまったからだそうだ。十年以上たって別の事件で捕まった男の口から、あれは事故ではなく殺人だったという話が出たのだそうだ。
親父は何もそういったいきさつに関しては教えてくれなかったから、高校生になってから俺が自分で色々と聞いて回って調べ上げた……という訳だ。
俺が五歳の年に、親父の母親が死んだ。俺が「おばあちゃん」と呼びかけても、睨みつけて返事ひとつしてくれない怖い人だったという記憶しかないが、浮気女が捨てて行った他人の餓鬼なんだから、俺の顔なんて見たくも無かったって事なんだろう。
ともかくも親父は「おばあちゃん」のたった一人の子供だった。実際、その人と親父は顔が良く似ていたし、甘いものが好きでヘビースモーカーなのも似ていた。かなり後で死因が肺がんだったと知ったが、それも親父と一緒だ。
その葬式の席で「赤の他人の子を養うなんて馬鹿だ」と言った爺さんがいて、親父はその爺さんをぶん殴った。その後、親戚連中と顔を合わせないような、離れた町に引っ越したのだ。当時すでにおふくろは家を出ていたから、親父は俺を養う義理は無かったのだが……俺を本気で育ててくれた。
小学生の間は「誰が何を言おうと、お前の親父は俺だから」と言われてきたが、さすがに中学に入って血液型の事なんかも意識するようになって、親父がAB型なのに俺がO型なのは変だと言う話をしたら、重い口を開くという感じで、事実を打ち明けられた。
「おばあちゃん」に係わるいろんな記憶も有ったから、「やっぱりそうなんだ」と腑に落ちたというか、納得しただけで、ショックは無かった。
戸籍上は俺は親父の実子として届け出がされている。それを親父は絶対変更する気が無いって事だけは確かだったので、俺なりに出来る事はやって、なるだけ親孝行しなきゃいけないと強く思うようになったのは確かだった。口にするのも何か変な気がしたので、親父に言った事は無いが。
その後、高校と大学に入学する書類を整える時に、覚悟を決めて「俺の実の父親って、誰?」と聞いたのだが、「知らねえよ」というばかりで、何も教えてはもらえなかった。本当に知らなかったのかもしれないし、おふくろが浮気したのか結婚前からの二股なのか知らないが、その相手の事なんて、口にもしたくないって事だったのかもしれない。
それ以上、俺は実の親父にこだわるのを止めた。そして、出来る限り親父に迷惑をかけないように俺なりに出来る事は全部やった。その甲斐もあって、大学卒業後、晴れて有名企業の正社員になって、これから親孝行しようと思った矢先に、親父が手の付けられないほど進行した肺がんだとわかったのだった。
病院と会社を往復する毎日を続ける内に、結婚も考えていた大学時代からの彼女との関係が途切れてしまった。久しぶりに連絡してきたと思ったら、親父の葬儀を済ませた翌日にやってきて、俺と別れて別の男と結婚したいと言ってきたのだ。
男女の仲なんて、片方が終わりだと思えばそれで終わりなんだと思っている。縁を切りたいって言うからには、それなりの理由も有るんだろう。だから、俺個人の事を悪く言うのは仕方がない。愛想が尽きたという事だろうから。だがしかし……
「ほんと品が無くて感じの悪い人だったわね」
彼女が親父の遺影を見て、そんな事をぬかしたのだ。
葬式を済ませたばかりで、まだ骨壺が置かれている状態の中でぬけぬけとというか、無神経極まりないというか、許せないというか、ともかくも俺の脳内で「ぷちっ」と何か音がした。すさまじい怒りに突き動かされて、俺はわめきながら、思い切り女を突き飛ばしていた。
女が獣めいた悲鳴を上げ、血が飛び散った事で、俺は我に返った。
どうやら、女が立てつけの悪いドアに激突して、前歯を二本ばかり折ってしまったようだ。
「う、訴えてやる」とかなんとか言いながら、女は折れた歯を拾い、腫れ上がった顔面をハンカチで抑えて、部屋を出て行った。女の父親は弁護士だ。本当に訴え出るだろうし、そうなれば俺は確実に裁判で負ける。
俺の会社は女の管理職が多い。男女平等のモデルケースだなどとマスコミでももてはやされる人気企業だ。その広報担当の社員である俺が女の顔面に酷い怪我をさせたなんて不祥事を起こしたら……やっぱ、クビなんだろうか? 「我が社の名誉を大いに傷つけた場合」という罰則規定も有ったなあ……ああ、ヤダヤダ。社内の女性社員達とは良い感じの関係だったというのに……全てぶち壊しだ。
気が付くと遺骨の傍に置いてあった一升瓶入りの日本酒を、俺はラッパ飲みしていた。
親父は甘党で下戸だった。だが、俺は酒好きなので、親父も酒が好きなんだろうと勝手に思ったらしい大学時代の友人が、葬式の時に持ってきてくれたものだ。
気分の悪い時に、大酒を飲むと変な酔い方をする。
この夜もそうなんだと俺は思った。だが……
「やっぱり、こちらへ戻ってきて下さい。そうじゃないと大変なんです」
誰かが、勝手に何か喋っている。甲高い耳障りな声だ。わがままなガキ、という感じだな。
「くそガキ、うぜえ」
「違いますよ。これでも一応神ですから、あなたよりはずっと年上です」
「ふん! どうせお粗末な地縛霊とかの類だろ? ここの家賃が激安なのは、前の住人が自殺したからだって、親父が言ってたぞ。 神も仏もろくにいないのは、親父の一生を見たらはっきりしてるさ」
俺は設備の整った会社の独身寮住まいだが、親父が借りていたこの部屋は、いわゆる事故物件で、家賃が相場の半分以下だ。前の住民が首つり自殺をして、その前の住民が飛び降り自殺をしたという事情らしい。
「あなたを育てた男の不幸に関しては、私のあずかり知らぬところです。こちらの世界の神々の管轄ですから。ですがあなたは違います」
「俺はあんたの管轄なわけ?」
「そうです。あちらではたくさんの家族もできますよ」
「多けりゃ良いってもんじゃない」
「沢山の美女と、あーんな事やこーんな事をやれるような境遇にしてあげます」
「なんだよ、あーんな事って」
「つ・ま・り、あなたをハーレムの主にしてあげると言っているんです」
「やなこった。美人だってひどい奴なんていっぱいいるし」
「困ったなあ」
「勝手に困ってろ」
「ううう」
「うるせえ! ここから出て行け!」
「あの、生まれ変わるなら、この世界での記憶が有った方が良いですか?」
「うるせえなあ、さっさと消えろ」
「お願いです。教えてください、記憶は有った方が……やっぱりいいですか?」
子供じみた声の相手を苛めているような感覚になってきた。
「お願いです、教えてください」
だまってりゃあ良かったのに、必死だな、と同情したのが運のつき、だったのかもしれない。
「平成日本での記憶を持って転生するのは、やっぱメインストリームだと思うぜ。それで、バリバリ内政に励んじゃったりするんだ」
「それそれ、それです! やっぱり、生まれ変わって下さい。お願いします」
「嫌だと言ったら?」
「この状態で日本にいるより、きっといいと思います。そもそもあなたは、あちらの世界の人間なんですし、元の世界に戻るだけですし」
「元の世界って、前は俺、何やってたの?」
「あー、やっぱり、忘れちゃってますか……いや、生まれ変われば、それも思い出せますよ。いい事ずくめとは言いませんが、少なくともこちらに残っているよりマシじゃないかと思います」
「ずっとまし? 嘘つけ」
「嘘じゃありませんよ」
俺は、どういうわけか外にフラッと出た。酒をがぶ飲みして体が火照ったからだったかもしれない。
「さ、行きましょう!」
甲高い声の主は、俺が行くとも言ってないのに「あちらの世界」に行くもんだと決めつけていた。
「行かねえ!」
「すぐ着きますから、さあ」
急に体のバランスが崩れた。そして、俺が寄りかかったぼろいベランダの柵が壊れ、俺はまっさかさまに落ちた……らしい。
するといきなり、水の中だった。
「手に握ったそのナイフで、邪魔なものを切り払って、水面に浮かんでください。後はどうにかなるはずですから。では!」
なんか耳元で声がしたと思ったら、気配が消えて、息が本当に苦しくなってきた。確かにナイフらしきものを俺は握っている。
(なんつーか、有ったじゃんか、そうそう、エドモン・ダンテスの脱出シーン)
大学の第二外国語の授業で読まされた、某名作の一場面を思い出した。ともかく、布製の袋らしい周りを覆う邪魔な代物を切り払う事にする。やべ、息が続かねえかもっ……
ぷはっ!
どうにか無事に水面に浮かび出た。あれ?こりゃあなんだ?
水がしょっぱいから、浮かび出たのは海面って事になるらしいが……
どっかのヤクザに簀巻きにされた、ってわけじゃなさそうだ。
だって、見える景色が……
ぜーんぜん、平成の日本じゃないんだ。
どうにかなるって、どうなるのさ?
そういやあ、邪魔くさい服を着ていたみたいなんで、夢中で大半を脱ぎ捨てたんだが……まずかったのかな? 水温はさほど低くないようだが、夏の海水浴ってほど快適じゃない。気のせいか、腹が減ってきたし、どこか岸を目指した方がいいのか……と悩んでいると、規則正しい水音が近づいてきた。
「殿下、ようご無事で!」
そんな声がしたと思ったら、一斉にドボンドボンと幾つもの水音がして、気が付くと俺はデカいおっさんたちに取り囲まれて、抱えられて、船に運ばれた。おっさんたちの髪型は「リアルラーメンマンかよ」と言いたくなるような、ぶっ飛んだデザインで、体つきも格闘家っぽい。
「殿下、思わぬ手違いがございまして、一時はどうなる事かと思いましたが」
そういう爺さんは重たそうなガウンみたいなズルッとした服を着ている。
俺の乗せられた船というかボートは、ただの手漕ぎボートのくせに無駄にデカく装飾過剰なしろものだ。俺に飛びつくようにして体を拭いたり、服を着せたり耳穴掃除をしたりするおばちゃんが二人。上手に背中をさするので、呑み込んだ海水もかなり吐き出せた。
やけに周りの人間をデカく感じると思ったら、俺、体がガキんちょサイズじゃないか。
その間、爺さんは「神の御加護への感謝」を続けている模様だ。
えっと……俺、この爺さん知ってるぞ。
床に這いつくばって、わけわかめな祝詞か呪文みたいなのをぶつぶつ言いながら、天を仰ぎ見てから大仰な礼を幾度も繰り返す白髪のやせぎすの爺さんを見ている内に、記憶が蘇ってきた。
平成の日本人として生まれる前は、俺、この国の皇子だったんだな。
確か、眠っていた所をいきなり布袋に詰められて、水にドボン! 享年七歳一か月でしたって?! ひょっとして、俺、そこからここでの人生をやり直しって事になるの? うぜええええ
さっきから幾度も「光の神、大いなる神」という言葉が繰り返されている。あのガキくさい声の持ち主が光の神だったりしたら、あんまりありがたくねえな。
疫病神か、悪魔って言う方が正しいんじゃねえの?
そんな事を考えながら爺さんのお祈りの様子を見ていたら、あの子供っぽい声が頭の奥で聞こえた。
「悪魔なんて、酷いです」
でも似たようなもんじゃね?
「あなたにそんな風に思われずに済むように、頑張ります」
頑張りゃ良いってもんでも無さそうだが……
「今度はヘマはやりません!」
何かなあ、たよりねえ神様だぜ。
「でも、めげずにがんばります~」
神様がめげるとか、なんだそりゃだが、前向きな方がいいんだろうな、多分。
「では、当分お会いできませんが、今度こそうまくやって下さいよ。あなたならできますから!」
まんま、その言葉、あんたに返すよ。って考えたら、脳内の奥で聞こえていた声はしなくなった。