死を恋う(三)
夜闇が下りるのを待ち、公暁らは小屋を出た。園城寺と同様、延暦寺も付近の山中に僧房が点在している。万が一にも見つからぬよう松明は点けず、先達の足音のみを頼りに進んだ。昼間の暑さは既に夜風に吹き払われ、陽が落ちた闇は冷たかった。惣闇が体を捕らえ、水のように夜の底に引きずり込んだ。暗中を獣のように這い進みながら、公暁は、無間地獄へ下りていく時はきっとこのような心持ちに違いないと、そんなことを思った。やがてきこりは立ち止まり、袖を引いて合図を送った。木立の間に細々とした明かりが見えた。銭を手渡すと身をひるがえし葉音も立てずにその場から逃げ去って行った。
少年たちはすみやかに房を取り囲んだ。突き上げ窓が開けられており、そこから話し声が洩れて来る。無防備な様子を見るに、向こうではこちらの襲撃を感づいてはいないようだった。
用意して来た松明に火が点けられた。一人が両手に燃え盛った松明を持って房へ走り、窓の下に身を寄せた。一呼吸置き、勢いをつけて躍り上がるや、松明を窓の中へ投げ込んだ。
投げ込むと同時に、房の中からは叫び声が上がった。驚愕して口々に叫びかわす声と、火を消そうと右往左往する足音が乱れた。その間に、公暁はすらりと太刀を抜いた。他の少年たちも公暁にならい、無言で次々と手にした太刀を抜き放った。少年たちは太刀だけだが、公暁一人は、太刀と共に愛弓とえびらを背に負っている。
壁板のはぜる音が耳を刺した。戸口が突き破られたかと思うと、慌てふためいた法師たちが火と煙を負ってどっと吐き出されて来た。
「これは、まずい」
人影を見て、後ろにいた犬丸が慌てた様子で囁いた。飛び出してきた人間の数が多い。犬丸に言われて、公暁も咄嗟に、火に照らし出された黒い影を数えた。二十一人。事前の話の倍である。
「若、いかが致します」
別の少年が、下知を仰ぐように口早に言った。しかし、公暁は答えず、その場に突っ立って太刀を握りしめていた。闇の中に、目だけが磨き上げた石のように光っている。房に放った火は窓や壁板を破り、赤々とした舌先を闇の中に踊らせていた。その乱舞の色が目を刺した。火にあおられて既に熱気を帯び出した風が頬に触れた。体中の血が泡立ち、痺れるような快感が肌を流れた。こちらに気づいた山法師どもが、あっと手にしていた太刀を体に引きつけた時、煮えたぎった潮流が咽元へ押し寄せた。
「構わぬ。ことごとく討ち取れ」
山が震えるほどの咆哮を上げた。
「――園城寺の寺法師どもか」
わめく声と共に刃が閃いた。鋼の群れの只中に公暁は身を投じた。はじかれたように他の六人も、叫び声を上げながら次々と相手に襲いかかった。
目の前に現れた男を、公暁はいきなり袈裟がけに斬った。男は身をかばおうとして、しかし気が動転していたのか刀ではなく腕を上げた。刃が肘の辺りを深く斬った。裂くような悲鳴を聞き捨てながら、その向こうにいた男に続けざまに斬りかかった。振り下ろして来た太刀を勢いよく弾き、がら空きになった胴を払った。重たい手ごたえが刃から伝わり、男はかすかなうめき声を立てて前のめりに倒れ込んだ。
鋼のぶつかり合う音が波のように辺りを覆った。怒号と、炎の激しくはぜる音がまじり合って高く響いた。犬丸が何やら大声で叫びながら太刀を振り回しているのが見えた。相手の僧兵は太刀を受け止め、犬丸を力任せに突き転ばした。公暁は僧兵に飛びかかり腰の辺りを思い切り蹴り飛ばした。額めがけて斬りつけると、血がぱっと散り、頬に生温かく触れた。
犬丸が何か叫んだようだった。しかし公暁は既に新たな敵を求めて、刃先が小魚の群れのように踊る中へ身をひるがえしていた。己の肉体が一陣の風になったようだった。身も心も、俗世の塵芥をことごとく脱ぎ去ったように軽かった。斬ることへの迷いもなければ、斬られることへの恐れもなかった。無数の刃を受け血にまみれて倒れ伏す自身の姿がよぎる時、むしろ心は暗い愉悦に震えた。
「討ち取れ――」
狂気のように吼える公暁に、山法師たちは臆して後ずさった。劣勢を悟った彼らはそのまま背を向け、ばらばらと遁走を始めた。
公暁はえびらから矢を抜き、つがえた。たわむ弓の向こうに転がるように逃げ去っていく背がある。弓弦がうなった。闇の中に引きちぎったような叫び声が上がり、続いて恐怖にかられた悲鳴が交差した。苦悶の声が断ち切れるのと同時に、足音も声も潮が引くように山林の中に消えて行った。
公暁は叫び声がした辺りに行ってみた。一人の僧兵が背中を深々と射られ、地面に平たく倒れていた。
「お見事でございました」
犬丸が駆け寄って来た。他の少年たちも駆けて来て、倒れた僧兵を囲んだ。誰かが足先で蹴ったが、体はもはやぴくりとも動かなかった。
「お怪我はございませんでしたか」
犬丸が気づかった。安いものだ、と公暁は鼻先で笑った。
「かすり傷もない。ところで幾人しとめた」
結局死体は、足元に転がっている一人だけであった。少なくとも二人は充分に斬った手ごたえがあったのだが、手傷のみであったらしい。
「腹の皮というものはやわらかいだけに、かえって切れ難いものと聞きます。若の腕のせいではございませぬよ」
悔しがる公暁を少年らはなだめ、そして口々に弓の腕を褒めそやした。彼らの目は、闇の中で鮮やかに光り、どの顔にも、初めて人を殺した興奮と喜びが溢れていた。死体を近くのやぶに放り込み、公暁たちは山を後にした。炎は今や房全体を包み込んで高く美しく踊り、意気揚々と去る若い殺人者の背に、どこまでも血の色の陰影を投げかけた。
* * * * *
しかし、この夜の一件は、のちのち大きな騒ぎとなった。僧兵同士の争いは日常茶飯事のことであったが、しかし死人が出たとなると話は異なる。延暦寺側としても捨てておくわけにはいかなかった。しかもその場にいた山法師たちの証言から、下手人は鎌倉の御曹子、公暁であるらしいことも知れ、園城寺の立場はますます苦しくなった。数日後には、延暦寺から人が来て、下手人である公暁を引き渡すよう申し入れるという事態にまで発展したのである。
事件発覚後、公暁は謹慎を命じられ房に閉じこもっており、延暦寺との間にどのようなやり取りが行われているか、何も知らされなかった。ひと月後、ようやく謹慎が解けた公暁は、一緒に比叡山の房を襲った衆徒の少年たちが全て延暦寺に引き渡されたことを告げられた。
この当時、私闘で人が殺された場合は、このように下手人を被害者の側に引き渡すという解決法がしばしばとられた。個人間の私闘が家同士の合戦にまで発展することも少なくなかったため、そうしたことを避ける一つの手段として考え出されたのである。弓矢に訴えず、下手人の顔を見ることで復讐に代えるというというのが建前であったが、実際は引き渡された下手人を被害者側が殺害してしまうことがほとんどだった。いわば私闘を私刑で解決させる方法であった。
「――叡山に引き渡された者は」
どのような扱いを受けるのかと、公暁は恐る恐る訊いたが、返答は冷ややかなものだった。
「そなたはいずれ鶴岡八幡宮の別当となる。人の上に立つ者が、後先も考えず軽挙に走れば、そなたではなく、そなたに付き従うた者が咎を受ける。覚えておくがよろしかろう」
公胤の後を継いだ長吏は、公暁の問いには答えず、そう言ったのみだった。
公暁は長吏のもとを下がった。
弓とえびらを負い、公暁は境内から程近い山の裾野へと足を向けた。なだらかな傾斜地が広々と伸びたその野辺は、公暁がしばしば犬丸らと共に訪れては、獣を射たり弓の稽古をした場所であった。謹慎しているうちに季節はすっかり夏に移り、野辺にはススキの葉叢が、まばゆいばかりの青みをおびて、風に遊んでいた。はしゃぐような葉音が湧き上がっては、遠くへと駆け去った。夏草の疾駆を眼下に眺めながら、トビがのびやかに空を横切った。夏の日の平穏な景色が、弓を抱いて草の中にたたずむ公暁の五感に、容赦もなく流れ込んだ。
長吏にわざわざ確かめるまでもない。犬丸らは、公暁の身代わりとして、延暦寺に引き渡されたのに違いなかった。六人を引き渡す代わりに、公暁の罪を一切問わぬというのが、恐らくは園城寺側が出した交換条件であったのだろう。そうだとすればその分、六人の処罰は苛烈なものになる。園城寺と延暦寺の間に積もった深い憎悪を考えても、命が無事であるとは思われなかった。
『犬丸よ、わしはまた、死にそびれた』
心の内に公暁はつぶやいた。
緑濃い波がしらの向こうに、竹の杭が数本、頭をのぞかせている。弓の的を据えるために以前公暁が立てたのである。最後にここで弓を射たのは、比叡山を襲撃する前日であった。
公暁は竹杭めがけて弓を引いた。弦がうなり、竹杭の一本が真二つに折れて飛んだ。乾いた音が、ひとけのない野辺に響き渡り、やがて空に吸い込まれて消えた。再び、公暁は弦を絞った。力任せに引いた弦が指に食い込み、痛んだ。また一本、竹杭が折れ飛んだ。
草叢がざわめいた。音を追って振り返ると、夏草の波が不自然な波紋を描きながら遠くへ逃げ去って行く。遁走する葉音へ公暁は矢先を向けた。一陣の風が波間を走った。悲鳴が上がり、草の中に毛皮が飛び跳ね、のたうった。
草の間に見え隠れする矢羽を頼りに近寄って行くと、大きなテンが、つややかな焦げ茶の毛皮を貫かれて横たわっていた。拾い上げ、公暁は獲物の傷を調べた。矢は一撃で急所を射抜いており、テンは既に息がなかった。
花の汁を絞ったような濃い藍色の空を風が渡り、草の波が一斉になびいた。公暁の胸に、二十余年前、祖父頼朝が催したという、富士の巻狩りのことがふと思い出された。いつであったか、三浦義村が語ってくれたのである。
巻狩りでとは、勢子と呼ばれる者が大勢で狩場を囲んで獣を追い立て、そして獣が平野に飛び出したところへ一気に馬を駆る。獲物をしとめるには弓馬の優れた技が必要とされるため、武家では武技の鍛練として巻狩りは好んで行われた。
富士の一帯で巻狩りが行われたその年は、頼朝が征夷大将軍の座に就いた翌年であった。頼朝は主だった御家人を全て引き連れ、狩場を移しながら、のべ二十日にも渡って前例を見ないほどの大がかりな大掛かりな狩りを催した。
この時、わずか十二才だった父、頼家も、狩りに同行していたのである。そして狩場に出た頼家は、初めて鹿を射止めた。
知らせを受けた頼朝の喜びは大変なものだった。そもそも、武家の子弟が狩りで初めて獲物を得るということは、武技の腕を周囲に認めさせることであり、成人の儀に近い意味合いを持っているのだが、頼朝が喜んだ理由は、ただそればかりではない。この巻狩りには、名実共に武士の棟梁となった頼朝が、その証として神を祀り、また同時に棟梁としての資質を神に問うという呪術的な側面もあったのである。
神にその資質を問うための巻狩りで頼家が鹿を狩ったとは、山の神が獲物を与えた、すなわち神が頼家を祝福し後継者として認めたことでもある。その日、狩りはすぐさま中止され、山の神を祀る神事が盛大に行われた。功のあった臣に頼朝は馬や鞍を与え、勢子に至るまでくまなく餅や酒が分けられ皆は大いに酔ったという。
公暁は幻想から覚めた。裾野は静かであった。公暁の他に、動く影は何もない。祖父も父もいない。犬丸も、衆徒の少年たちもいない。そして今はもう、草を分ける獣も、空を横切る鳥すらも、ここには見えなかった。
腕にテンの屍骸がずしりと重かった。富士の山の神は父に、鹿と共に祝福を与えた。では大津の山の神は、この獣と共に公暁に何を与えたのであろうか。公暁は矢に手をかけ力をこめて引き抜いた。血が溢れ出し毛皮の上を流れた。朱の色は鮮やかで、けだものの血とは思えぬほど、おごそかに美しい。しかし公暁の手をつたった時、その血は既に水のように冷たかった。
その夜、裾野から戻った公暁は小刀を取り出し、弓の弦を切った。そして愛弓を布に幾重にも包み、しっかりと縛り上げた。こののち、近江の地にいる間、公暁が弓に触れることは二度となかった。
(第二話・了)