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雪の灯(ともし)  作者: 李孟鑑
第一章 公暁
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死を恋う(二)

      * * * * *


 公胤が没したのは、それから半年後、閏六月二十日のことであった。没したその日まで、老僧には何も変わったところはなかった。日々の勤めをいつもどおりに執り行い、日が落ちると普段どおりにゆうげを食した。そして膳を下げに来た者に命じて灯を入れさせ、経机に座ったのも、いつもの夜の光景と変わるところはなかった。しかしその後、とうに休んでいるはずの刻限になっても部屋に灯がついているのをいぶかって部屋をのぞいたところ、公胤は経机に座った姿勢そのままに、息を引き取っていたのだった。


 公胤の死はすぐさま、鎌倉の御所へ、そして京へと伝えられた。公胤は鎌倉の将軍家のみならず、現上皇の後鳥羽院、その祖父後白河院を含め朝廷からも篤信を得た人であった。幕府と朝廷からは折り返しおびただしい香典が届けられ、また弔問には生前公胤を慕っていた多くの人が訪れた。


 一介の僧侶のものとは思えぬほど、華やかできらびやな葬儀を目の当たりにし、園城寺の者はあらためて、亡き老僧の高徳を実感する思いがした。


「まさに大往生じゃ」


 皆はそう言って口々に感嘆し、そして僧たるものあのように死にたいものだと言葉に畏敬をにじませた。

 だが


「わしはあのような死に方はまっぴらだ」


 公暁一人は、憮然として犬丸にこぼした。


「死とは人間にとって最も色彩鮮やかな芝居であるべきものではないか。だが老師の死に様は、あれでは朝目覚めて飯を食うのと何も変わらぬ。何が大往生だ」


 吐き捨てるなり、公暁は手にしていた太刀を抜き放ち、そばに生えていた潅木の幹をいらだちまぎれに真二つに断ち割った。木はここ数日の雨を含み、青々とした脂の匂いを切り口から放った。


 飯を食い、房を掃き清め、経を読み、そうした緩慢な日常を繰り返した挙句、死すら、退屈な、何語るべきこともない形をとって訪れる。公胤が暗示した生と死のあり方は、公暁には耐え難かった。公暁もまた仏門に入った者である。そうである以上、自分にもやはり公胤のような道行きが待っているのではないのか。思うほどにおぞましく、耐え難かった。


 公暁が思い描く死とは、戦いに敗れひとり自害して果てた大友皇子(おおとものみこ)であった。または刺客に斬り刻まれ湯堂を朱に染めた父、頼家であった。両者とも、それは確かに敗者としての屈辱的な死に違いなかった。加えて、父に対する侮蔑の念もいまだ変わりはなかった。しかしそれでも、彩りも陰影も持たず、泥に呑まれて曖昧模糊と沈んで行くような死よりは、鮮烈なものにさいなまれ、燃え落ちるような死の方を魂は望んだ。それがたとえ苦痛であっても、屈辱であっても、公暁はかまわなかったのである。


 公暁の胸には、栄実の死のありさまが、羨望をもってしきりに思い起こされた。将軍の後継として擁立された、そのことばかりではない。口ではどう言おうとも、公暁はこの園城寺や政子、母、乳母夫の義村、鎌倉のもろもろ、そうしたものにがんじがらめに囚われ、抜け出るいとくちさえない。しかし栄実は、種々のしがらみをあっさりと断ち切って、ひと飛びに死の中へと身を投じた。それが栄実自身の望んだものではなかったにせよ、その投身の鮮やかさが、公暁にはうらやましかった。


「ともかくも、老師のような死に方だけは、わしはせぬ」


 背後をせかされるような口調で公暁は断言した。実際、この時公暁の中には得体の知れない焦燥があった。おかしなことだが、死が自分を見捨てるのではないかという焦燥である。ぬるい日常にわずかでもおもねようものなら、華麗に輝く死の闇はたちまちのうちに飛び去って、二度と戻らぬように思われた。


「はあ、さようでございますか」


 しかし犬丸の方は、公暁の話を退屈そうに聞き流した挙句、気の抜けた返答をしただけだった。貧乏な下級武士の家に生まれた犬丸は、学問や修行ではなく、ほとんど食うため、生きるために寺に入ったようなものである。己の死はどうあるべきかなどという観念的な話は、犬丸にとってそれは雲上のさらに彼方、まるで別世界の経文を聞かされているような、とらえどころもない話であった。


「それよりも、若」


 いい加減つき合い切れなくなったのか、犬丸はそう言って、公暁の熱弁を無理やりさえぎった。


「山門について、気になることを耳に致しましたぞ」


「む、延暦寺か。何事だ」


「奴ら、こちらに焼き討ちをかける謀をめぐせらておるらしゅうござる」


「何だと」


 公暁は眉を上げた。

 既に述べたように、園城寺と比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじとの間には深い対立がある。しかもその抗争の歴史は古かった。そもそもの始まりは、平安時代の初め、延暦寺から、慈覚大師円仁と智証大師円珍、二人の高僧が輩出されたことに端を発している。


 円仁は天台宗開祖、最澄の直弟子であり、師と同様、法華経を中心とした教義を説いた。一方、あとに続いた円珍は、修験道の聖地、熊野山で修行した人であり、法華経に修験道の思想を織りまぜた、独自の教義を説いた。


 教義は違えど、二人は共に不世出の思想家であり、そして共に人徳の高い人であった。二人の死後、延暦寺が円仁の教義を支持する者と、円珍の教義を支持する者とに割れ、対立が生じて行ったのは、ある意味で必然ともいえる事態であった。


 のち、円仁派が円珍派の房舎を打ち壊すという事件が起こるに及んで、両者の対立は決定的なものとなった。円珍派の僧侶約一千人は、延暦寺を自ら捨て、円珍が生前道場としていたふもとの園城寺に移った。以来、園城寺は円珍派の本拠となり、そして延暦寺との間には対立と憎悪が明確に刻まれることとなったのである。


 これが実に、二百年も前のことなのだった。しかし二つの寺の対立は今もって収まる気配もなかった。園城寺の寺法師に対し、延暦寺の僧兵は山法師と呼ばれるが、この山法師たちによる火攻めで、園城寺の仏閣や僧房が大きな被害をこうむったのはつい昨年のことであるし、下って今年の三月には、今度は園城寺の寺法師が延暦寺領の東坂本に焼き討ちをかけ、前年の報復をするという事件があったばかりであった。


 長吏が没したその隙を突いて、山法師どもはまた、こちらを襲撃する腹づもりでいるらしいのだと、犬丸は声をひそめた。


「我らはその不逞の輩を探り、先んじて討ち取ろうと策しておるのです。つきましては、若にもご助力をお願いいただければ。我らの腕は山法師どもには決して劣りませぬが、若のような武に優れた御方に加勢していただければ心強うございます」


「ほう」


 たちまち、公暁の目が異様な光を帯びた。武技の鍛練を重ね、獣などをさんざん斬って来た公暁であったが、太刀を持った人間との斬り合いはまだ経験したことがなかった。命のやり取りが出来る、先程まで体に沈んでいた鬱屈は瞬時に吹き払われ、公暁の胸は抑えきれぬ興奮に波立った。


叡山(えいざん)にはいつ向かう」


「今相手の動きを探っております。分かったらその日に攻め込みます。では、加勢いただけるのでございますか」


「たわけ、念を押すには及ばぬ」


 犬丸が比叡山襲撃の知らせを持って来たのは、それから十日ほど経った頃であった。犬丸と共に、先達として雇っておいたきこりの小屋に向かうと、衆徒の少年たちがもう顔をそろえていた。皆一様に、熱に浮かされたような目をこちらへ向けた。流血への興奮と緊張とに、既に酔っているようであった。


 公暁と犬丸も含めると、手勢は七人であった。一方、山法師側は十人前後で、彼らは今夜、比叡山中のとある房で、焼き討ちの謀議を行うことになっている。そこを急襲しようというのだった。


「十人、それほど少数か」


 昨年、延暦寺が焼き討ちをかけて来た際は、数十人もの僧兵が蜂起し園城寺に押しかけた。もちろんそれほどの多勢を相手にするつもりは端からなかったが、それにしても頭数の少なさに公暁は拍子抜けした。


「そうか、今回の焼き討ちというのは、山法師どもの総意ではないのだな」


 一人合点してつぶやくと、少年たちの目に少し不安の色が射した。それならば襲撃は取りやめようと言い出すのではないかと恐れているのである。


「血気にはやった者の独断ということか。わしらと同じだな」


 にやりと笑ってみせると、皆はくすくすと笑った。幾分緊張がほぐれたようだった。


「しかし小さな火種も、捨てておけばのちのち屋敷が燃え落ちる大火となるものでございます」


 犬丸が偉そうに進言した。公暁を大将だとすれば、近習か軍師を気取っているのであろう。


「災厄になる前に、叩きつぶすべきでございましょう」


「案ずるな。一人残らず斬り伏せる」


 公暁は決然と言った。

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