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雪の灯(ともし)  作者: 李孟鑑
第一章 公暁
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死を恋う(一)

 建保三年(一二一五)が明けた。正月八日、園城寺では仁王会(にんのうえ)が行われた。五大力菩薩を祀り国の鎮護を祈願する、重要な法会(ほうえ)である。


 法会は、本尊の五大力菩薩を招請し供養する声明から始まる。声明とは、仏典を節と抑揚をつけて歌うように唱えるもので、一種の仏教音楽といってもよい。隆々と唱和される声明の抑揚に合わせ、石琴の澄んだ高い音が繰り返し響き渡った。


 声明がやむと、長吏の公胤が香を献じながら諸神のために経を上げた。仏教では、神とは迷界で業苦にとらわれるものとされる。そのため法会では、神分(じんぶん)といってまず神々の済度(さいど)のための読経が行われるのである。


 神分が終わると、いよいよ鎮護国家と万民豊楽を祈願する仁王経の読誦である。(かね)の音を合図に、居並んだ数十人もの僧侶の口から一斉に、怒号にも近い読経の声が湧き上がった。


 扉を閉め切った金堂は薄暗く、明かりといえばところどころに灯された蝋燭のみである。燃える炎に炙られて僧侶たちの顔がてらてらと赤く光った。鳴り響く鉦や鳴物(ならしもの)の音を圧して、読経の高唱は力強さを増して行く。分厚い声の塊は一個の物体となり、金堂の天井を押し上げ、地を震わせるかと思われる。馨しい香の香りに、僧侶たちの身から発せられる汗の臭いが交差した。蝋燭の炎と人々の体からほとばしる熱気がまじり合い、閉ざされた清浄の場に見えない渦を巻いた。


 やがて、清らかな鉦の音が響き、読経の声はやんだ。金堂は再び冷酷な静寂の空間へと戻った。護摩壇で護摩が焚かれ、仁王経の功徳を称えて、仁王会は終わった。僧侶たちは静かにくびすを返した。扉が開放された。人々は軽やかな衣ずれを従え無言の波となって扉の外へ流れ出て行く。見ればそこには、公暁(くぎょう)の姿もあった。


 手にしていた経本を懐に放り込み出口をくぐると、冬の外気が肌を刺した。俗界に戻って来た、そんな心持ちがした。公暁は堂を振り返った。堂内は薄闇がよどみ、その中には法会の熱気の残り火が、まだくすぶっている。目に見えぬ物の怪がうごめいているかのようだった。公暁の脳裏に、天地を震わせるばかりの凄まじい読誦の光景がよみがえった。あのように恐ろしげな法会で満願されるものとは、鎮護国家ではなくむしろ戦乱の到来ではないか、そんな思いがふとよぎった。


 房に戻ると、僧侶の一人が顔を出した。公胤(こういん)からの呼び出しであるという。


「長吏が。何の用だろう」


「さて、わたくしはそこまでは」


 襟を整え公暁はすぐに公胤の部屋へと向かった。廊下に膝をつき


「失礼致します」


 声をかけ戸を開けると、ひんやりとした空気が触れた。この老僧は真冬でも火鉢や手あぶりを使わないため、陽のあたらない今頃の時刻は、部屋は外よりも寒い。


 公胤は公暁に部屋に入るよう促した。そして、今朝方知らせがあったと言って、栄実(えいじつ)の法名を受け京に上っていた異母弟の千寿丸(せんじゅまる)が自害したことを、言葉少なに公暁に告げた。


「和田一族の残党と共に京の旅亭にいたところを、鎌倉の兵に囲まれ、自ら命を絶たれたという話じゃ」


「和田一族。それは」


 公暁は驚いたが、公胤が事件の顛末を語るのを聞くうちに、全身から血が引いて行くのが分かった。


 一昨年の五月、幕府の有力御家人であった和田義盛(よしもり)が、一族と共に将軍家に反旗をひるがえし、討伐されたことは既に述べたとおりである。しかし、乱は平らげられたが、滅ぼされた者の恨みは残った。生き残った和田の残党は、出家し京に上っていた栄実を再び擁立し、密かに挙兵の機会を探った。幕府に不満を抱く者を募り、幕府の出先機関である六波羅を襲って、そのまま栄実を大将として鎌倉と対峙するのが、彼らの計画だったのである。しかし直前になって事は露見し、十一月十三日、一条の旅亭に潜伏していた栄実らを、幕府方の兵が急襲した。栄実は和田氏の残党共々、自害して果てたのだった。


「将軍の血とは、むごいものじゃな」


 公胤は白い眉の下に目を固く閉ざし、低い声で栄実のために経を唱えていたが、しばらくしてそう言った。


「全ては、その身が持つ将軍家の血ゆえじゃ。それは力を持つがゆえに、我が血でありながら我が血ではない。望まぬまま、血が人を引き寄せ、乱を引き寄せる。むごいことじゃな」


 齢七十二になる高僧の、栄実への哀悼の言葉は、そのまま公暁に対して向けられた訓戒でもあったのであろう。


 だが公暁には、師の言葉の意味を考える余裕はなかった。一言も発せず、膝の上に乗せたこぶしを震わせるのが精一杯であった。


 二年前、泉親衡(いずみちかひら)が栄実を擁して謀反をはかったのは、もしかしたら噂どおり茶番であったかもしれぬ。だが今回和田の残党が栄実を選んだのは、決して茶番ではない。自らの誇りと運命を賭ける棟梁として、何よりも将軍の後継として、彼らは公暁ではなく栄実を選んだのである。


「――将軍の血ならば、わたくしの身も持っておりまする」


 思わず咽を裂くような声を絞った。公暁は公胤の顔を振り仰いだ。血の気を失った唇がわななき、師を見据える目からは今にも血が滴るかに見えた。


「――わたくしの血も、将軍より受け継いだ血にございまする。しかしわたくしの血は、人も乱も引き寄せませぬぞ。老師、これはいかなることにございましょうや」


「公暁、何という目をするか」


 公胤の声が険しくなった。


「そなたは世の乱れを望むと申すか。鎮護国家を祈願する仁王経の法会の日に、何ということを」


 公暁は首垂れた。頭をわずかに振って見せたが、だが膝に乗せられた二つの手は、肉に食い込まんばかりに衣を固く握りしめている。懸命に押し殺した息の音が、うつむいた頭から洩れ聞こえた。老僧はその様子を見守っていたが、やがて、公暁よ、と声を静めて言った。


「そなたはもはや武士ではないのだ。その荒ぶる心を捨てよ。尼御台所様(北条政子のこと)が何故、そなたを園城寺に入室させたか分かるか。わしのもとで修行させ、いずれ鶴岡八幡宮の別当にするためだけではないぞ。恐らくは、栄実殿のように政争に巻き込まれあたら命を失わせまいとのお心であったはずじゃ。そこをもう一度とくと考えよ」


 しおたれた草を踏みながら、木々の間の細道を公暁は房に戻った。公暁の房は境内の背後に面した山中にある。気づけば日の暮れが近く、葉もまばらな枝々の間から、陽の断片が足元に赤く滴った。がらんとした房では経机がひとり主を待っていた。机の周囲には経典、書物のたぐいが積んである。公暁があまり熱心に手に取らないために乱雑に散らばることもなく、石のように角をそろえて動きを止めていた。


 それらを圧するように、部屋の隅には弓とえびら(軽量の矢入れ)、そして政子から拝領した太刀が置かれてあった。太刀の鞘は黒漆が幾重にも塗り重ねられ、細工の細やかな黄金色の背金がほどこされてある。手を伸べ、公暁は鯉口を切った。獣の血脂で薄く曇った刃のおもてに、公暁の顔が不明瞭に映り込んだ。


 和田の残党が何故、公暁を擁立しなかったのか、公暁とてもそのわけはうすうす察していた。公暁の乳母夫(めのと)、三浦義村は、和田義盛とは従兄弟であった。そして義盛が北条義時への憤りをつのらせ、いくさの決意を固めた時、義村は義盛に説かれ、共に結んで戦うべく、一味同心していたのである。しかし、幕府軍と戦っても勝ち目が薄いと見た義村は間際で同心をひるがえし、御所に駆け込み挙兵を密告したのだった。義村のこの背信はのちに御家人からの侮蔑を買い、「三浦の犬は友を喰らう」と密かに嘲弄を受けることとなった。


 和田一族の敗北と滅亡は、何よりも義村の裏切りによるものが大きかった。一族郎党の、義村に対する恨みと怒りは計り知れない程に深い。公暁と栄実、二人の器量や資質を問う以前に、怨敵ともいうべき三浦義村を乳母夫に持つ公暁を大将に抱いて兵を挙げるというのは、やはりあり得ぬことであった。


 公暁も分かっているのである。しかしそのようなもっともらしい道理が、若い血にとってどんな慰めになろうか。いかに理性は納得しても、血と魂とは、苦しげにもがくのをやめなかった。世の乱れを本気で望んでいるわけではない。鎌倉の転覆を本気で願っているのではない。ただ自分自身の、父にも和田の旧臣にも嫡子と認められなかったそのありさまが、公暁にはみじめでならなかったのだった。


 耳に鳥の鳴き音が遠く触れた。雁の声であった。ぼんやりとした動作で、公暁は弓を取り上げた。弦を張り、おもてに出て見上げると、今まさに、雁の群れは頭上を高く飛び過ぎて行くところであった。公暁は矢をつがえ、引きしぼった。本重籐のこの弓は、公暁が近隣の職人に命じて作らせたのである。五人張りもあろうかという強弓を、両の腕は苦もなく引き切った。弦がきしり音を上げたと思うと、矢は太いうなりと共に枝の間をすり抜けて空を一筋に裂き、雁の首を深々と射た。悲鳴が空に響き、黒い影がキリを揉んで落下して行く様が見えた。


 三年余りの鍛練のすえ、公暁の武技は、今や確かなものになっていた。とりわけ弓の腕は、公暁にかなう者は園城寺の寺法師のうちにも誰もなかった。体も丈高く、そしてたくましくなり、勇猛の誉れ高かった父にも劣らなかった。公暁は、強弓を握りしめた腕をじっと見下ろした。肉が大きく隆起し、盛り上がった二の腕には血脈が、煮えたぎるようにふつふつと浮いている。しかし


「この身は、生き恥だ」


 絞るように、公暁はうめいた。もしも父が公暁を嫡子と認めていたならば、十一年前、母と共に命を落としたのは公暁であったはずだった。和田の旧臣が公暁を将軍家の後継として認めていたならば、幕府の兵に囲まれ京の旅亭で自害したのは公暁であったはずだった。しかし今、公暁は生きながらえている。魂は命を得、肉は血を存分に吸ってたくましく肥え太っている。鍛え上げられた肉体も優れた武技も、全ては嫡子と認められなかったがゆえの所産に過ぎなかった。そして、兄も弟も政争で命を落とした今、生きながらえたこの身が、公暁には忌まわしかった。

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