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雪の灯(ともし)  作者: 李孟鑑
第三章 政子
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密謀と密約(三)

* * * * *


 廊下に足音がして、政子はとりとめない物思いから覚めた。視線を上げると、ちょうど、戸口に墨染めの衣が現れたところであった。入って来た壮年の僧侶は音も立てずに床に座り、平伏した。


「ようこそおいで下さいました」


 ――三十年以上前のことになる。頼朝は鎌倉御所に仕えていた女房の一人を見初め、寵愛したことがあった。彼女は名を大進局といい、源為義の曾孫にあたる血筋であった。為義は頼朝の祖父でもあるから、二人の関係は大叔父と従兄弟姪ということになる。


 政子がその存在を知った時、大進局は既に頼朝との間に子を生んでいた。しかも、それが男子であると聞かされ、政子はその後にも先にも例がないほど、取り乱した。嫡子の頼家はこの頃既に誕生していたが、今しがた述べたように大進局は源氏の一族である。生まれた赤子の持つ血の濃さが、家督相続において頼家をおびやかすことを、政子は危惧したのだった。


 ひとつ間違えば斬り殺されかねないすさまじさで政子に迫られた頼朝は、大慌てで大進局を遠ざけた。当時、大進局は家臣の長門景遠の屋敷に身を寄せていたのだが、長門景遠は政子の追求から逃れるため、大進局と赤子を連れて深沢に隠居している。ちなみに、頼朝が目を盗んで深沢に通った形跡はない。女好きの頼朝らしくないようだが、政子の怒りがそれ程激しかったということだろう。


 将軍の子でありながら出産の儀式も行われず、乳母もつけられず、あたかも罪人のように人目をはばかりながら、母子はそのまま数年を深沢に隠れ住んだ。しかし、実朝を身ごもったのを機に政子は再び執拗な探索を開始し、とうとう頼朝は二人を鎌倉から逃がした。七才になっていた男子は京の仁和寺に入れ、大進局には京から程近い伊勢国に所領を与えた。大進局が男子を連れてひそかに鎌倉から出奔する前夜、頼朝は初めて二人を深沢に訪ね、手ずから太刀を与えたといわれる。


 嫉妬深いことで知られる政子ではあるが、この事件での感情の激しさ、行動の執拗さは目を引く。怒りよりも恐怖の産物であったに違いない。


 そうして、あの時政子を芯から憤らせ、恐怖させた男子が、今目の前に座っている僧侶なのだった。法名を、貞暁という。


「ようこそおいで下さいました。かような山の中にわざわざ足を運んで下さるとは」


 貞暁は低い、穏やかな声で言った。挨拶の最後に「失礼致します」という声がかぶさって、少年僧が盆を携えて来た。膝元に置かれた椀の中に、濃い茶がとろりと揺れた。僧・栄西によって宋からもたらされた喫茶の習慣は、座禅の間の眠気を払う薬湯として、まず僧侶の間に広まった。政子は話の前にと、まず椀を取った。そっけない苦味が舌に溶けた。京で喫した茶は、苦味の中にも何やら華やぎのようなものが感じられたが、この茶はただただ、苦いだけである。寺院の茶は口を楽しませるものではないのだからと思いつつ、一方では、この者が出す茶にいかにも似つかわしいではないかと、目の前の僧侶の顔を眺めやった。


 政子が貞暁に会うのはこれが初めてではない。十年前にも一度、ここ高野山に貞暁を訪ねたことがある。その時、貞暁は年令を二十二だと言っていたが、面立ちには大進局の影が色濃かった。現在三十を少し超えた貞暁の顔にはもはや母親の面影はない。骨格のがっしりした顎の辺りにはどこか頼朝を思い出させるものがあったが、それ以上に政子の目に強く印象づけられたのは、重い、老成した空気であった。こうして眺めると、しわが刻まれているわけでも、頬が垂れているわけでもないのに、実際の年令よりもずっと老け込んだ顔つきに見えるのである。一見したところでは、一体幾つくらいなのか、年令が判別できぬ風貌にも見えた。


 茶を喫しながら、貞暁の面立ちにとらわれていたために、かなり長い間、沈黙してしまっていたうかつに、政子は気がついた。貞暁はといえば、政子を待つでもなく、待たぬでもなく、時の流れの外に座っているようである。人に話をするために来てつい黙り込んでしまうなど、普段の政子では考えられぬ失態であった。自分としたことが、この男に呑まれているのだろうかと、政子はこのように静かな姿を前にしてもなお、腹の探り合いのような生臭い心持ちを捨てかねた。


「先日まで京にいたのですけれどね」


 平静を装って、政子は口を開いた。


「ここは東へ下る路の途中にあたるゆえ、ちょうどよい機会と思い、立ち寄らせてもらったのです」


「ご上洛については昨日、使いの方から聞き及びました。縁組があったとのことで、まことにおめでとう存じます」


「それもあるけれど、もうひとつ、上皇様に、皇子を東下させていただくよう、お願いに参ったのですよ」


「はい」


「使いの者はこのこともそなたに申したかえ」


「使いの方ではごさいませぬ。先日、京の仁和寺から旧知の者が参りまして、京の草草を語ってくれました。その時、話の折に、今しがたの件も語り置いて参りました」


「困ったことですよ。信子殿を京より迎えてもうそろそろ二十年になるというのに、鎌倉殿にはいまだに、子がありませぬ。だのに、側室を入れるのは気が進まぬと仰せられて。皇家から御養子を望まれたのです」


 と、御所の内情をあけすけに語って見せたが、貞暁はかすかな笑みを見せたまま、赤子は神仏からの授かりものであるから、と穏やかに答えただけだった。


 政子が探りたいのは、どこかの御家人がこの僧に接触を図ってはいなかっただろうか、という一点であった。しかし貞暁はあたかも盆の上に茶菓子でも並べるようにして、淡々と事実を述べるだけである。先程から注意深く観察しているが、語る貞暁の表情にも声にも乱れは感じられない。外交の波を渡って来た政子にも、その胸の内はどうにも見透かすことが出来なかった。


 政子は一度置いた膝元の椀を再び取り上げた。いつしかオオルリの声はやみ、透明な静寂だけが一帯を覆っていた。


「京はまことに華やかじゃ。だが、少し心が休まらぬ思いもする。ここは静かなこと」


「高野山は死人(しびと)の国にございます。それゆえでございましょう」


 思いも寄らぬ言葉に、政子は相手の顔をまじまじと見返した。年令も老若も判別しがたい相手から、ここは死人の国などと言われては、何やら気味の悪いものがある。


「死人の国とは、異なことを」


「落飾した時から我ら僧侶は死人でございまするゆえ。安養院様も仏門に入られた身ですから、お分かりでございましょう。このように、俗世から遠く隔たった山深い庵で仏の教えと向き合うておりますと、俗世のことは耳で聞いたとて腹の中には落ちて参りませぬ。全ては前世か来世のことのように、遠く隔たって感じられまする」


 だが、深沢の庵に罪人のようにして隠れ住まなければならなかった日々や、ついには母子共々鎌倉を追われた不条理を、貞暁が忘れているとは思われない。また、全ての発端が、涼しい顔で自分の目の前に座っている尼僧であることも、忘れているはずはない。初めて会った時も考えたことだったが、そうした恨みの感情は、この僧侶のどこにあるのか。情念同士が生々しく絡み合う政の場に身を置く政子は、そんなことを考えずにはいられなかった。


 この男は、言葉で叱責しようが手で打とうが、腹の底に横たわる恨みの泥を決して吐き出すまい。ふと政子は思った。そしてそう思うと、この状況に耐えがたいいらだちを覚えた。


 空になった椀を、政子は膝元に置いた。高台が床板にぶつかる鋭い音がした。


「貞暁殿、起請文をお書きなさい」


 それまでの穏やかな表情を脱ぎ捨て、政子は居丈高に命じた。


「今しがた申したように、鎌倉は家督相続で揺れておる。これだけ申せば、何の起請文か察しましょうな」


「承知致しました」


 間髪入れず貞暁は返答した。政子からの言葉を半ば無視する形で承服の意を示し、頭を下げた。十年前にも、貞暁は政子に求められるまま、起請文を書いたのである。それはもちろん、将軍の後継者の権利を放棄すること、どのようなことがあっても眷属せぬことを誓ったものだった。起請文は神仏に誓いを立てるものであるから、改めて同じ起請文を書けというのは非礼な話だった。政子もそこは承知している。何か反駁をするかと見守ったが、貞暁は風になびく葦のように、ただ黙って平伏した。


 貞暁は背を伸ばして人を呼んだ。先程茶を運んだ少年僧が姿を見せ、貞暁はすずり箱を命じた。足音が遠ざかってまた戻り、すずり箱を置いた文机が据えられた。貞暁は墨をすり紙を広げた。十年前と同じ光景が繰り広げられた。


 やがて、書き終えた起請文を少年が受け取り、政子に渡した。鎌倉将軍の後継者の地位を望まぬこと、眷族はしないこと、誓いの文言が記されている。そのあとに大日如来を頭に菩薩、明王の名が列挙され、誓いを破った際はこれら神仏の罰を受けると明言してあった。全てが作法にのっとった文面である。非の打ち所のない、しかし取り立てて何かを感じるところのない起請文であった。


 これが、頼朝の血を引く男子かと、政子の胸には複雑な感情が湧いた。この男の頭にあるのは自らの保身だけであるようだった。そのためには感情を殺し、思考を捨て、ただ草のように無害な皮をかぶり続けるのだろう。そもそも棟梁の器ではない。たとえ誰かが焚き付けたとしても、将軍の座を狙おうなどとは思うまい。ある種の安堵と、そして侮蔑の思いが胸をよぎった。


「確かに受け取りました」


 言いながら、政子は起請文を収めようとした。その時、


「貞暁様、何をなさいます――」


 少年の怯えた声が、それまで静かだった部屋の空気を裂いた。と同時に、視界の端に何か羽虫のようなきらりとしたものがかすめた。それが鋭い錐の先だったと政子が思い当たったのは、部屋から下がったあとのことである。この瞬間、起請文のことにばかり意識を向けていた政子は、目の前で起こったことが理解出来なかった。貞暁は右の目を両手で覆っていた。重なり合った手の下から細い柄がわずかにのぞいていた。


 政子と少年が息を呑んでいる前で貞暁はすずり箱に錐を戻した。赤いものが流れ出たと見えたのも束の間、たった今潰れた目は懐紙で隠れた。


「安養院様。貴女様が求めるならば、わたくしは幾度でも起請文をしたためましょう。ですが、それでは貴女様のお心から不安が去ることは決してありますまい」


 言う間にも懐紙にはじわじわと赤い血がにじみ、止める間もなく顎に筋を描いて伝った。


「今この時をもって、わたくしは滅しました。仏門に入った時に俗体を捨て、今、法体をも捨て申した。此岸にも彼岸にもおらぬ者を将軍にしようとは誰も思いませぬ。これで鎌倉御所は安泰。これがわたくしの起請文にございます」


 それだけ言うと、貞暁は短い挨拶を残して立ち上がった。政子は一瞬、胸を突かれる思いがした。その面立ちは頼朝によく似ている。――いや、似てはいない。顔かたちを言えば、貞暁はやはり、父親とはそれ程重なり合うところはないのである。であるのに、この瞬間、政子は頼朝の影をそこに見た。泥のような忍耐強さと、岩のように固い意志とを。


 それまで身じろぎも忘れて成り行きを見守っていた少年は、はじかれるように師のかたわらに駆けつけ、体を支えた。


 支えられながら貞暁が部屋を下がると、別の僧が顔を出し、政子を戸口まで送った。部屋を下がりしな、政子は今一度、文机の上に置き捨てられたままのすずり箱を振り返った。黒漆が塗られた箱の中に、細い錐が冷たい、異様な光を放っていた。


 社を出ると体を打つように風が吹き付けた。今はもう、オオルリの声はいずこかへ去っていた。春特有の、粉を刷いたような空から、無機的な静寂が政子を見下ろした。


 あの錐は、始めからすずり箱に潜ませてあったのだ。政子が使いを送って面会したいと申し出た時、貞暁はその意図をすぐに察したのだろう。起請文は神仏を証人に誓いを立てるものである。だが、生臭い政の場では神も仏も何の力もない。それゆえにあの男は自ら不具者となった。


 しかし、それが鎌倉の安寧のためなどではないことは、政子には沁みるほど分かっていた。貞暁が突きつけたものは、現世に対する否定であった。目の前にいる政子はもちろんのこと、鎌倉御所、自らを産み落とした父母、何もかもに貞暁は背を向けた。あの細い錐でもってこの世を裂き、全てを自分の周りから消し去ったのである。政子はきりりと歯噛みをした。


「わたくしの負けじゃ」


 低くつぶやいた。よりにもよって貞暁に全てを見透かされて先回りされたことが、何とも言えず悔しかった。

(第一話・了)

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