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雪の灯(ともし)  作者: 李孟鑑
第三章 政子
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密謀と密約(二)

 急に、兼子はこちらにひたと視線を向けた。どこか見るものをひやりとさせる視線である。政子は何とはなしに、心の内を見透かされたのではないかという気がした。しかし兼子はただゆるゆると微笑みを作り、近々、頼仁親王との会談の席を設けましょう、とだけ言った。


「官位のこともございますね。日を置かず、廟議に申し入れをしなければ」


 上皇の皇子を迎えるならば当然、実朝が養父となり、政子は養祖母ということになる。しかしそのためにはそれ相応の官位がなくてはならない。養子の件が決まる前に官位を上げておき、いわば既成事実を作ってしまおうと兼子は言っているのだった。


「ああ、そうそう、鎌倉殿のことを忘れておりました」


 兼子は胸元でぽん、とひとつ手を打つと、かすかに意味ありげな笑みを政子に向けた。


「使いの者が参っておるそうではございませぬか。鎌倉殿には左大将の任命をお望みとか」


「これは。卿局(きょうのつぼね)様には何もかも、筒抜けでございますね」


 と感服して見せたが、腹の奥から苦いいらだちがこみあげ、不快な酸っぱさとなって咽にしみた。兼子の言うとおり、現在、実朝の使者として波多野朝定が在京していた。朝定は到着後すぐに政子の旅亭を挨拶に訪れたのだが、政子はその時初めて、右大将を望んでいたはずの実朝が、左大将の叙任を求めて朝廷に働きかけを行っていることを知ったのである。


「少々苦労しておるようですから、こちらもわたくしにお任せなさい。口を利きましょう」


 兼子はいかにも機嫌の良さそうな口ぶりで、助力を申し出た。


「鎌倉殿にはいずれ、太政官に連なっていただくことになりましょうねえ。皇子の御養父になられるのですから」


 兼子はひとりで言葉をつらつらと続けた。政子のいらだちにはまるで気づいていないようだった。いや、もしかしたら、気づいていながら知らぬふりを決め込んでいるのかもしれない。そうなのだった。皇子を将軍家に迎えるなら、実朝にも相当の官位が要る。少なくとも、左右いずれかの大臣くらいは必要であろう。太政官に入るということは、京で朝政に参与することである。鎌倉将軍と朝廷の必要以上の接近は、政子だけではなく、御家人の望むところではなかった。しかし皇子を迎え、朝廷の後ろ楯で国々を治めようと画策するならば、これは飲まねばならない毒であった。


 この件に兼子を深く関わらせ過ぎたかもしれないと、政子は懸念した。養子の件だけでなく、実朝の昇進のことまでも兼子が主導するとなると、その貸しは大き過ぎる。のちのちの憂いになりかねなかった。しかし、こうなった以上、政子には申し出を断るという選択肢はなかった。兼子の機嫌を損ねるようなことがあれば、養子の件そのものが反故になってしまいかねない。


「ご厚意、感謝申し上げます」


 政子は腹を決めて、兼子の前に頭を下げた。


「上皇様との謁見も、わたくしにお任せ下さい。さあ、政の話はここまでと致しましょう。殿方の難しい遊びはやめて、安養院殿、旅の話など聞かせて下され」


 兼子は視線を廊下に流して、手を打った。華やかなざわめきが起こり、女官たちが次々と膳を運んで来た。


 官位云々と言った兼子の言葉に嘘はなく、政子の叙位は在京のうちに実現した。従三位。これは、出家した婦人の官位としては異例のことである。兼子の発言力の確かさを、政子はあらためて思い知らされた。


* * * * *


 そののちも、政子は兼子と会談を重ねた。これは政の密議よりも互いに親交を深めるためのものであったから、会談は主に、洛中近郊にある兼子の別邸で、のどかな田園風景を楽しみながら行われた。三度目に邸宅を訪れた時、兼子は約束どおり、会食の席に頼任親王を同席させ、政子に引き合わせた。


「宮様、安養院殿とは長いお付き合いになります。失礼があってはなりませぬよ」


 意味ありげな言葉の意味を問い返すこともなく、頼任親王は素直に政子に向かって挨拶を述べた。頭を垂れて会釈しながら、政子は素早く姿形を観察した。顎の線のやわらかい細面で、筆で引いたような目尻や薄い唇に育ちの良さが垣間見える。背丈は、想像していたよりもひと回り高かった。そして体つきは、幼い頃から武技を好んだためか、決して華奢ではない。もちろん、鎌倉の武士どもの屈強さには遠く及ばなかったが。


『ああ、これならば』


 政子は満足した。皇子は学問を好み、聡明な人柄と聞いていた。それはわずかに言葉を交わしただけでも察せられたけれど、政子にとってそんなものはどうでもよかった。たとえ愚鈍な皇子であったとしても、それはいくらでもごまかせる。ごまかしが効かぬのは、容姿、見た目の印象である。政子が重きを置いていたのはそこだった。


 いかにも京の公家らしく、背丈の低い華奢な将軍では、御家人たちの信望を集めるのは困難である。といって、東夷をひしぐような偉丈夫では貴人の匂いが乏しく、これはこれでまた困る。この頼任親王は、あたかも武家の土から生い立ったような体躯を持ち、しかしそれでいて、東国の者が決して持ち得ない高貴の匂いを備えていた。皇子が実朝の後継として皆の前に頭を高々と持ち上げ、その背後に後見である政子と執権の義時が控える……。華々しい光景が胸をよぎり、政子は一瞬、自ら描いた幻影に酔った。

「まこと、手塩にかけてお育てした甲斐がありました」


 兼子はにこりと微笑んだ。初めての会談で見せた、執政者の顔とはまるで別人の、温かみに満ちた「母」の顔だった。が、その顔を見た時、政子の胸を何かがよぎった。この顔は兼子の素顔ではない、ありていに言えば、政子が悟ったのはそういうことだった。政を語る冷静な実務家、田園風景の中を共に散策した時に見せた人の良い老婦人、そして頼任親王に向けた愛情深い母親の顔、どれも兼子が装った顔に過ぎなかった。いや、それだけではなく、周囲の人間が眼にする、どの顔、どの人となりも、恐らく藤原兼子の素の顔ではなく、彼女が作った面なのだ。兼子の私室にはかぶるべき面がまだまだ山と積まれているに違いない。もしかしたら、生れ落ちてこの方、兼子の素顔に接した者は、上皇や前夫の藤原宗頼、今の夫である藤原頼実も含めて、誰もいないのかもしれなかった。


『思った以上の食わせ物かもしれぬな』


 皇子と兼子を交互に見比べながら、政子は心の中でつぶやいた。狸か狐か、それとも(テン)か。頬にふっくらと肉がついているところを見るに、やはり狸婦人と呼ぶべきであろうか。


 しかし、政子は兼子の欺瞞に気づいても気分を害することはなかった。むしろ、かえってこの穏やかな面を着けた古狸に好意を抱いた。政子は、手の中で簡単に転がすことが出来る相手は、本能的に蔑視する性質を持っている。自分はたいていの人間よりも聡明だという自負があるから、本能的に厄介で扱いづらい人物を好む傾向があるのである。


 思えば、生涯の伴侶に選んだ頼朝が、まさにそうした人物だった。例えば政子がその知恵をもってもどうにもならなかったものに、夫の女癖の悪さがある。一夫多妻が当然だった時代ではあるけれど、政子はこれだけは我慢がならなかった。これは彼女の愛情深さから来たものでなくもないが、それよりもむしろ自尊心から来ている。老若にかかわらず、世の全ての女よりも、政子は頼朝をよく理解する者であり、優れた軍師であり、二男二女を産み落とした良妻である。そしてそれは決して大げさではない。であるのに、どう見ても自分より愚かで、物も知らない女の尻に、頼朝はくっついて行きたがる。それが政子にはどうしても理解出来なかった。


 そしてまた憎らしいことに、浮気がばれた時の頼朝は、実に真摯に謝罪する。その姿に政子が矛を収めると、たちまち奥仕えの女官を寝所に引き入れる、その繰り返しであった。


 のちには政子も実力行使に出るようになった。頼朝が愛妾亀前(かめのまえ)を三浦の家臣の家に住まわせ、狩りと称して通っていたことがある。これを知った政子は人を駆り集めるや、襲撃して屋敷を打ち壊させ、亀前は小船で命からがら逃れた。その他にも、政子の怒りを恐れて密かに鎌倉を逃れた者、政子の命で鎌倉を追われた者は幾人もいる。


 しかし、矛盾するようだが、決して飼いならされぬ夫であったからこそ、政子は頼朝と添い遂げることが出来たとも言える。夫の浮気癖に、政子はいつも身がよじれる程の怒りを覚えて来たが、実はこの女傑が本当に我慢がならないのは、政子の怒りの前に萎縮して、行いを慎んでしまうような男なのだった。

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